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眠らぬ竜に祝福を  作者: 奥住 咏
第一章 夜明けの村
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1

 けもの道の散歩も、段々様になってきた気がする。

 “殻の魔法使い”という通り名を持つ少女は、一人でそう言った。手の甲で幹をノックしたような声は、夕日が差し込んできた森に染み込んでいった。

 魔法使いは、膝丈ほどある栗皮色のローブを身に纏っていた。日に焼けた皮の靴が、湿り気のある土を踏んでいく。パン屑を落とすように、点々と足跡が残っていく。

 迷いのない足取りだった。

 魔法使いは迷子だった。

「え?」

 魔法使いは短く聞き返した。

 フードの影に潜んでいた空色の双眸が頭上を見遣る。

 新緑の葉が重なり合っている隙間から、暮れかけている空が見えた。魔法使いがいる位置からそう遠くない場所で、烏の群れが黒点のように空を駆け、声を上げている。

 魔法使いは顔を上げたまま、足を止めずに呟いた。

「別にね、動く屍みたいに夜通し歩き続けてもいいけど……、今日中には村に着きたい、っよ——」

 ね。と魔法使いの語尾が掠れる。

 魔法使いは、土から顔を出していた木の根に、左足のつま先を引っ掛けていた。上体のバランスを崩し、魔法使いの心はひんやりとした舌に舐められる。咄嗟に出した右手で重心が偏り、中心に戻そうとした意図に反して、体は草薮に雪崩れ込んだ。

 細い枝が戯れるように、右頬に走り、皮膚を掻く。

 いっ、と小さな声をあげた魔法使いは、宙を握った右手に、ひくりと口端を歪めた。草薮を通り抜けた先は、なだらかとは言えない勾配の斜面だった。声にならない悲鳴を置いて、体は玉転がしのように、下方に連れていかれる。

 視界が目まぐるしく回った。

 ローブに土が降りかかり、栗皮色をさらに濃くする。腕や背中に刺さってくる石や根っこに、魔法使いが耐えていると、ふいに浮遊感が訪れた。肉切り包丁で切断されたように、そこで斜面が終わっていた。

 ぽーん、と魔法使いは軽く投げ出された。

 驚きを含んでいる空色の目に、数メートル下で同様の表情をしている少年が一人見えた。

 中折れハットから、白茶色の髪を零している少年は、ぽかんと口を小さく開けていた。革手袋に包まれた手が、少年の頭上で咲くように広げられる。

 少年は躊躇いなく両腕をあげていた。

 魔法使いは目を疑った。

 目を疑っているうちに、少年の上に体が落ちていった。

 腹部と腰に腕が絡みつき、浮遊感が消えたことで、魔法使いの心に安堵が灯る。一秒後、それは無情にも吹き消された。少年が、魔法使いを支えきれずに、後ろに倒れ込んだのだ。

 魔法使いは、少年を押し潰さないよう、硬い地面に手をついた。投げ出される羽目になった中折れハットが、指先にかすかに触れた。

 魔法使いの胸元で、少年が低い呻き声を発する。二人が倒れている地面は、馬車や荷車を通すために、表面が固められていた。魔法使いは、この道路が夜明けの村に続く、正規のルートだと知った。

 幸運だ、と輝いた空色の双眸に「……なにが?」と、押し倒された状態の少年が返してくる。

 魔法使いは体を強張らせ、ぎこちない動作で少年を見下ろした。

 少年は十代後半くらいの見た目をしていた。ふわふわとした猫っ毛が、淡い色をした地面に散らばっている。瞼にやや隠されている緑色の双眸が、遺憾だと言いたげに、魔法使いを見上げていた。

 魔法使いは、すぐさまに謝罪と礼を口にした。少年から身を引こうとする動きを読んだのか、背中にあった手が離れていく。

 少年は、魔法使いが立ち上がる様を、身を起こさずに見ていた。フードの裾を引っ張って、顔に掛かる影を増やした魔法使いは、少年の視線に気が付き手を貸した。

 少年が立ち上がると、容易に目線が合わなくなった。

「旅の人?」

 “有明の狩人”と名乗った少年は、しとしととふる雪を思わせる声音で、魔法使いに訊ねた。

 魔法使いは、ローブについた汚れを手で払いながら、うん、と返答をした。

「夜明けの村に行きたいんだけど、この道で合ってる?」

 狩人が、中折れハットを拾い上げ、砂を落としてから目深に被った。

「案内するよ」

 魔法使いは狩人に視線を戻した。狩人は、魔法使いが転がり出てきた断層を見上げ、少ししてから言葉を付け加えた。

「日が暮れてきたからね」

 魔法使いはしばし耳をすませて、ありがたい、と言い、狩人の案内を受けることにした。


 狩人は口数が少なかった。

 跳ねるように言葉を返す魔法使いと違い、一つ一つ踏みしめるように文章を形作っていた。どうやら、己と狩人の間に流れている時間は、若干ずれているらしい。そう認識した魔法使いは、会話のテンポを落とした。

