第1章ー9
マニラから手漕ぎボートで近寄ってきた使節5名と、大日本帝国陸海軍幹部とのやり取りだが、当然のことながら、困難極まりないことになった。
何しろ、言葉がほぼ通じない、といっても過言では無いのだ。
予めある程度は予想されていたので、いわゆる中国語が分かる者が通訳としてかき集められてはいたが、現代でさえ、北京と南京の住民では、本来の言葉での会話ではお互いに通じない、と公然と言われるのが中国語である。
それなのに、過去の世界(?)で、中国語の会話をフィリピンで行おうとしては。
どうにもならないのが、ある意味、当然だった。
いや、むしろ皮肉な事態さえも起きてしまった。
使節団の中に、いわゆる沖縄弁、琉球弁が分かる者がいたのだ。
「琉球の首里にいたことがあるのか」
「ええ。それで、そこの言葉が分かります」
「俺は首里に近い生まれだ。お前の言葉を聞いて、涙がこぼれた」
沖縄出身の上里松一海軍少尉は、思わず使節の一人の肩を抱いていた。
その使節は。
「この言葉が分かる人はおられませんか」
と懸命に首里の沖縄弁で訴えていたのだ。
勿論、話せると言っても、文字通り、カタコトに近い代物だった。
更に言えば、古めかしい言葉遣いにも程があった。
だが、上里少尉にしてみれば、故郷の沖縄を想わせてならない言葉だったのだ。
いきなり、過去の世界(?)に飛ばされてしまったのだ。
このまま、我々だけで生きていかないといけないかもしれない、そう昏い想いにいた中で、かつての自分を思い出させる言葉に会えたのだ。
上里少尉が、思わず肩を抱きたくなるのも、無理がない話だった。
「それにしても、何故に」
「いえ、見知らぬ船が現れて、それとの交渉をしなければならない、とあっては。少しでも役立ちたいと思っただけなのですが」
「素朴というか、当然の話だったか」
その男の言葉を聞いて、上里少尉は苦笑いせざるを得なかった。
その男、張敬修と上里少尉のやり取りが最も円滑に行った、という皮肉も一部ではあるのだが。
それ以外の面々とも、漢文(筆談)等を介したやり取りをすることで、徐々にこの場にいる皇軍の面々にも大よその状況が分かってきた。
2時間近いやり取りの末、一旦、使節の面々を別々の部屋に個別に軟禁し、使節と話し合った面々は、判明した状況を突き合わせることになった。
「まず、今日の日付ですが、イスラム暦の948年8月15日とのことです。これを我々の暦に換算した場合、1541年12月14日ということになります」
懸命に暦換算を行った士官の1人が報告すると、その場にどよめきが起きた。
イスラム教のモスクがあるということは、イスラム暦が分かる者がいる筈。
それで、イスラム暦から、今が何時なのかを確認しようとしたら、文字通り400年前にいることが、自分達に分かったのだ。
「ということは、16世紀半ば頃、ということか。日本の情勢は分からないのか」
いわゆる矢も楯もたまらない心境から、「金剛」に半ば押しかけていた陸軍の将官の面々の1人、武藤章中将が半ば喚いた。
「日本の現状が分かる者は、使節の中にいませんでした。ただ、日本らしき話をする者はいます。少なくとも琉球弁を話す者がいました。ということは」
直接、使節と話し合った通訳に当たった士官の1人が、そこまで言ったところで、それ以上の言葉は、喧噪によって遮られた。
「日本語があるということは、日本があるらしい」
「祖国がある」
「天皇陛下をお救いせねば」
本来なら腰を据えて、どっしりと構えて話すべきかもしれない。
だが。
寄る辺なき身に陥ったか、と不安に駆られていたところに、時が違うとはいえ、祖国があることが分かったのだ。
その場は騒然となった。
何故に中国語通訳が駆り集められたかですが、この時代は明の海禁政策の一方で、元の陸上、海上交易推進政策の残滓もあり、いわゆる華僑の初期、前半段階における東南アジアへの進出が進んだ時代ではないか、という推測を、皇軍上層部が行っていたこと。
また、中国語、更に商人ということは読み書きがある程度は出来る筈で、漢文による筆談が可能という判断も、皇軍上層部は行っていたことからです。
(それに、タガログ語、アラビア語通訳が、この時の皇軍内にいるか、と言われると)
もっとも、琉球弁が分かる人物がいたことから、その思惑は吹き飛ぶことになります。
なお、琉球弁云々ですが、1458年に万国津梁の鐘が作られる等、この頃の琉球王国は海洋貿易国家として、アジアで名を馳せていました。
そういった背景もあります。
(もっとも、この頃の東アジア貿易史に詳しい方に多大なツッコミを浴びそうな話でもあります)
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