第8章ー8
アチェ王国が日本の属国になったこの世界の1548年8月初頭、史実の日本では大変に有名になる人物が、この時のマラッカには滞在していた。
その名はフランシスコ・ザビエル、言うまでもなく史実では、日本にキリスト教(カトリック)を伝えるきっかけとなった人物である。
また、イエズス会の創設者の一人でもあるという重要人物でもある。
(全くの余談ながら、ザビエルは、スペインのナヴァラ地方生まれのバスク人であり、出身地で、ザビエルは、スペイン人だというと、地元民からバスク人だと反論されるらしい)
ザビエルは1545年8月にマラッカにたどり着いたが、東方の状況に半ば困惑する羽目になっていた。
ポルトガル王ジョアン1世のキリスト教の布教依頼を受けたことから、1541年4月7日にリスボンを出発したザビエルは、インドのゴアに翌年の5月に到着した。
そして、インドにおいて布教活動を行い、ザビエルは大成功した。
この布教活動の成功経験から、更に東方に、出来得るならば、明(中国)、日本にまでもキリスト教を広めよう、とザビエル自身は考えていたのだが。
ザビエルが、マラッカにたどり着いてみると、皆目、見当が着かない理由ながら、強大化した日本が急激に東南アジアへの進出を図りつつあり、マニラを始めとするフィリピン群島を領土化して、ブルネイを属国化したという情報が入っていた。
更に、日本はポルトガルを敵視しており、南シナ海では、ポルトガル船というだけで、日本やそれに味方する倭寇に、ポルトガル船は襲われることもあるらしい、という情報が入ったのだ。
(なお、この情報の背後には、言うまでもなく皇軍がバックについていて、「天文維新」を成し遂げた日本の考えや行動があった。
この頃、日本の探査船(基本的にジャンクを参考にした三国丸類似の船型で作られた)は、試作されたばかりの四斤山砲や、海軍の艦船から取り外された25ミリ機銃等を密かに搭載しており、この当時のポルトガルの軍艦ならともかく、自衛用の武装しか積んでいない商船相手なら、容易に圧倒できた。
そのため、探査航海中に、独航しているポルトガル商船を見つけた場合、将来、ポルトガル等と戦う場合の半ば訓練も兼ねて、ポルトガル船を日本の探査船は襲撃することがあったのだ。
勿論、大海原の中、目撃者がいないという条件が基本的にいない場合に限られたが、こういうことは徐々に噂、情報として流れだすものである。
更に日本は、張敬修や松浦氏を介して、王直らを頭目とする倭寇集団とも手を組んだ。
日本は、倭寇集団に火縄銃等の武器を売却する一方、ポルトガル人等の南蛮人の首に懸賞金を掛けた。
こうしたことから、南シナ海や中国本土沿岸において、ポルトガル船の安全度が低下しつつあった)
ともかく、こうした事情から、マラッカの総督を始めとするポルトガル政府の関係者は、ザビエルの日本等へのキリスト教布教活動について、機会をもう少し待つように勧めた。
実際問題として、マラッカから直接に中国方面に出航する船は、1545年以降は激減しており、一旦、スマトラやジャワを介してから、中国方面に人や物は向かうようになっていた。
そして、スマトラやジャワを介してとなると、イスラム教徒の強い影響のある地域を通らざるを得ない。
キリスト教の司祭にして宣教師のザビエルが、そこを安全に通行できるのかというと、保障できるものではなかったのだ。
こうしたことから、ザビエルは、マラッカに足止めされてしまい、マラッカやその周辺に対する布教活動に勤しむ日々を送っていた。
そうしたところに、日本軍のマラッカ攻撃があったのである。
ザビエルはそれに巻き込まれた。
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