 狩人がすらりとした足で生み出す歩みは変わらなかった。魔法使いは砂利道を少し駆けるように歩いていた。

 魔法使いの投じる話が、「今日の夕飯は何にするの?」という陳腐な内容になってきた所で、狩人は口を開いた。

「あまり道を外れない方がいいよ」

 世間話を断ち切られた形となったが、気遣いを含んでいる言葉に、魔法使いの右手の爪先がぴくりと動いた。猟犬が五メートルほどの距離を取りながらも、側に座ってくれたような心境だった。

 魔法使いは戯けた口調で訊ねた。

「獰猛な野生動物でもいるのかな」

「災いがいる」

「魔物が?」魔法使いは首を傾げてみせて「ちょっと大きな狼とか猪じゃなくて?」と言った。

 近年では《災い》が巷の話題を賑わすことは少ない。目撃情報が減り、その討伐の多くを担っていたギルドが、新たに別の事業を展開しているくらいだ。魔法使いが、狩人の見間違いではないかと考えるのは、至極普通のことだった。

 狩人はただ頷いた。

 魔法使いは、自身の左側にいる狩人をまじまじと見上げた。

 狩人は、弓と矢筒を背負っていた。しなやかな木で作られた弓は、十代に満たない子どもと同じくらいの身丈をしていた。

 神妙な顔で、魔法使いは質問を重ねた。

「この周辺に」

「多くはないけど」

「ふうん、……ふーん、そっか。きみと会えたことを神に感謝しなきゃ。本当に屍になって森を彷徨う所だったからね」

 魔法使いは、左手を右手に重ね、人差し指の第二関節に唇を落とした。

 恭しい仕草だった。狩人が、つばの下で緑色の瞳を動かし、瞼を下ろした魔法使いを胡乱げに見遣った。

「貴女も崇めているの?」

 魔法使いは目を開けて、もちろん、と口にすると、数秒ほど下唇を軽く噛み「ただひとりをね」と付け加えた。

 魔法使いと狩人の背後から、蹄の音が迫ってくる。程なくして、憲兵を乗せた栗毛の馬が一頭現れ、二人の長く伸びた影の横を、颯爽と駆けていった。


 夜明けの村に到着した魔法使いは、狩人と別れを告げ、村の酒場に足を運んだ。

 酒場は天井が高く、二階にまで及んでいた。店の奥ではポーカーによる賭け事や、ダーツなどの遊技が行われ、日が暮れてそう時間が経っていないのに、客でごった返していた。

 魔法使いは、二十代半ばの女中に話しかけられるまで、店の入り口で佇み、男たちの陽気な声で紡がれる、陰気な会話にしばし耳を傾けていた。

「あーら、おちびちゃん。見かけない顔ね。一足先に大人の気分を味わいたくなっちゃったのかしら」

 笑顔が素敵な女中は、フードに隠れている魔法使いの顔を覗き込んで、遠回しに退出を促してきた。魔法使いは、ヘーゼルの瞳が注意深く観察してくるのを、背にフードを追いたてることで遮った。

 友好的に、魔法使いは口角を吊り上げてみせる。

「これでも十八歳を超えているよ。もしかしたらお姉さんよりも年上かも」

「ふぅ〜ん……、随分と可愛らしい顔をした大人がいたものね。言うまでもなく、辛いのもイケる口なんでしょう?」

「残念なことに甘党なんだよね」

「うちにはオレンジジュースしかないわよ」

 女中は興味をなくしたように、「好きな所に座りなさいな」と魔法使いに言い、酒場のマスターがいるカウンターに向かっていった。

 魔法使いは小さく息を吐いて、頬に入れていた力を抜いた。

 空色の双眸が、空いている席を探し求める。酒場の隅にある四人席に、室内にも関わらずフードを被っている、体の線の細い客が一人いた。魔法使いは脳内で協議をし、相席を求めることにした。

 淀みなく、栗皮色のローブから足を進ませ、六歩目で止まる。左目を瞑った。

 片方が暗くなった視界を、黄金色の発泡酒が通り過ぎた——と思ったら、左頬と髪の先に水滴が滴っていた。魔法使いが眉をひそめ、頬を手の甲で拭うと、太い腕がローブを纏った肩に回ってきた。

「いやぁ〜、すまんなぁっ」

 誤ってビールをぶっかけてきた男は、酔っているのか「がははっ」と大口で笑い、体を揺らした。肩に腕を回されている魔法使いの体も揺れた。テーブルを囲んでいる男の同僚たちも、顔を赤らめて朗らかに笑っている。

