第51章ー4
織田(上里)美子は、義弟の上里清が赴任先のオスマン帝国で問題を起こさないように、日本政府の各所に手配りをしており、随時に自分の下にも情報が入るようにしていた。
公私混同と言われそうだが、それこそ美子にしてみれば、オスマン帝国は様々に気に掛かる大事な国だし、義弟の清のことも大事な以上は当然のことだった。
又、外相の小早川道平にしても清は自らの異母弟に当たる以上、異父姉の美子の頼みを断りづらい、という側面もあった。
さて、清からサービア教徒、マンダ教徒に関する照会が日本本国にあった際だが、この時に実は日本本国内でサービア教徒、マンダ教徒のことを知る者はいなかったと言っても過言では無かった。
それこそ宇喜多直家亡き後、日本外務省で情報を統括しているといえる黒田官兵衛さえも、
「サービア教徒、マンダ教徒?そんな宗教がオスマン帝国内にあったのか」
と困惑したのが実態だったらしい。
こうしたことから、サービア教徒、マンダ教徒とは何か、ということに日本政府内ではなり、美子は尚侍の自分の権限を活用して、宮中で保管されている皇軍知識を当たって、サービア教徒、マンダ教徒について調べることになった。
そして、その皇軍知識を下に美子は清にサービア教徒、マンダ教徒についての情報を送ったのだ。
尚、美子の情報だが。
「本来はマンダ教徒で、イスラム教徒からはサービア教徒と呼ばれるか。尚、サービア教徒とはコーラン等でも言及されており、啓典の民とされている。そして、信徒は日常生活ではアラビア語を使うことが多いが、特に宗教関係では伝統的にアラム語を使ってきた。だから、アーイシャ・アンマールは日常会話に支障が無いのかもしれないな」
義姉の情報は、清にしてみれば意外と詳細な代物だった。
(尚、上里清夫妻は夫婦間の会話以外では、アラビア語を邸内で使っている。
何しろ広い邸宅だし、そもそも論になるが、妻の広橋氏はそれこそ公家のお嬢様で、家事全般が得意ではない以上、複数の使用人を雇って、使用人を使わざるを得ないという事情もあった)
「尚、マンダ教とは」
清は更に美子からの情報を読み進めた。
美子の情報は更に詳細だったのだが、ここにマンダ教に関する情報を要約すると。
マンダ教はグノーシス主義を採る宗教である。
グノーシス主義自体が、内部で更に細かく分かれるのだが、思い切りまとめると、この世を作ったのは神ではなく悪魔であり、そのためにこの世は苦悩に満ちていると説くのだ。
グノーシス主義を採った宗教として最も著名なのはマニ教だが、本来はグノーシス主義ではない他の宗教にもグノーシス主義は多大な影響を与えている。
例えば、キリスト教の(異端)宗派として挙げられるボゴミル派やカタリ派等は、グノーシス主義から多大な影響を受けて成立している。
マンダ教は極めて古い宗教で、起源は定かではないが1世紀か2世紀頃に成立したとされる。
そして、洗礼者ヨハネらを預言者とする一方、キリストやマホメットは偽預言者だとしている。
そのためにキリスト教やイスラム教徒の折り合いは極めて悪い。
尚、その成立にはユダヤ教の影響があるとされる。
ともかく、そう言った事情等から、イラク南部の地域宗教と言ってよく、啓典の民とはされるもののイスラム教徒の迫害を度々受けて来た歴史的経緯があるとのことだった。
アーイシャ・アンマールは、マンダ教徒の集落で生まれ育った以上、当然にマンダ教徒だった。
だが、オスマン帝国軍の襲撃によって、生まれ育った集落を失って、自らは奴隷として生き延びたのか、そして、その過程でマンダ教徒からイスラム教徒に改宗したのか。
清はアーイシャ・アンマールを不憫に思った。
マンダ教に関する説明ですが、ネット情報に基本的に頼っていますので、当時の状況に正確に合っているのかどうかは緩く見た上での御指摘等をお願いします。
(実家に置いてあった「カタリ派」の本でも、マンダ教には触れていたものの数行で済まされていました)
ご感想等をお待ちしています。




