第9章ー2
少なからず話が戻るが、皇軍が日本本土帰還を果たして、各地に国司制度を復活等させた後。
皇軍関係者は、日本国内の流通網を整備(具体的には道路や港湾建設等)することで、日本の経済発展を促そうと考えたのだが、思わぬ盲点に頭を抱えることになった。
それは、戦国時代である以上、自分達のやってきた昭和の頃とは様々な地形が違う。
特に河川の流路が違い、また、水害が多発していることが分かったのだ。
これらの問題は、何としても解消される必要があった。
特に皇軍関係者から重大視されたのが、利根川、信濃川、大和川、更にいわゆる木曽川等の濃尾三川の河川改修による治水対策だった。
何故かと言えば、これらの河川は複数の国が協力して行う必要があり、極めて大規模な治水対策になることが必至、と当初から考えられたからである。
そして、これらの対策は、当然のことながら、地元の住民の間に様々な利害の対立をもたらした。
例えば、利根川については、足尾銅山の鉱毒対策や関東地方の経済的中心地として江戸を発展させようという思惑等々から、大規模な東遷計画が立てられ、実施されることになったのだが。
(これまで江戸湾に利根川は注いでいたが、この世界では皇軍関係者の強力な主張により、史実では江戸時代に行われた利根川東遷が早まったのだ)
この決定に主に武蔵の住民は賛成したが、逆に常陸南部や下総北部の洪水の危険が増す、として佐竹氏が主に音頭を取って、常陸や下総の住民が大反対運動を起こすようなことも起こった。
大和川でも似たようなものだった。
こちらでは大和、河内、和泉、摂津各地の住民が絡み合い、激論が交わされることになった。
特にこちらでは、農民のみならず、堺の商人の利害も絡んでいたために深刻だった。
(大和川をいわゆる西流させて、大和川の洪水を減らそう、という計画だったのだが、この計画が実施された場合、堺の発展の礎となっている堺の港が、大和川によって運ばれる土砂によって埋め立てられ、港湾機能が徐々に消失する、と懸念されたのだ)
散々、議論されつくした末に、堺の商人が、大阪に移転する際には補助金が支払われることが決まり、これによって、大阪がいわゆる天下の台所になる基盤が整ったが、堺は衰退することになった。
そして、信濃川の分流工事も大荒れに荒れることになった。
それこそ分流工事自体が難航するのが地形的にも明らかだったからだ。
この当時、越後の国司代は、皇軍の来訪に伴う裁定により、越後守護を務めていた越後上杉家を相続していた長尾為景の四男、上杉景虎だったが。
この分流工事実施に伴う現地の国衆、住民の利害調整に苦慮して疲れ果てた上杉景虎は、越後を出奔して陸軍士官になるという大騒動が起きる程だった。
(なお、上杉景虎は、姉の嫁いでいる長尾政景に後は全て任せた、という書状を残して出奔しており、紆余曲折の末に、最終的に長尾政景が貧乏くじを引いて陰で泣き、姉は永く弟を許さなかったという)
そして、1552年現在、大和川の改修工事は完了していたが、利根川、信濃川の工事は着工はされていたものの、まだまだ完成には歳月がかかるとみられる有様だった。
その一方で、濃尾三川の改修工事は、ようやく完了することになったのだ。
これは、美濃、尾張、伊勢の三国が積極的に協力したことと、伊勢長島願証寺が濃尾三川の流域にあり、洪水被害に遭うことが多発していたことから、それこそ三国以外からも農閑期になると本願寺の呼びかけによって、工事の応援に駆け付ける門徒衆が絶えなかったことが大きかった。
特に三河や近江から駆け付けた門徒衆の援けが無ければ速やかに工事が完成することはなかっただろう。
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