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魔法使いは、賑やかな酒場を背に、すっかり暗くなった空の下に出た。人通りがない道は夜の静けさを強調し、魔法使いの心にひんやりとした風を吹きかけてきた。
魔法使いは、右手に掴んでいる四方の紙切れに、空色の目を下ろした。紙面には、鉛筆の芯を削って描かれた簡易的なマップが広がっていた。女中に飲み物代の銅貨を手渡した際、近辺にある宿を三軒ほど教えてもらったのだ。
魔法使いは、小さなマップを頼りに、夜明けの村を歩き始めた。
色褪せた皮靴が、一軒目の敷居を跨ぐ。
女主人が、店に訪れた魔法使いを、申し訳なさそうに迎えた。魔法使いは、女主人に団体客の予約が入り泊めることができないと言われ、外に戻った。二軒目も足を運んだが、同じような返答だった。
三軒目の主人が言うには、
「明日、王都から憲兵が来んだよ。嬢ちゃんを泊める余裕はねえの」
ということだった。
魔法使いは少し粘ってみたが、主人に優しく諭されて、宿から追い出された。慈悲もなく、ぱたんと閉じられた扉に、恨みがましい視線を飛ばす。ドアベルが立てた微かな音が、黒髪から覗く耳にくぐもって聞こえた。
はあ、と魔法使いはため息をついて歩き出した。
カーテンの隙間から溢れる光が、白い頬に当たって弾ける。
「星を見るのは好きだよ。郊外だからきっとよく見えるだろうね」
自身に言い聞かせるようにそう呟き、魔法使いは栗色のローブを揺らして、夜闇に身を溶け込ませた。簡易マップが描かれているメモを折りたたんで、上着の内ポケットに仕舞い込む。
魔法使いは、蜘蛛の子を散らすように、捲っていたローブの端を手放した。栗色の布地が、内に空気を含んで膨らみ、背後ではためいて萎む。血の気のない顔を上げた。空色の瞳が、蛍のような光源を認める。
村の出入り口——王都に続いている道から、村の中心に訪れた光は、ランプの火だった。
ランプの上部にある取っ手を持ち、暗闇を遠ざけていた二十代の青年は、ひっそりと佇む魔法使いに気付き足先を変えた。
青年は今宵の月にも劣らない美貌の持ち主だった。烏の羽のような髪と同色の双眸は、青年が漂わせている神秘性を一層駆り立てていた。
魔法使いは、青年の眩い容姿に目を見開いて、まじまじと見つめた。ランプの光が足元をちろりと舐めてきた所で、背を押されたように夕べの挨拶を口にする。
青年も挨拶を返し、光の中に入れた魔法使いを目にした。視線が土汚れのあるローブに止まり、履き潰されている靴に向かう。魔法使いが名乗り出る前に、旅人だと理解をしたのか、辺鄙な村へようこそ、と柔らかな笑みを浮かべて言った。
「“掟破りの薬師”だ。初めまして」
薬師はハグを求めた。
あまりにも自然な口調の要求だったので、魔法使いが気後れを感じたのは、互いの身を離した後だった。
薬師が、魔法使いから香る酒気に、くすりと笑った。
「……浴びるように飲んだのか?」
魔法使いは、弱火で心を炙られたような心地がした。上擦りかけた言葉を一度飲み込んで、「喉が乾いていてね」と森を散歩してきたような声音で答えて、続けた。
「オレンジジュースを一杯だけ」
「麦酒の香りがするが」
冗談と受け取ったのか、薬師が上品に口角を上げた。
視覚に対して、容赦なく振るわれた暴力だった。
魔法使いは、空色の双眸を泳がす。【スキル】による魅了を疑ったが、状態異常に掛かっている節は見られなかった。薬師はありのままだった。ありのまま美しかった。出生に人ならざるものが関わっていることは、誰の目にも疑いようがなかった。
魔法使いは目のやり場に困ったが、襟から覗いている首に視線を定めた。薬師に、宿に困っていることを話し、三軒以外の宿泊施設が村にあるか、訊ねてみる。
薬師は、我が事のようにしばし唸り、首を横に振った。
