第8章ー11
栗田提督率いる第七戦隊他は、既にアチェ王国を屈服させた高木提督率いる艦隊と、アチェ王国の首都の沖合で合流した。
これは、マラッカ海峡を完全に封鎖し、(ポルトガル領)マラッカに向かおうとする船舶をだ捕することで、連絡が全く届かず、救援の望みが無いと(ポルトガル領)マラッカに絶望させる一方で、(ポルトガル領)マラッカから救援を求めようとする船舶もだ捕し、敢えてそれに乗っていた乗務員を送り返すことでも、(ポルトガル領)マラッカの住民達に脱出が不可能であることを知らしめるというためだった。
なお、このために投入された主力艦は軽空母1隻と重巡洋艦8隻であり、他に駆逐艦20隻等もこの作戦に従事している。
空から艦載機の眼が光っており、更に重巡洋艦に搭載された水上機も空からの支援を行い、他にも重巡洋艦や駆逐艦が、アチェ王国の首都を拠点として、マラッカ海峡を完全に封鎖している。
幾ら夜の闇を活用しての突破等を、ポルトガルに味方する船舶が図ろうとしても、この時代の帆船に航空機による空からの監視の目を掻い潜れるだけの速力等がある筈も無かった。
そうしたことから。
例えば、ビルマ王国から、対シャム王国戦争への協力を求めて、(ポルトガル領)マラッカに派遣された使節を載せた船舶は3隻共に、(ポルトガル領)マラッカに赴く途中で日本海軍によってだ捕されてしまった。
こうしたことから、ビルマ王国からの使節は誰一人、(ポルトガル領)マラッカにたどり着くことはなく、結果的にはジョホール王国あらため、マラッカ王国にたどり着くことになった。
そして、今後はビルマ王国への傭兵提供は一切、お断りする、とのマラッカ王国からの返書を渡されたうえで、ビルマ王国への帰還が、ビルマ王国からの使節には認められたが。
その過半数が、そう復命した場合に自らに襲い掛かる危難を怖れて、ビルマ王国に帰国しなかった。
そして、半数以下に減ったビルマ王国からの使節は、暫く日本軍とマラッカ王国に抑留されたことから、結果的にだが1548年の年末にビルマ王国に帰国を果たしたが。
既に酒毒に侵されていたビルマ王国の国王タビンシュエーティーは、使節の復命を聞いて激怒し、帰国した使節を一族諸共、族滅した。
タビンシュエーティー国王に言わせれば、何故に日本等の看視を免れて速やかに脱出して、ビルマ王国に帰国しなかった、祖国を敗北に導いたのは、使節の保身によるものだ、という理屈だった。
更に、逃亡した使節の一族で、ビルマ王国内にいた者も、同様の理由からほぼ族滅の悲劇に遭った。
この悲劇は、ビルマ王国内の有能な家臣の多くを失わせることになり、その後、間もなくして起こったタビンシュエーティー国王の崩御に伴うビルマ王国内の内紛、崩壊を深化させることになる。
こうしたことからすれば、タビンシュエーティー国王の激怒は、ビルマ王国の崩壊を引き起こしたといわれても仕方のない事実だった。
その一方で、この日本海軍の行動は、(ポルトガル領)マラッカに対して赴こうとするポルトガルの船舶等を完全に阻止したのも、また事実だった。
こうしたことから、当時、ポルトガル領だったゴア等では、マラッカの状況がさっぱり分からないという事態が、この後、ずっと続くことにもなった。
勿論、噂等ではマラッカがポルトガルの領土でなくなったらしい、ということがゴア等では分かるが、精確な情報が全く入らないのだ。
マラッカに偵察等のために赴かせたポルトガルの船舶は全く還って来ずに、消息不明となっていく。
数年後、ポルトガルはマラッカの精確な状況把握を諦め、更にインドより東に船舶を送るのを、完全に取りやめることになる。
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