第58章―2
そして、ウクライナ侵攻作戦を発動するローマ帝国軍の陣容だが、最初の計画段階ではウクライナ方面に侵攻する兵力は後方部隊を含めて約10万、前線部隊は約6万といったところになっていた。
余りにも少ないと言えば少ない兵力だったが、現実問題として国土の割に集められる兵力が限られているのが、現在のローマ帝国の現実だった。
何故にそのような状況になるか、といえば、まずはパレスチナ方面を中心として、ローマ帝国と対峙しているオスマン帝国を警戒する必要が、ローマ帝国にはあった。
パレスチナの後方といえるエジプトの住民の多くが、イスラム教スンニ派である以上、ローマ帝国としては、それなりに信頼できる東方正教徒からなる部隊をバルカン半島で編制しては、エジプト方面に配備しない訳には行かなかった。
もし、万が一にも、オスマン帝国のカリフがジハード(聖戦)を呼号して、ローマ帝国との再戦を目論むようなことがあった場合には、それなりの対応をする必要が、ローマ帝国にはあった。
(更には、隙を見せれば攻め込むぞ、とオスマン帝国を暗に恫喝することで、平和を維持するという冷戦的な思考もローマ帝国の裏ではあったのだ)
何しろ約10年前になるが、オスマン帝国に対する戦争、ローマ帝国復興戦争等と様々に呼称される戦争によって、ローマ帝国はコンスタンティノープルやエルサレムを征服して、ローマ帝国の復興を宣言して、エウドキヤはローマ帝国の皇帝、女帝に即位を果たした。
だが、このことは当然のことながら、オスマン帝国にローマ帝国に対する復仇を誓わせて、スルタン=カリフ制を採用させることになり、更には日本からの軍事面を始めとする様々な援助がオスマン帝国に行われることにもなったのだ。
そして、約10年の歳月は、オスマン帝国に着実に軍事力を強化させる時間を与え、一部の兵器、歩兵銃等に至っては、日本製のライセンス生産にはなるが国産化を果たす事態が起きていた。
(最も実際のオスマン帝国の生産品の品質は、日本製から程遠いのが現実だった)
ローマ帝国にしてみれば、止むを得ない事態ではあったが、オスマン帝国は気の抜けない相手、国としか言いようが無かった。
そして、西方方面、特にイタリア半島の情勢は、必ずしも安定しているとは言い難かった。
こちらも約5年前のローマ帝国軍によるイタリア半島侵攻作戦によって領土化したばかりといえる領土であり、その後の治安維持等の活動によって、住民による武力抵抗はほぼ収まってはいたが、だからといってローマ帝国の統治に完全に服しているとは言い難い。
こうしたことからすれば、準戦時と言ってよいような規模の治安部隊を、この方面にローマ帝国政府としては配備せざるを得なかった。
勿論、外交努力によって、ドイツ、フランス、スペイン、イングランド等の西欧諸国が、ローマ帝国内に住む帝国住民の武力抵抗を支援するようなことがないように努めてはいたが、それがどこまで信用できるかというと、ローマ帝国政府としては完全に信用できる状況とは言い難い。
そうしたことから、そんなに多くの兵力を西方から引き抜いて、ウクライナ侵攻作戦に投入する訳には行かない、とローマ帝国政府としては考えざるを得なかった。
とはいえ、これではローマ帝国にしてみれば、ウクライナ侵攻作戦を成功させるのには余りにも兵力が少なすぎるのも現実だった。
そうしたところに助け舟を出してきた国があった。
それはフランスだった。
フランスはローマ帝国に対して、自国への兵器等の提供と引き換えにウクライナ侵攻作戦等のための兵を提供すると言ってきたのだ。
これはフランスにしてみれば、それなりの事情があった。
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