第56章―10
猶、こういった反応兵器の開発製造に関する工場等の建設(そして、建設完了後は、それが稼働するように人やモノを確保していく)を進めるのが、この頃の上里清大佐の最大の仕事と言えた。
他にも核分裂や核融合の研究について、ある程度の情報規制についても配慮は避けられず、それについても、上里大佐は目を配らねばならなかった。
そうしたことについては、一部の科学者を中心に科学の発展を阻害するものだ等の抗議は避けられなかったが、北米共和国等に反応兵器の研究開発情報がダダ洩れになっては困る以上、場合によっては強権を発動してでも情報規制を行うのは止むを得ない話だった。
そうした仕事を、この後の数年に亘って、上里清大佐は奮闘していくことになるのだが、1595年春から夏にかけての頃でいえば、北海道の大地のどこに反応兵器の開発製造工場の適地があるか、様々な現地調査を部下に行わせて、その報告を自らが取りまとめて、適地と判断すれば、その地に建設していく方針を決めて陸軍省等に意見具申をするのが主な段階だった。
(意見具申と言っても、ほぼ上里大佐の意見通りで陸軍省等も許可を出すのだが。
尚、少なからず先走った話をすると、最終的には苫小牧及びその周辺に、反応兵器の開発製造設備は集中することになった。
これは様々な物資搬入の観点から、反応兵器の開発製造を行う現場は、太平洋に面している方が望ましいと考えられ、又、ある程度の平野部が必要と言った視点から選択されたものだった。
釧路及びその周辺もかなりの有力な候補となったが、その辺りが地震多発地帯ということから、苫小牧が最終的に選択されることになった。
最もそれを言い出したら、日本全土が地震多発地帯ではあるのだが。
更なる余談をすれば、苫小牧及びその周辺の建設に際しては、最初は室蘭港が活用されたが、余りにも大規模になったので、苫小牧に直に港を造れという話にまで発展することになる。
そして、1610年代には苫小牧港の整備が完了する事態にまで発展していくことになる)
そんな日々を上里清大佐は送っている内に夏になった6月末のある日、上里清大佐の下へ母の愛子から急な電話が入った。
その電話を聞き終えた清は顔色を変えて、織田信忠中佐を探すことになった。
「急な話で済まないが、今から帰宅して病院に向かう」
清は信忠にそう言った。
「祖父が危篤になりましたか」
「ああ、今から行って死に目には間に合うかどうか」
清の父の松一からすれば、信忠は孫(養女の子)になるので、信忠にしても松一の状況は把握しており、手短にやり取りをした。
「私も行きたいですが、母によろしく伝えて下さい。色々な手配は私の方からしておきます」
信忠にしても、松一の下に行きたいが、取る物も取りあえず上官になる清が向かう以上、更には暫く葬儀等で清が休むとも見込まれる以上、その間の手配り等をしておく必要がある。
一応、そうなると考えて色々と準備はしていたが、実際にやるとなると別の話になる。
「済まないが、後を頼む」
信忠にそう言いおいて、清は取る物も取りあえず、職場から帰宅していった。
清が帰宅すると、妻の理子も松一の下へ行く準備を整えていた。
「美子は置いていきましょう。祖父が死ぬのを見せるのも」
「そうだな。二人で行こう」
夫婦は手短にやり取りをして、病院に向かった。
清夫妻が病院に着くのと前後して、その時に京にいた松一の子どもらは相次いで駆けつけた。
前からいた妻の愛子に加え、清夫妻に織田美子、小早川道平と永子、九条兼孝と敬子、中院通勝と里子と10人が松一の枕頭に集った。
「よく来てくれた。後はよろしく頼む。和子は」
松一はそう言って息絶えた。
これで、この章を終えて、次の章は、基本的に上里丈二の視点からで、1595年時点での日本海軍の新型軍艦や日本陸軍の新戦車等の話で10話になる予定です。
上里松一の葬儀はその次に間章として5話程掛けて描きます。
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