第61章―6
さて、その一方で上里勝利は、そろそろ基本は内政面で藤堂高虎を自らの後継者の大宰相として鍛えると共に、外交面では森成利をこの際に鍛えようと考えており、その試金石としてローマ帝国の皇太子であるユスティニアヌス(秀政)とポーランド=リトアニア共和国の大貴族の娘との縁談を二人に任せることを考えていた。
何しろ上里勝利とて1539年生まれであり、最早60歳前後であり隠居を考える年齢だった。
隠居を考えなくとも(この時代、世界の)医療水準からいって、思わぬ事態になってもおかしくない年齢に達しているのだ。
(この時代、世界の医療水準ですが、史実で言えば1940年代後半程度と考えてください)
更にこの世界の指導者の年齢を考えれば、それこそ30歳代で大国の指導者として辣腕を振るう例まで出ている現在、上里勝利は主君であるエウドキヤから引退を勧められてもおかしくない年齢であるとまでいえるのだ。
(極めて若い国家であることもありますが、北米共和国では徳川家康に武田信光と30歳代で大統領に選出される現状があります。
更にこうしたことから、まだ30歳を過ぎたばかりの伊達政宗が本気で首相の地位を狙う事態が、日本でも起きていました。
自分の甥がそこまでなっている以上、尚更に上里勝利は自らの老齢を感じていたのです。
それならば、3歳年上の姉の上里美子の方が真剣に引退を考えるべきでは、と思われそうですが。
何しろ同年齢のライバル、宿敵といえる近衛前久が元気に動いているので、それを目にしていては引退等、美子の脳裏に過ぎる訳が無いのです。
それに美子にしてみれば、政治こそが最大の生き甲斐でした)
さて、(この世界の)藤堂高虎だが、元々は陸軍の軍人だった異例の文官だった。
(最も前近代社会においては、軍人と文官の境目がそれなりに曖昧なのが通例なのだが)
それこそ藤堂高虎は、ローマ帝国建国戦争ではレヴァント地方で最前線の戦いまで経験して、その際に戦傷まで負っており、完全に戦場の臭いを実見している身だった。
そして、オスマン帝国とローマ帝国の講和が成立したからといって、親オスマン帝国の現地勢力によるゲリラ戦がレヴァント地方においてすぐに終結する訳もなく、藤堂高虎はそういった面々に対して硬軟使い分けての対策に陸軍の軍人として奔走することになったのだ。
(これはレヴァント地方が様々な宗教勢力によるモザイク状態にあったのが大きかった。
そのために親オスマン帝国の現地勢力同士も、この際に自らの勢力を伸ばそうとお互いに争うことも辞さない有様で、そのためにゲリラ戦をローマ帝国が鎮圧するのが困難になった。
何しろある勢力とローマ帝国が妥協すれば、その妥協が逆に別の勢力を怒らせ蜂起させるのが稀では無いのが現実だったのだ)
こうした状況に奔走していた藤堂高虎の有能さに目を付けたのが、酒井忠次だった。
酒井忠次は(この世界では)北米共和国の軍人だったが、ローマ帝国のために北米共和国から派遣された身であり、更に言えば徳川家康の軍事面における第一の股肱の臣といえる存在だった。
藤堂高虎の有能さを実見し、酒井忠次は北米共和国の軍人として、藤堂高虎を引き抜こうとしたが、藤堂高虎はそれを次のように言って峻拒した。
「ローマ帝国の皇帝に使える騎士として皇帝に剣を捧げた以上、皇帝から拒まれるならともかくとして自ら他君に仕えること等はできませぬ」
そして、このやり取りをした酒井忠次は、藤堂高虎を引き抜こうとした自らを恥じることになり、上里勝利に極めて将来有望な才能のある忠臣として、藤堂高虎を推挙することになった。
更に上里勝利は藤堂高虎に目を掛けることになったのだ。
ご感想等をお待ちしています。
尚、藤堂高虎については、今夜、割烹で補足説明(?)をするつもりです。