 魔法使いはテンションの高さについていけず、いえお構いなく、と十歩くらい引いた態度で答えた。

「そうかそうかっ」と男はお構いなしに、テーブルに放られていたタオルを掴み、ごしごしと魔法使いの顔を拭う。ごわごわの繊維と乱暴な手付きも相まって、魔法使いの左頬は瞬く間に赤くなり、髪はあちこちに跳ねた。

「おい何か奢ってやれよ」「ぶつかって、そのまんまの気かぁ?」

 二人の同僚が男を囃し立てる。男は大仰に、それもそうだ、と頷き、夢を渡り歩いているような目で、魔法使いを見下ろした。男の顔には、一文字の古い傷跡が刻まれていた。

「嬢ちゃん、余所モンだろぉ? なぁーんでも答えてやるぜ。一つだけじゃなくて、いーっぱい大サービスだ」

 魔法使いは口端を上げてみせて、一つでいいです、と返し、男に体を揺すられながら数秒ほど考えた。

「最近、災いの動向はどうですか?」

「あぁ〜ん? 飲んだくれの俺らを見れば一発だろぉ。この村には平和主義者しか居ねえしなぁ!」

 男と同僚たちは弾けるように大笑いをし、酒場を大いに賑やかす一角と化した。そうですね、という魔法使いの端的な相槌は、席に近付いてきた女中の「騒ぐんならもっと頼みな!」という注意に掻き消された。

 三人が腹を痛ませながら、女中から追加のビールを受け取る。

 魔法使いは、肩にのっている腕の力が緩んだ隙に、拘束からするりと抜け出した。退席の挨拶をして、女中とその場を後にする。

 女中が、トレーにのせているオレンジ色のグラスを、魔法使いに手渡して言った。

「良い大人なら、上手く躱す術を持っておきなさい」

 魔法使いは髪を手櫛で梳きながら、苦笑に近い微笑みを浮かべ、心から感謝を述べた。左頬の赤みはすっかり落ちていた。


「ご一緒してもいい?」

 魔法使いは、椅子の背凭れに左手をかけて、右手のグラスをちょっと揺らしながら、首を傾げてみせた。

 実体がないように、ひっそりと四人席に一人でいる客は、遠目で確認したときよりも小柄だった。天井から落ちてくる照明で、フードの中は一層暗く、口元しか窺えない。桜色をした口唇が、真っ白な肌によく映えていた。

 こぢんまりした客は、何も答えない。

 魔法使いは、客の手元にある、透明感を含んだ黄色の飲み物に目を向けた。

「きみは林檎ジュース? わたしはオレンジしかないって言われちゃった」

 魔法使いがテーブルにグラスを置いて戯けてみせると、客は少しの間を置いて「林檎ジュースだけだって聞いたわ」と会話を成立させた。気高さを感じる、芯の通った声だった。

 客から了承を得た魔法使いは、背凭れを引いて腰を掛けた。

 “殻の魔法使い”と自己紹介をすると、十八に満たない客は“盗賊”とだけ答えた。

 魔法使いは引っ掛かりを覚え「盗賊さん?」と聞き返した。

 この国では名前が廃れ、通り名を使うのが主流だ。その通り名がなく、クラス名だけを名乗れるのは、王族に限られている。

 魔法使いの困惑を読んだように、盗賊が挑発的に唇を上げた。

「“名無しの”」

「……小悪魔だねえ」

「失礼ね。幼い頃は小さな翼があったのよ。みなを笑顔にしたの」

 魔法使いは盗賊の幼い姿を——口元しか窺えないので、初めにあどけないふっくらとした唇を想像して——金髪の幼子を思い起こし、微笑みと共に息を零した。

「名はご家族から?」

「育て親から。……寒い地域だった。私を真っ白なキャンパスに例えて、好きな色に染まっていいのよって」

 フードの内から、盗賊が真っ直ぐな視線を、魔法使いに飛ばした。

 魔法使いは、グラスにしがみついている水滴に、指を伸ばして皮膚を濡らすと、すてきだね、と盗賊に返答した。

 盗賊がグラスに口をつけ、林檎ジュースを一口含み、訊ねてきた。

「貴女は?」

「内側を小突いて、ぴよぴよって出てこられますように、だったかな」

「成長に紐付けたのね」

「ご期待に沿えず、まだ魔法使いの卵だけどね。魔法書がないと呪文の一つも唱えられない。……きみはこの村で平和を唱えに?」

 盗賊がこてんと首を傾げてみせた。フードの影から、一房の金色が流れ落ち、照明の光に晒される。

「貴女も早めに宿をとっておいた方がいいかもよ」

 桜色の唇が微笑んだ。

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