第58章―1 ローマ帝国のウクライナ侵攻作戦準備
新章の始まりです。
少し時を遡る。
1595年5月半ばを目途として、ローマ帝国はポーランド=リトアニア共和国領であるウクライナ地方への侵攻作戦発動を計画していた。
1590年に行われたローマ帝国のイタリア半島侵攻作戦は、この頃にはほぼ完了と言える状況になっていて、イタリア半島内における反ローマ帝国の武力抵抗はほぼ終わっていた。
そして、バルカン半島においてもローマ帝国の統治がほぼ安定しつつあった。
(21世紀の現代で言えば、主に南スラブ民族がすむクロアチア、セルビア、ボスニア、ブルガリアに加えて、マジャール人が主に住むハンガリー、ルーマニア人が主に住むルーマニア、ギリシア人が主に住むギリシアが、ローマ帝国の統治を順調に受け入れたのだ。
これは東西教会の合同が成ったことから、少なくともキリスト教徒同士の対立が、この地域においてはある程度は収まったことが大きかった)
こうした状況に加えて、外交面でもローマ帝国はある程度の成果を上げていた。
森成利(蘭丸)らが奔走したことによって、神聖ローマ帝国改め、ドイツ帝国とは通商条約等の締結に成功していた。
フランス王国とは、新国王アンリ4世がカトリックに改宗するのを条件にローマ教皇に破門を解かせて、逆に武器や資金等の援助を行うことで、ユグノーやカトリック過激派(アンリ4世のユグノーからカトリックへの改宗は擬態に過ぎないとして、アンリ4世に対する攻撃を彼らは止めなかった)に対する同盟関係を、ローマ帝国は事実上締結することに成功した。
イングランド王国やスペイン王国とは、北米共和国を介すること等によって、イタリア半島侵攻作戦発動以前からローマ帝国は友好関係を既に築き上げている。
こうしたことが、西方からの憂いの多くをローマ帝国から取り除くことになっていた。
とはいえ、ローマ帝国からしてみれば、東方の憂い、主にオスマン帝国との関係はそれこそ表向きは友好関係が樹立されており、交易等も行われてはいるが、完全に気を許せる状況では無かった。
ローマ帝国再興を宣言してから約10年が経っており、パレスチナ地方等までもローマ帝国領として確保していて、表面上は安定した状況にはある。
だが、未だにローマ帝国にしてみれば国力の最大の源泉と言えるエジプトの住民の圧倒的多数は、イスラム教スンニ派の信徒が占めており、オスマン帝国のカリフが反ローマ帝国活動をジハード(聖戦)であるとして使嗾したら、という危惧をローマ帝国政府としては抱かない訳には行かなかったのだ。
そうした西方の国境地帯や帝国内の安定、その一方で東方の憂いがあることが、ローマ帝国の更なる攻勢を推し進めていた。
本来からすれば、国内を完全に安定させて、更には全ての国境地帯の安全を完全に確保した上で、改めて戦争に踏み切るのが本来の姿ではあった。
だが、ローマ帝国内では微妙に不安定な要因が存在する、イスラム教スンニ派信徒の住民が一部の地方で多数いる、という現実を看過する訳には行かず、そういった国内の危機を対外危機で糊塗するためにも、対外戦争の機運が高まるという現実が、本末転倒と言えば本末転倒だが、ローマ帝国では起きていたのだ。
更には、ローマ帝国の女帝エウドキヤの個人的な想いも、対外戦争を煽ることになっていた。
エウドキヤにしてみれば、ロシア(及びウクライナ)の大地こそが、自分の本来の故郷だった。
そして、「タタール(モンゴル)のくびき」から祖国ロシアを永久に解放することこそが、自分の生まれ持った本来の使命であるという想いさえも、10年前のローマ帝国復興戦争から内心で抱き続けて来た想いに、エウドキヤにはなっているという現実があったのだ。
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