第60章―4
そんなことが、ローマ帝国のウクライナ侵攻の陰で、世界各国では起こっていた。
ローマ帝国のウクライナ侵攻に対して、日本本国にしても、北米共和国にしても、欧州諸国にしても積極的に介入しないといけない理由が無い以上、更には下手に介入して自国内で問題が起きては困る以上、それこそ触らぬ神に祟りなしの態度を各国政府は取る一方で、民間レベルではこの戦争による特需を当て込んで、交戦国双方に様々な物資を売り込む事態が起きたのだ。
そして、1595年の冬の到来で、ローマ帝国のウクライナ侵攻が一段落するまで、それによって各国は儲けることになった。
更に新領土の統治体制をまずは整える必要性から、ローマ帝国は翌年の春以降の数年に亘って、ウクライナ、ロシア(ルーシ)方面で大規模な攻勢は控えることになったが、そうは言っても国境紛争等が起きては小規模な攻勢は何度か執られることになった。
だが、そうなるとどうしてもウクライナの農地が荒れる等の事態が起きるのは必然で、統治体制の安定した確立には時間が掛かるのは止むを得なかった。
(尚、少し先走った話をすれば、1598年1月に女帝エウドキヤの兄でもあるモスクワ大公国(ロシア帝国)の君主フョードルが崩御したことから、最終的にはローマ帝国のモスクワ侵攻作戦が準備、発動されることになっていく。
エウドキヤにしても自分の実兄と戦うのは躊躇われ、自分が皇太女になる方法等で円満にモスクワ大公国(ロシア帝国)の君主に即位する路を暫く模索し、更にウクライナ地域の統治を完全に安定化させて固める必要もあったことから、すぐにはモスクワ侵攻作戦を発動させられなかったのだ)
そんな外交上の問題を北米共和国や諸外国が、ローマ帝国のウクライナ侵攻作戦において抱えている一方で、北米共和国内部では宗教問題も起きつつあった。
武田信光としては、この問題については国内問題なので、本音としては静観したかったのが。
自らの妻の親族らが現状で絡んでおり、事の発端と言えることが、自らの母の親族が絡んでいることから、これにも、武田信光は関わらざるを得なくなっていった。
さて、その北米共和国内の宗教問題だが、そもそも論から言えば、マンダ教徒の北米共和国内への大量亡命が発端になる。
更に、これに法華宗不受不施派が絡んだことから、この時点では伏流水といってよい小規模なモノだったが、徐々に大規模化していくことになった。
マンダ教徒は、(分かりやすいようにこちらの世界の史実の地方名で言えば)イラク南部地方のチグリス・ユーフラテス川の畔に主に住んでいたグノーシス主義を採る宗教の信徒だった。
そして、イスラム教徒からも「啓典の民」であるとして認められていて、それなりに少数派の信徒しかいないとはいえ、その地の地域宗教として確立し、長年に亘って信仰を維持していた。
だが、「皇軍来訪」に伴う様々な余波は、結果的にマンダ教徒の身にも襲い掛かった。
極近い事実に絞って述べるが、(東)ローマ帝国の復興とオスマン帝国の半壊、更にはそれに伴うオスマン帝国のスルタン=カリフ制の採用は、オスマン帝国内にイスラム教スンニ派至上主義者の増大を招くことになった。
オスマン帝国政府は、元々世俗的な性格が強いことから、こういったイスラム教スンニ派至上主義者の運動をできる限りは抑えたが、そうは言ってもカリフを称する以上は、異宗派、異教徒をそう庇う訳にもいかない。
更にはイラク北部やクウェートでの油田採掘が本格化して、パイプラインの設置等まで行われるようになってきたことから、このイスラム教スンニ派至上主義者の動きは、日本政府の懸念までも産むことになった。、
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