人は理想において、人と分かり合う必要はない
しばらく前に、暇つぶしに友人が訪ねてきて昔のアニメを観たのですが、びっくりしたことがあります。
その旧友とはかなり話が合う方で、久しぶりに鑑賞することになった作品には、お互いに並々ならぬ思い出がありました。
しかし、長い続き物のため「そのエピソードはあまり記憶していない」ということだったので、僕の中では伝説の神回だったそのスペシャルな話を見始めた所、「すごいなあ」と言いながら、そいつはクライマックスでつまみをボリボリ食べていたのです。
まさに衝撃でした。
僕は、感動する作品などは息を止めるような集中力で見るし、とてもじゃありませんが面白いのが分かっていてポップコーンを片手に「ハハハッ」などという芸はできません。
しかし、お互いに尊敬する作品でこうも心の置き所が違うのかと、一つの悟りを得られた気がしました。
そうです。
人生も中頃になって本当に遅い気づきですが、自分が心の底から敬意を置いているものは、 別に他人と分かち合わなくていいのです。
これまで、何かのものすごい愛好家なのに、ほとんど人に語ろうとしない方を幾人か見てきました。
ずっと「何でそんな好きなのに、黙ってられるの?」と不思議だったし、僕は人に ”自分を分かってもらいたい” ”寂しい” などとほとんど思ったことがないぶん、自分が敬意を置く作品は勧めなくては気がすみませんでした。
何故かは分かりませんが、それが僕の使命みたいに感じてたんですね。
しかし、その友人の「ボリボリ」で、昔なら間違いなく腹を立ててたんですが、まるですべての疲れが取れたように、すっと楽になれたのです。
奇妙でした。
「ああ、自由な人たちって、こういう感じなのか」という思いで、”自分がやらなくてはならないこと”の中で、相当大きなものが必要なかったことを知ったのです。
よく、コアで血気盛んな若者が、趣味の槍でお互いを刺しまくってますが、おっさんになってふと感じたことは、「その最高の蜜の味は、あなたが独り占めできるものなんだよ」ということですね。
感性の鋭い人ほどよく喧嘩しますが、人の天才性は分かち合うことができません。
そして物知りでまんべんのない人を「偉いね」「賢いね」という風潮がありますが、常に時代が、多くの人が求めている『新しい風』は、そういった成熟からは生まれない気もします。
というわけで、僕が今回勝手に出した結論は、「好きなものが人と分かち合えなかった時、その孤独はあなたの才能の突出具合ですよ」という、ちょっとまとまりの悪いものでした。
それでは!