第55章―7
さて、日本での普通選挙の導入だが、それこそ織田信長政権が1574年に誕生した直後の頃には、外国人の年季奉公人禁止法案の次に、労農党としては可決成立させたい法案になっていた。
だが、実際にはそれどころではなくなった。
言うまでもなく、外国人の年季奉公人禁止法案への反発から、北米独立戦争の勃発があり、その戦争への対策に織田政権は追われることになって、普通選挙導入どころではなくなったからである。
そして、最終的には北米共和国の独立で講和が成立したが、北米独立戦争が終わった後の反動不況対策等に続けて織田政権は追われることになり、そんな普通選挙法の導入といった重要法案の提出は、1582年の衆議院議員総選挙後にしよう、と織田政権は考えていたのだが。
結果的に1582年の衆議院議員総選挙は、労農党の敗北と保守党の勝利、織田政権の崩壊から島津義久政権の成立という結果を招き、ここに一時的に普通選挙の導入は遠のくことになった。
8年間に及ぶ保守党を中心とする島津政権の間、労農党を中心に普通選挙導入を叫ぶ声は、国民の間でそれなり以上に続いていたが、そうは言っても与党が普通選挙導入に消極的な以上、普通選挙導入は足踏みせざるを得なかった。
そうした状況が一転したのが、1590年の労農党の勝利と木下小一郎政権の成立だった。
木下首相は、まずは貴族院での根回しに努めた。
衆議院で可決成立しても、貴族院で否決されてはどうにもならない。
こういう重要法案は一瀉千里にやらないと却って混迷すると考えての行動だった。
更に木下首相に有利な条件があった。
木下政権成立に伴い、織田美子が尚侍を辞職し、二条昭実も内大臣を辞職したのだ。
それに代わって、一条内基が内大臣に、久我俊子が尚侍になったのである。
表向きは宮中に木下政権に関われなくなる痛手だったが、貴族院に関しては、これは木下政権に大きく有利に働く事態だった。
何故かと言えば、一条内基が内大臣になるということは、慣例として、内大臣は宮中の身であり、又、今上陛下の側近である以上は貴族院での発言を行わず、更に周囲に働きかけもしないべきだ、ということになっていたので、一条内基の発言や行動が封じられることになったからである。
(そうは言っても、近衛前久のように平然と無視した内大臣もいたのだが)
その一方、二条昭実や織田美子は、自由に貴族院で議会工作ができることとなり、この二人は織田信長の娘婿と妻であることから、労農党寄りなのは公知と言って良く、実際にそのように行動した。
それに何だかんだ言っても、貴族院は摂家と清華家の力が強い。
二条昭実と織田美子が自由になり、一条内基が内大臣になったことから、保守党系の摂家は近衛家しか残らず、清華家にしても久我俊子の関係から久我家が近衛家寄りだったのが、中立化してしまった。
一方の労農党系は三摂家(そもそも九条兼孝や鷹司信房は、二条昭実の兄弟)に加え、織田美子が三条美子として清華家の三条家を率いている。
更に美子は大勢生んだ娘の一人を清華家の一つの徳大寺実久に、もう一人を名家である万里小路充房に嫁がせることまでしていた。
何で万里小路充房と娘を、美子は結婚させたのだ、と思われそうだが、今上(後陽成天皇)陛下の実祖母は万里小路家出身で万里小路充房の義理の伯母であり、更に今上陛下の実母の勧修寺晴子(新上東門院)は万里小路充房の実姉になる。
(万里小路充房は勧修寺家から万里小路家に養子に入っている)
万里小路充房を取り込むことで、美子は娘を皇后に冊立して今上陛下を取り込もうとする近衛前久を牽制しようとしたのである。
このために貴族院は労農党寄りになった。
織田(三条)美子に言わせれば、「源氏物語」を読んでいる以上は当然の行動ということで、尚、史実でも織田信長の娘は徳大寺実久と万里小路充房に嫁いでいます。
だから、史実を完全無視したご都合主義の婚姻ではありません。
ご感想等をお待ちしています。