魔法使いは力のない笑みを引っさげ、礼を口にする。今夜の予定がプラネタリウムを見ることに決定しかけ——魔法使いの思考に天啓が舞い降りた。
魔法使いは、あ、と零し、薬師に訊ねた。
「教会はどこに?」
アーモンド型の黒目がぱちりと瞬く。
「この道を抜けた先にある……が、先日神父が腰を痛めてね。今は施錠されている」
薬師が気まずそうに、悪い、と言って、頬を指で掻いた。
魔法使いは一瞬、雨に濡れた子犬のような顔をしたが、ぱっと表情を改めて、間が悪かったなぁ、と穏やかに口にした。薬師に簡単な礼を告げて、魔法使いはランプの光から一歩離れる。
ぬるりと闇に潜ろうとしたローブの裾を掴み、薬師が魔法使いを引き止めた。魔法使いは空色の瞳を丸くして、玉のような顔を見上げる。
考えるより先に動いてしまったのか、薬師は「……あー」と薄い唇から意味を持たない音を紡いだ。少しの躊躇いを見せ、会話を続ける。
「何人か当てがあるんだが、来る?」
魔法使いは蜘蛛の糸を掴むように頷いた。
魔法使いは薬師の案内で、夜明けの村にある家々を渡り歩いた。
薬師が扉をノックすると、決まって内から顔を覗かせるのは、二十代くらいのうら若き村娘だった。家に訪れた薬師に、皆揃って表情を明るくする。だが、事情を話すと機嫌は下降するばかりか、沸点に達した。
「どうせ、その子とも抱き合ったんでしょ。ふざけないで!」
娘が、勢いよく扉を閉じる。
外に押し出された空気が、薬師の前髪をひらりと浮かせ、額をあらわにした。
魔法使いは、同様のセリフを五度、耳にしていた。やおら疑いの眼差しを向けると、薬師が「ハグだ」と肩をすぼめて訂正を入れた。
二人はウッドデッキから降りて、家の敷地を出た。
「まいったな……」
薬師が眉尻を下げて、ランプを持っていない方の手で、首の後ろを掻いた。
魔法使いは、心づかいだけでもう十分だ、と薬師に伝えたが、首を横に振られた。涼やかな美貌に反して、頑な返答だった。
薬師は一軒家に、八人に及ぶ家族と身を寄せ合って暮らしていた。魔法使いを泊める余裕はなく、そのことをちゃんと理解している。しかし、困っている他者を放っておけない性分なのだろう。
魔法使いは申し訳なさを感じた。宿探しをどうやって切り上げるかを議題に、思考を巡らせていると、つん、とローブを引っ張られた。
魔法使いは足を止めて、引っ張れた方に目を向ける。案の定、薬師が立ち止まってローブの裾を掴んでいた。
「こっちだ」と薬師に言われ、魔法使いは数歩、来た道を引き返す。
断られると思ったのか、薬師はその様子にほっとした顔をして、裾から手を離した。
「スノーマンは好きか?」
そう唐突に訊ねられて、魔法使いはきょとんとあどけない顔をする。その表情を目にした薬師が、正確に言えば雪のようなやつなんだが、と言葉を足した。
「そうだねぇ……、手足の寒さはへっちゃらだけど、心は簡単に凍っちゃうね」
魔法使いは「小心者なんだ」と付け加えた。
「そうは見えないな」と薬師は冗談を交えるように答えて、穏やかな口調で続けた。
「人嫌いではないんだ。あいつは君を傷付けるような言動はしない」
天上に住まう神に誓おう、と言って、薬師が左手の人差し指——第二関節の付近に口付けた。形式的な仕草は、神に対する畏敬が感じられた。
魔法使いは眩しそうに薬師を見上げた。
「その人を信頼しているんだね」
薬師が恥ずかしそうに笑って、幼馴染みでね、と口にし、会話を続けた。
「あっちは腐れ縁としか思っていないんだろうな……」
「きみがウインクをしたら、村中の女性の胸を撃ち抜きそうなのに?」
「幼馴染みは男なんだ」
真っ向からきた変化球に、魔法使いは一度口を噤んだ。空色の目を泳がして、会話の糸口を探す。
「ウインクしてみた……?」
「いいや。あいつは人間に興味がなくてね。俺が片目を瞑ったくらいじゃ無反応だよ」
魔法使いの歩調に合わせながら、薬師は眉尻を下げて返答した。
湖の表面を撫でる波紋のような声音だった。薬師とその幼馴染みは、気の置けない関係のようだった。
