第8章ー4
「当初の予定はですか」
上里松一大尉は疑問を覚えざるを得なかった。
マラッカ攻略作戦には(この世界に赴いた)連合艦隊の総力を挙げ、2個師団が投入されるのだ。
この世界においては、それこそ牟田口廉也将軍が言うように、インドまでも制圧できるのでは、と(補給を完全に無視すれば)夢を見られる程の戦力と言える。
だが。
小沢治三郎提督の顔は、少し渋い顔になって言葉を紡いだ。
「この世界に赴いてから、伝染病対策はそれなりに頑張っていて、かなりの予防等が特に日本国内では進むようにはなっている。だが、どうにもならないことがある」
「何でしょうか」
「男女の関係だ。全く性病に頭を痛めることになるとは思わなかった」
「それは何とも」
上里大尉が、それとなく目を周囲に奔らせると、小沢提督の周囲もそれとなく目をそらしている。
これは何かあったようだ。
「この世界に赴いた中に、伝染病の専門家がいないから、軍医関係者としても、かなりの部分を推論で話しているのだが」
小沢提督の声が気持ち小さくなった。
「性病、特に梅毒の蔓延に頭を痛める羽目になっている。どうも我々の時代の梅毒よりも、症状が激しく出ている模様なのだ。更に進行も早い。それに加えて、士官とかなら、それなりの相手と遊ぶし、それこそこの世界でも結婚相手に事欠かない。しかし、下士官兵となると給料もそう高くないからな。そう言う訳にはいかないのだ。そしてな」
小沢提督は、そこで言葉を切ったが、上里大尉にしても、それだけ聞けば十分だった。
要するにそれなりの売春婦(この時代で言えば遊女)と、下士官兵は遊ぶことになる。
そして、半ば確率論の世界になるが、古手の安い遊び相手程、性病の危険が高くなる。
しかも、この頃の売春には取締法令は無いといってもよい有様だ。
性病が蔓延する条件が整っているともいえる。
更に言えば、軍隊と売春婦、性病は古代から付き物といってもよい。
それこそ、実際の真実は闇の中だが、世界最古の職業が売春婦なら、2番目に古い職業は傭兵(軍人)という言葉が、世界的にもあるくらいだ。
上里大尉は、あらためて自分のことを想った。
義父の張敬修が、プリチャを「奇貨居くべし」とばかりに、自分に勧めた訳だ。
プリチャはそれこそ地方の出で、夫も同様で、夫婦でアユタヤに出稼ぎに来て、2人目の健康な子を産んで、その子が乳離れしたばかりといえる時だった。
だから、プリチャが自分の相手なら、自分が性病にり患することはなく、娘の張娃も性病の被害に遭うことはないというのも、義父が自分をプリチャに勧めた理由の一つだった。
彼女なら性病、梅毒に感染していることは無い、と義父は踏んだのだ。
(梅毒に感染していると、妊娠出産しにくくなるし、産まれた子にも障がいが生じることが多いのは、既に当時知られていることだった)
実際、その通りだったし、自分の周囲を見渡せば。
それこそ梅毒に明らかに罹った証ともいえる、鼻が落ちたような男女を見ることも稀ではない。
それを恥じて隠すので却って目立つのだ。
更にいわゆる脳梅毒にまで進行した男女も、時として自分の目に入ってくる。
ともかく、それくらいこの世界では梅毒を始めとする性病は蔓延しているのだ。
その猛威が、皇軍の将兵にまで襲い掛かってきているという訳か。
何しろ事情が事情だけに、どうしても患者の口が重くなり、り患していることを隠そうとする。
それこそ入隊検査の際に全裸にしてまで確認するが、入隊後にり患したらどうにもならない。
自己申告してくれればいいが、沈黙されては、定期検査の際等に気付くしかない。
厄介な状況に、小沢提督が渋い顔になる訳だ。
上里大尉は自分で納得できてしまった。
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