第64章―2
上里清は、実験場に立った際にこれまでの反応兵器(原爆)開発に関して、様々な苦労をしてきたことを回顧せざるを得なかった。
ウランの分離濃縮からプルトニウムの製造、更にそれを兵器にすることについては、本当に様々な苦労が絶えなかった。
最初に反応兵器の実用化の方法として考えられたのは、ガンバレル型だった。
極めて簡略に言えば、核分裂の臨界量に達する核物質を分離しておき、使用する際には火薬の力を利用して核物質を激突させて臨界を達成、それによって反応兵器として使用する代物だった。
だが、実際に反応兵器の開発を進めてみると、ガンバレル型方式でプルトニウムを使用するとプルトニウム240の混入による過早爆発のリスクが極めて大きいと理論上証明されてしまったこと、又、ウラニウムを使用して製造するにしても、核反応の効率が極めて悪い等の問題点が指摘されたことから、(この世界では)ガンバレル型の反応兵器開発は紙の上だけで終わってしまった。
そして、次に考えられたのが、いわゆる爆縮レンズを使ったインプロージョン型の反応兵器開発だった。
インプロージョン型ならば、ウラニウム以外にプルトニウムも使用でき、又、核反応の効率も良いと考えられたことからの方法だった。
だが、この方法による反応兵器製造も一筋縄ではいかない事態が待っていた。
何しろ「皇軍知識」でさえ、爆縮レンズは知られていない代物だったのだ。
その一方で、これまでの爆薬加工の知見から、爆薬レンズが造られるようになっており、それを応用することで爆縮レンズが実際に造られたのだが。
(やや専門的な話で、史実を絡めたメタい話にもなるが。
「皇軍知識」に基づく火薬学ではCJ理論には到達していたが、史実ではノイマンらが開発したZND理論には到達していなかったのだ。
爆縮レンズ製造には、このZND理論がほぼ必要不可欠である。
そして、「皇軍来訪」から60年近い歳月によって、この世界ではCJ理論の次に来るZND理論を開発、理解することができて、爆縮レンズ製造が可能になった次第だった)
このZND理論を、メタい話だが、この1600年当時に人に教えられる程に完全理解できているのは、世界で10人もいないと言われるような世界最先端の理論だったことから、半ば暗中模索で現場では製造等を試みる事態が生じることになった。
何しろ、開発、製造された反応兵器が、実際にZND理論に基づく計算(当然のことながら、こういったことには検算が必要不可欠なことも合わさって)によって爆発するかどうか、を確認するのに1年近くも掛かるのだ。
そのために途中で微調整ができるようにしつつ、計算と製造が並行して行われるような事態が起きてしまった。
勿論、そこまで急ぐ必要は無い、まず計算を終えた上で、製造を行えばよいのでは、とそれこそ上里清自らまで、そういった趣旨の声を挙げたが、最初はできれば良いな、で区切りからして1600年を目指すか、だった現場での数字が、いつの間にかそれこそ(勿論、ごく限られた人間に絞られていたが)軍内部どころか政府最上層部にまで独り歩きしてしまい、1600年までに何とか反応兵器を開発できないか、いや、何としても開発しろ、という命令と化してしまったのだ。
そして、こういった上層部からの無茶ぶりに、現場が結果的に応えてしまった結果、1600年8月に、この世界の日本は反応兵器の実験を行うまでに漕ぎ着けることができたのだ。
上里清は荒涼たる風景を見つつ、これまでのことを回顧し、更に未来を考えた。
もし、反応兵器が恐るべき威力を持っていたら、世界がこのような風景ばかりになるやも。
本当に怖ろしいことだ。
爆縮レンズ製造について、色々と間違っているかもしれませんが、生暖かい指摘を平にお願いします。
ご感想等をお待ちしています。