魔法使いは「人間に」と微かな声で反芻した。
木造の建築物から溢れる光が、背後に遠ざかり、一面に畑と平原が広がっていく。水路の役割を果たしている小川の先に、水車が二つ並び、また小屋が建てられていた。村を囲むように、並び立つ木々の前に、ささやかな灯火がぽつりと見える。
魔法使いは程なくして、それが一軒家の窓から溢れる光だと理解した。
薬師が、長い睫毛を揺らして、黒曜石のような瞳で闇を捉える。
「あいつは竜に執着し過ぎている。俺は時々、不安になるんだ。あの家に明かりが見えなくなることを想像してね」
「旅は気晴らしになるからなぁ。悪くはないと思うけどね。それに二足の竜なら、まだ可愛いものじゃないかな」
「四足の竜だ」
「……四足?」
魔法使いは眉をひそめた。
「あいつが関心を持っているのは、災禍の竜なんだぜ。笑っちゃうだろ?」
薬師は、そう問いかけつつも、つまらなさそうに口端を上げた。
“災禍の竜”といえば《魔物》を生み出して、国を大いに乱してきた悪しき竜の通り名である。国にいる誰もが真名を知っており、呪いを恐れて口にしたがらない。“災禍の竜”は畏怖の対象として、子どもを叱りつける際に使われるほど、悪名高い通称だった。
魔法使いも五、六歳のとき、両親からよく聞かされた通り名である。
普通であれば好く要素はない。どうして薬師の幼馴染みが、竜に気持ちを割いているのか、魔法使いは些か疑問に思えた。
「なにか理由が?」
そう魔法使いが訊ねると、薬師は暗闇を見つめるのをやめた。黒い双眸が、魔法使いの表情を観察し、和らいで弓形になる。
「詳しいことは本人に聞いてくれ。その方が話題に困らないだろう」
薬師は首の後ろを掻いて、「耳にたこができるくらい語ってくれるぞ」と、魔法使いの疑念をほぐすように付け加えた。
二人は細い道を辿り、一軒家の前に辿り着いた。
木造のこぢんまりとした家の後ろには、森を形成する大樹が並んでいた。その整然とした立ち振る舞いから、夜明けの村にある建築物が、伐採した木で組み立てられていることが窺えた。
薬師が扉の前に立ち、手の甲で二度音を鳴らす。薬師の呼びかけに答える者はいなかった。光を受けているカーテンにさえ、影が差さない。
ただ食欲をそそるシチューの匂いが漂っていた。
薬師は声を張り上げるためにしていた腹式呼吸をやめて、魔法使いについてくるよう指で合図をした。魔法使いは異論なく後に続く。
二人は家の裏手に回った。薪を手にした青年——“有明の狩人”が、屋内にある風呂場の水を沸かそうと火を焚いていた。
薬師がふうっと短い息を吐いて、返事くらいしろよ、と小言を口にする。
地面に片膝をついている狩人は、顔を火に照らされながら、ちらりと緑色の瞳を薬師に寄越した。
「何か用」
「こいつ。少しの間、泊めてやって欲しい」
魔法使いは、薬師に腕を引かれて、ランプの明かりの下に引き入れられた。夕方ぶり、と口にして片手をあげてみせると、狩人が流れ星でも目にしたように瞬きを繰り返した。
「……いいけど」
狩人は、分厚い手袋に覆われた手で、火炉の口を閉じる。土がついた膝を軽く払って立ち上がり、魔法使いを見つめた。
「シチュー食べる?」
あっさりと滞在を認めた狩人を、薬師はまじまじと注視した。魔法使いが夕食を食べるか否かを返答する前に、黒髪から覗く耳に、形の良い口を近付ける。
内緒話をするように声を低めて、薬師は魔法使いに忠告をした。
「駄目だ。やめておいた方がいい。やつの手料理は胃袋を木っ端微塵にする」
「胃を?」
魔法使いは、至近距離の美貌に身をすくめつつ、言葉を返した。
狩人が手袋を外し「君の胃が貧弱なだけだろ」と声音に苛立ちを含ませて、ひそやかなやり取りに介入した。
魔法使いは、酒場で夕食を食べてしまったと言い、穏便な形で狩人の誘いを断った。入浴をしたい旨を話すと、狩人は湯が沸いていないと、首を横に振った。
