第61章―7
ともかく(この世界の)藤堂高虎は、レヴァント地方の対ゲリラ戦における活躍で、酒井忠次から目を掛けられるようになり、様々な指導までも陸軍の軍人どころか軍政家としてまでも受けられることになった。
(これは(この世界の)酒井忠次が、北米大陸を日本の植民地とし、更には北米共和国の土地にまでする際、徳川家康(松平元康)の右腕として活躍し続けた経歴によって得た経験及び知識等に基づく指導であり、そういった指導を藤堂高虎は受けることで、自らの血肉とすることができたのだ)
そして、レヴァント地方がある程度安定した後は、今度は上里勝利の介入によって、藤堂高虎は陸軍を辞めて文官としてバルカン半島に派遣されて同様に対ゲリラ戦に対処することに藤堂高虎はなった。
(これはレヴァント地方で受けた戦傷によって、日常生活に支障はないものの、最前線の陸軍軍人としての活動が、藤堂高虎には困難になっていたという背景事情もあった)
こういった自らの任務、状況に対して、藤堂高虎自身が色々と考えることが無かったか、というと嘘になるが、酒井忠次や上里勝利と言った得難い上司に恵まれたことに感謝しつつ、藤堂高虎は懸命に自らに与えられた任務に粉骨砕身することになった。
だが、その一方で最前線での実戦経験のある陸軍軍人の経歴のある文官と言うのは、この当時のローマ帝国の統治体制において、極めて役に立つ存在と言うのは否定できないどころか、極めて色々な意味で軍人からも文官からも好意を持たれる存在だった。
何だかんだ言っても、戦場において土地を占領した場合、軍政をまずは敷いた上で統治体制を築くのは当然の話だった。
更に言えば、ある程度は統治体制が安定すれば、軍政から民政に切り替えて、文官による統治体制を確立していくことになるのも当然のことだった。
そして、ローマ帝国は1585年の建国以来、戦争を間断的に繰り返している存在であり、又、1600年現在においても、モスクワ大公国との戦争を決意している存在なのだ。
このような状況からすれば、多くのローマ帝国の統治にある土地が軍政下にまずは置かれて、その上で民政に移管されていくのも当然と言うことになる、
こうした際に、藤堂高虎のように軍人としての才能、経験もあり、又、酒井忠次や上里勝利が肯定したように文官としての才能もある人材と言うのは、極めて得難い存在としか言いようが無かった。
更には、藤堂高虎の経歴を知れば、その周囲にいる軍人や文官も藤堂高虎に一目置かざるを得ず、実際に藤堂高虎は有能だったので、レヴァント地方に続き、バルカン半島でもそれなりどころではない成果を挙げて、ローマ帝国の民政による統治を確立させることに功績を挙げたのだ。
そうした実績を挙げていることから、周囲の受けもよい現実がある以上、上里勝利は自らの後継者として藤堂高虎を本格的に考えるようになっていた。
実際問題として、上里勝利は自らの弱みを知っている。
それは何かというと軍人出身ではないことである。
更に言えば、本来から言えば商人といってもよい。
だが、浅井長政との長年に亘る友誼があり、更に竹中半兵衛から自らの後は上里勝利殿にという遺言、更には有能極まりない自らの兄弟姉妹(具体的には、織田美子や武田和子)の存在、そういった背景があることから、上里勝利自身は身に不相応と考えているローマ帝国大宰相の任に当たっていた。
(何しろ、日本には龍がいる、北米には虎がいる、その一方で、ローマ帝国には中の劣りの犬がいるだけだと世界で謳われる現実があったのだ。
もっともローマ帝国の大宰相が実際に中の劣りの犬では務まらないのも、又、現実の話ではあった)
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