第8章ー10
話が少なからずずれたが、(ポルトガル領)マラッカへの日本軍の攻撃は、ザビエルの報告書に基づけば、次のような経緯をたどった。
「1548年8月1日、マラッカに対して、日本軍と想われる軍艦の艦砲射撃が初めて行われた。
彼らの軍艦は、見たことも無い大きさで、帆も櫓も櫂も全く見当たらなかった。
他にも軍艦がいたが、我々に艦砲射撃を浴びせたのは4隻だった。
何百発の砲弾が我々に浴びせられたのか、私には分からないし、周囲も同様に言った。
ともかく、その砲弾の多くが炸裂したのは確かで、我々の仲間の多くが死傷した。
マラッカの総督に対して、反撃の砲撃を浴びせるように訴える者が多数いたが、私は賛同できなかった。
何故かと言えば、我々の大砲の砲撃が届く遥か彼方から、一方的に正確な砲撃が行われたからだ。
一部の海岸砲台が、総督の命令が届く前に独断で反撃の砲撃を行ったが、極めて情けないことに遥か手前にしか砲弾が届かず、逆に砲火を目標にして大量の砲弾を浴びてしまい、すぐに沈黙する始末だった。
ある者は、日本軍は空飛ぶ機械を実用化している、実際、空を飛んでいる機械を見た、とまで言った。
私は気づかなかったので、その者が恐怖の余り、発狂したのだ、と思っているが、実際にそう思う者が出るのも半ば当然なくらい、日本軍の砲撃は正確極まりないものだった。
本当に日本軍には悪魔が味方に付いているのは間違いない。
神の加護があるキリスト教徒の我々がとても思いもつかないような武器を保有しているのは、悪魔が味方に付いている証拠にしか、私には思えない。
私は、ローマ教皇に対して、日本を何としても悪魔から解放し、正しい我々の教えに帰依するように訴えねばならない、とこの日に決意を固めた」
そう、ザビエルの報告書に書かれている。
なお、この砲撃を行ったのは、栗田健男提督率いる第七戦隊だった。
「初弾命中、マラッカの港湾設備、及び在泊船舶に被害発生」
「ヨシ、ドンドン撃て」
第七戦隊旗艦「熊野」の砲術長は、観測員の報告を受けて、そう命じた。
なお、第七戦隊からは水上偵察機2機が発艦して、砲撃の弾着等について観測任務を行っていた。
そのやり取りを聞きつつ、栗田提督は双眼鏡でマラッカの状況を観察し、半ば独り言を言った。
「相手は撃ち返してこないな。やはり、この距離では届かない、と分かるか」
「我々にとっては、3カイリ等は至近距離と言えるでしょうが、この時代ではムリですからね」
栗田提督の言葉に対し、「熊野」の砲術長も半ば独り言で返した。
「となると、それなりの練度を相手も持っているようだが」
栗田提督がそう言葉を返す間もなく、一部の砲台から砲火が煌めいた。
だが。
哀しい程、その反撃の砲火は、第七戦隊から離れたところに着弾する。
逆にその砲火を目標として、第七戦隊が砲撃を浴びせると、2回の斉射でその砲台は沈黙した。
2回の斉射とはいえ、最上型重巡洋艦4隻、20サンチ砲合計40門の斉射だ。
一斉射で合計すれば5トンもの砲弾が浴びせられるのだ。
ポルトガル軍の海岸砲台が、2回の斉射で沈黙を余儀なくされるのも当然としか言いようが無い。
何しろ、そんな砲撃が浴びせらることを想定して、この時代の海岸砲台が作られている訳が無い。
この栗田提督が行った艦砲射撃は、合計500トン余りの主砲弾をマラッカに叩きこんで終わった。
この砲撃が、マラッカの港湾設備、在泊艦船等に与えた損害は甚大なもので、在泊艦船のほとんどが沈没又は航行不能になり、マラッカ港は、港としての機能を完全に喪失することとなり、また海岸砲台の3割が修復不能の損害を被ったのだ。
だが、この砲撃はまだまだ序の口だったのである。
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