水を湯に変える呪文は、魔法を扱う《クラス》以外でも唱えられる、初歩的なものだ。
魔法使いは薬師に視線だけで問いかけた。薬師は狩人を指して、からっきしでね、と魔力のステータスが低いことを告げた。狩人が反論することはなかった。
魔法使いは、鞄から取り出した魔法書を片手に、狩人に風呂場まで案内をしてもらった。魔法使いが湯船に張られている水を温めると、狩人は瞳を僅かに隠している瞼を持ち上げて、短い感嘆の言葉を口にした。
数日ぶりに湯船に浸かれて、上機嫌になった魔法使いは、リビングルームに戻った。室内は、舌先に重みを感じさせるシチューの、濃厚な匂いがした。
狩人と薬師は、四人掛けのテーブルに座っていた。表面的に異様さは見受けられないシチューを、スプーンで掬っている狩人に、薬師が子どもを諭すような口調で話し掛けている。
魔法使いが廊下から顔を見せると、薬師は会話を切り上げた。
元より魔法使いが風呂から上がったら帰るつもりだったようだ。薬師は、明日も様子を見に来ることを約束して、夜の暗がりに戻っていった。
魔法使いと狩人は、家の外まで足を運び、薬師を見送った。
ランプの光が掠れてきた頃合いで、狩人に連れられて屋内に戻り、魔法使いは空き部屋に案内された。空き部屋は、机と椅子、寝台がぎゅっと収められている質素な内装だった。
魔法使いは、狩人に改めて感謝を述べ、夜の挨拶をして別れた。
天井にあるランプを灯さず、机に置いてある燭台のろうそくに、呪文で火をつける。薄明かりが青白い顔を照らした。魔法使いは机の前にあるカーテンを閉めて、鞄から魔法書を取り出した。栞を挟んでいたページを開き、文章に目を通す。
新米“魔法使い”の入門書を黙々と読んでいた魔法使いは、ふいに時計の針の音に鼓膜を叩かれ、目線をあげた。
良い子は眠る時間だけど、わたしは良い子じゃないからね。
空気に溶かすように呟き、魔法使いはしばらく時計の長針が動く音に耳を傾ける。また口を開きかけると、控えめなノックの音が言葉を遮った。
魔法使いは魔法書を閉じて、素直に扉を開ける。寝巻を身に纏った狩人が、眠たげにゆったりと瞬きをして、魔法使いを見下ろした。
「寝ないの」
「他人の家に泊まるときって、ちょっと興奮して寝られないことがあるじゃない? 部屋の空気が違ったり、シーツの肌触りに違和感があったり……」
「旅人なのに?」
「わたしだって家族と一緒に、町に暮らしていたことがあるんだよ」
狩人は「貴女が」と納得をしていない顔で返答をした。魔法使いは、足首にそっと氷を当てられたような気分になったが、そうだよ、と端的な相槌を打った。
狩人が軽く腕を組むと、白茶色の頭を扉の枠組みに寄り掛からせた。水分を少し含んだ猫っ毛が、壁に抑えられて、くしゃりと跳ねる先を変えた。
「子守り唄でも歌おうか」
「酒飲みに子守り唄を?」
「ジュースにアルコールは入ってないしね」
魔法使いは、ばつの悪い顔をした。薬師が会話の中で、魔法使いの様子を口にしたのは、簡単に推測できた。
狩人が、ぼんやりとした緑色の瞳を瞼に隠す。柔らかそうな唇が動いた。
魔法使いの耳を通った旋律は、今までに訪れた町や村でも聞いたことがなかった。国で使われている言語とは異なっており、どのような歌詞なのか理解できない。しかし、優しい旋律は、不思議と心の奥にじんわりと染み込んできた。
子守り唄を傾聴していた魔法使いは、荒野に置いて行かれたような寂しさを覚え、吐息を漏らすように笑った。
最後の一節を口にし終えた狩人が、瞼を持ち上げて瞳を覗かせる。
「寝られそう?」
「おかげさまで今夜は迷いなく眠れるよ。ありがとう。きみに感謝と祝福を」
魔法使いは最大の謝意を示すため、狩人の左手をすくいとって、その人差し指に唇を触れさせた。狩人は、夢を泳いでいるような表情をしたが、目を見開いて左手を引き戻すと、「世辞はいいよ」とぶっきらぼうな口調で言った。