第61章―3
モスクワ大公国の継承問題についての最終的解決を、1598年中にエウドキヤはローマ帝国の女帝として決断したが、だからといってすぐにモスクワ大公国に攻め入ることは不可能とまではいわないが、極めて困難な状況に当のローマ帝国もあった。
何しろローマ帝国にしても1585年の事実上の建国以来、ほぼ5年毎に戦争をやってきたのだ。
1585年にコンスタンティノープルやエルサレム等を征服して、(東)ローマ帝国の再興、建国を宣言した後、主にバルカン半島やレヴァント地方を制圧した。
それが一段落したと判断した1590年にはイタリア半島等への侵攻作戦を発動して、最終的にはローマ等を征服して、東西教会の合同を推進することになった。
更には1595年にウクライナへ侵攻して、キエフ大公国の再興をも宣言したのだ。
このような感じで大戦争を繰り返していては、幾らエジプト等の後背地があり、更にバルカン半島やイタリア半島等の新領土を獲得して、そこでの統治機構を整備して国庫をそれなり以上に満たしてきたとはいえ、ローマ帝国内もそれなり以上に疲弊している現実があった。
石田三成を始めとする文官の多くが、近々モスクワ大公国を攻めるというエウドキヤの決断に対しては次のような上奏文を奉る現実があった。
「できれば少なくとも後3年は民を十二分にいたわった上、ウクライナの農地分配を終えた後のモスクワ大公国との戦をしていただきたく存じます」
実際、ウクライナにおいて、ローマ帝国に敵対した大地主(その多くがコサック)の農地を一旦は国有地として没収し、実際にその農地を耕している農奴が、新たな自作農に成れるように農地を分配する作業は現在進行中なのが、この当時の現実と言ったものだった。
(序でにこの際に余談をすると、この農地改革に合わせてジャガイモの輪作等を、ウクライナの元農奴にローマ帝国の文官等が指導すること等によって、ウクライナの沃土は欧州の穀倉地帯へと徐々に変貌していくことになる。
更にはこれによって増産された穀物やイモ類を活用したウオッカ等の蒸留酒が、欧州各地に普及していく一因にもこのことはなっていくのだ。
穀類やイモ類といった食糧が乏しい状況では酒を造る等は贅沢極まりない話と言われても仕方のないことになる。
その一方で、穀類やイモ類が溢れるようになれば、醸造酒から更には蒸留酒を造って商品として利益を追求する余裕が、住民の間に生まれることになるのだ。
ウオッカを始めとする蒸留酒が17世紀以降に欧州を始めとする世界で急激に広まったのは、蒸留酒を造れるようになったという技術革新と共に穀物やイモ類の増産もあったのだ)
この上奏文を受け取ったエウドキヤは実父のイヴァン雷帝譲りの癇癪を爆発させかけたが、それに対しては皇配の浅井亮政や大宰相の上里勝利が、懸命に宥めて諫めることで事を収めた。
中でも上里勝利に至っては、暗に宋帝国の石刻遺訓を持ち出しもした。
「帝国の官僚の上奏が、自らの意思に反するからと言って、左遷までは何とか許されるでしょう。しかし、だからといって免職処分を下すとか、いわんや何らかの口実、例えば謀叛を企んでいる等の難癖をつけて刑罰を科すようなことをする等は、全くもって許されることではありませぬ」
「何故じゃ」
「そんなことをしては、諫める者がいなくなり、却って国を危うくします。昔、ある皇帝は子孫に対して文官を言論によって殺してはならぬ、と遺訓を造り、それによって、その国は君主を諫める者が絶えなくなり繫栄しましたが、子孫の一人が破ったことから諫める者がいなくなって国が滅んだとか。我が国をそうされたいのですか」
「そういえばそうか」
尚、この話及びこの後の数話は1598年時点の話で、少し時が遡った状況での話です。
そして、宋の石刻遺訓についての上里勝利の説明は間違っていますが、エウドキヤを納得させるための方便ということでお願いします。
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