第65章―6
さて、伊達政宗がどのような方法で、日系植民地の独立問題で暗躍しているかだが。
「島津亀寿様、如何お過ごしですか」
「これは上里愛ではないか。わざわざ来るとは何事かな」
「いえ、薩摩の豚肉の現状について忌憚のない御意見をお伺いしたいと考えまして」
「元イスラム教徒が豚肉の話をしたいと言って良いのか」
「これはきついことを」
「まあ、良かろう」
島津亀寿と上里愛は、胸襟を開いた会話を始めた。
さて、(この世界の)島津亀寿だが、島津義久の後を継いで衆議院議員になっていた。
これは島津家の後継問題がこじれにこじれた末の一つの結末だった。
さて、島津家の本来の当主は島津義久だったが、義久には成長した息子はおらず、娘が3人成長しただけだった。
そして、このことが却って義久を意固地にさせて、自分の女系の孫を島津家の当主に据えたい、という考えを持たせることになった。
そうしたことが、三女の亀寿を義久からすれば甥になる、島津義弘の長男の久保にまずは嫁がせ、久保が病で早世した後は忠恒と亀寿を結婚させる、という方策を義久に取らせることになった。
だが、この義久の考えは却って忠恒と亀寿の夫婦仲を不幸をもたらせた。
結果的に亀寿は嫁いだ後、久保や忠恒の子を10年余りも産まなかったのだ。
そして、時代背景もあり、亀寿が30近くになったことから、忠恒は妾を持ちたいと考え、亀寿も自分の年齢もあって不承不承、承諾したのだが。
(細かいことを言えば、亀寿は1571年生まれ、忠恒は1576年生まれである)
それを聞いた義久は激怒して、忠恒が妾を持つなら、島津家を(義久から見れば女系の孫になる)島津久信を自分の養子にしてに継がせるとまで言い、忠恒は義久の怒りの背景には亀寿がいるとして、亀寿を厭うようになったのだ。
夫が妾を持つのを認めた亀寿にしてみれば、とんだとばっちりである。
(ちなみに義久は1533年生まれであり、時代的に60歳を過ぎた以上、衆議院議員を引退すべき年齢に達してもいた)
こうした島津家の状況で暗躍したのが、実は伊達政宗で、女性同士ということもあって上里愛が現場工作を担うことになった。
政宗は保守党の上杉景勝というワンクッションを置いた上で、島津家に対する工作を行った。
(尚、景勝にしてもこの工作に乗る利益があった。
保守党の初代党首であり、更に「皇軍来訪」以前からある島津荘の関係から、摂家の近衛家とも通じている島津義久の身辺がゴタゴタすることは、保守党の党内印象を落とすことであり、景勝にしてみれば看過できることではなかった。
更に言えば、景勝以外にも表立っては言えないが、景勝に同調する保守党の衆議院議員は、同様の理由からそれなりにいたのだ)
そして、上里愛が島津亀寿らと話し合って工作した結果。
島津義久は衆議院議員を1598年の選挙には出馬しないことで引退し、島津亀寿が義久の地盤を受け継いで衆議院議員選挙に出馬することにする。
島津忠恒は、実父の島津義弘の後を事実上は継いで、当面は陸軍士官の道を歩む。
更に島津忠恒と島津亀寿は、お互いの仕事が違い過ぎることから、当面の間は別居する。
という妥協案を島津家の面々は受け入れることになった。
更に、島津義久を完全に外して、島津忠恒は日本本国外での勤務を当面は続けて、そこで妾を持つのを亀寿は知らぬ顔をすることまで、愛は忠恒と亀寿の間で話をまとめたのだ。
亀寿にしても、10年余りの妊活に完全に疲れており、更に実父の義久からの子どもを産め、という圧力に困り果てていたという事情も有った。
だから、愛の工作に忠恒どころか、亀寿も積極的に同意することになって、島津家は落ち着く事態が起きたのだ。
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