第66章―5
さて、明政府はこのような現状にあったのだが、李氏朝鮮政府は16世紀末のこの頃にどのような状況にあったのか、というと。
こちらも明政府に負けず劣らずの状況にあったというか、朝鮮政府の文官、官僚は政府内での党争に明け暮れていたというのが現実だった。
そもそも論になるが。
李氏朝鮮政府だが、建国に功績のあった勲旧派と、外戚が14世紀末の建国以来の暫くの間は対峙する事態が続いていたが、歴代の中国王朝の科挙を見習って、李氏朝鮮政府も官僚の登用方法として科挙を採用したことから、15世紀後半以降は科挙によって採用された官僚を中心とする士林派が第三勢力として力を付けるようになった。
(尚、この党争が激化した背景として、勲旧派や外戚の主な出身が大地主層であるのに対し、士林派は中小地主層を主な出身とするという出身階層の違いから、自らの出身階層の利益をお互いに図り合ったというのがあった。
このために容易に妥協することがお互いにできなかったのだ)
そして、勲旧派、外戚、士林派は激烈な党争を、15世紀後半から16世紀半ばに掛けてお互いに繰り広げることになったが、途中経過を思い切り省略する描写になるが、1567年以降は士林派が朝鮮政府をほぼ牛耳るようになった。
それで、士林派が朝鮮政府を抑えるならば、それなりに政治は安定しただろうが。
こうやって激烈な党争を行って勝利を収めれば収めた結果として、
「ろくな功績を挙げていない彼奴が何で出世したり、褒美を貰ったりしているのだ」
と勝者の内部同士で、お互いにやっかみ合う事態が多発するのも、歴史の常、人間の性である。
1575年には士林派は、東人派と西人派に完全分裂して党争を引き起こすようになった。
この党争は1591年に東人派が勝利を収めたと言える状況になったが。
今度は東人派が北人派と南人派に分裂して内部党争を引き起こして相争うようになってしまった。
そして。1600年の時点では南人派が朝鮮政府を握っているといえたが、西人派と北人派は政権奪還を虎視眈々と狙っており、南人派としても気が抜けない状況だった。
ともかく、南人派も西人派も北人派も結局のところは、
「まずは自らに敵対する派閥を完全に潰すのが第一、日本への対策はその余力で行う」
という方針に凝り固まっていた。
この辺りは究極のところは、上級官職になる程、当然に就任できる人数が限られることになるが、その一方で勢力を蓄えようとすれば、人を多く集めた方が有利という矛盾した状況からだった。
士林派で上級官職を独占しようにも、その官職の数は限られている。
だから、俺が俺がという対立が起きて東人派と西人派が成立し、東人派が勝てば終わりになれば良かったのだが、勝つために人を集めたことから、官職に就ける人が限られてしまい、又もや南人派と北人派に、東人派が分裂するということになったのだ。
そして、この分裂抗争を陰から更に煽っていたのが、日本だった。
様々な伝手や金やモノを使って三派の抗争を煽って、朝鮮政府の意見がまとまらなければ、日本への対応も一貫しないことになり、困難になるのは自明のことだからだ。
実際に倭寇対策にしても朝令暮改で、現場を無視した首都で行われた机上の空論による命令が、現場では相次ぐといっても過言ではない有様で、李舜臣を始めとする武官の多くが、これでは倭寇とまともに戦えない、と考えて当然の惨状だった。
例えば、ライフル銃に対しては白兵戦を刀や槍で挑めば良いのに何故にそうしないのか、という命令が出る有様だったのだ。
ともかくこうしたことから、朝鮮でも軍の質は落ちる一方であって倭寇の跳梁を防ぐどころではない有様だったのだ。
実はこの朝鮮政府の党争については、日本の介入以外はほぼ史実を参考にしていますが、どうかご寛恕を。
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