第8章ー18
サクチャイは重傷を負っており、話すのも辛そうで、そこで言葉を切った。
更に言えば、鼻が潰れている。
これは、梅毒にもやられている、もう長くはないな。
そう上里松一大尉は推察した。
そう上里大尉が思う内に、サクチャイの自分語りがまた始まった。
「張敬修の店を知っているのなら、ひょっとして、プリチャという女の消息も知らないか。俺の女房だ。タンサニーという娘とサーマートという息子がいる女だ」
サーマート、プリチャの連れ子サクチャイの元の名はサーマートだった。
プリチャが、夫が行方不明になった後、夫を偲ぶために息子の名をサクチャイに改名したのだ。
これは間違いなく、プリチャの夫のサクチャイだ。
上里大尉は、少し考えた後、優しい嘘を吐くことにした。
「自分の知っているプリチャと同一人物なら、その女は二人の子と共に、張敬修の店で従業員のための料理人として住み込みで働いている。再婚の縁談を断って、今でも夫の帰りを信じている筈だ」
「そうか。あいつの作るスープは絶品で、店で売れるのでは、と思うくらいだった。料理の特技を生かして、そうやって子どもと暮らしていたのか」
上里大尉の言葉に、サクチャイは涙を零した。
嘘を吐いたこともあり、上里大尉はどうにも次の言葉を話せないでいると。
サクチャイは真顔になって、上里大尉に頼みごとをした。
「俺を楽にしてくれ。色々と痛くて、苦しくて堪らないんだ。そして、遺骨をプリチャに届けて、俺が死んだと伝えてくれ。更に、いい男と再婚するように勧めてくれ。虫のいい頼みだが頼む」
上里大尉が、あらためてサクチャイの身体を見て見ると、右足の膝関節から下が無いことに気付いた。
上里大尉がそれに気づいた事が、サクチャイにも分かったのだろう。
サクチャイは自嘲しながら話を続けた。
「全く悪いことはできないな。こんな身に堕ちて、何人殺したことか。戦功で報奨金が貰えることもあったが、全部、酒と女で消えたよ。そうしている内に悪い病気に罹って、鼻が落ちた。何れ狂って死ぬらしい。そこにこの戦闘で右足切断だ。もう、まともに歩くこともできない。なあ、頼む」
上里大尉は、そっとその場を離れ、自分と共に回っている軍医に問いただした。
「あの患者は助かるのか」
「敗血症を引き起こさねば、この場は助かる可能性は。しかし、梅毒がかなり進行していますし」
それ以上は聞きたくなく、階級差を使って、上里大尉は軍医の口を塞いだ後、言葉を継いだ。
「あの患者を楽にしろ」
「しかし」
「あいつは、俺の女房の前の亭主だ。同じ女を抱いた者からの頼みだ。楽にしてくれ」
「分かりました」
上里大尉の眼の奥に狂気を見たのだろう、軍医は致死量のアヘンチンキをサクチャイに投与した。
上里大尉は、サクチャイの身体にアヘンチンキが回って、息を引き取るのを無言で見守った。
上里大尉は、サクチャイの頼みを聴かず、何とか退院させたとして、その後をどうするのだ、と自分への言い訳を思わずしていた。
右足を失い、もう、サクチャイはまともに働くこともできないといってよい。
このまま単に退院させただけでは、餓死の運命が待っているだろう。
サクチャイを生き延びさせるとなると、プリチャの下に連れて行けば、とも思う。
プリチャのことだ、自分と別れて、サクチャイの介護に努めるだろう。
しかし、もうすぐ脳梅毒を発症するだろうサクチャイが、プリチャを乱暴しない、といえるだろうか。
そして、介護の際にプリチャが梅毒に罹るリスクを考えると。
更に子どもらが、父が母に暴力を振るう光景を見ることなどを考えると。
プリチャには、サクチャイの遺骨等を持って帰り、その死と遺言を告げよう。
上里大尉はそう決意した。
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