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またね、桜

作者: 鷹尾だらり

 どこかで、赤ん坊の泣く声が聞こえる。


 声を張り上げて、命の灯火を燃やす泣き声。

 自分はここにいるぞと、生きているぞと示す証。


 その声はきっと、これから始まる人生の壮大な一歩を踏み出すための号砲なのだろう。

 産婦人科の当直室に据えられたソファに腰を下ろし、僕はぼんやりと、そんなことを考えていた。


 ここは、命の産まれる場所。

 日に何人もの赤ん坊が誕生し、生を謳歌する歌声を歌う。

 今はまだ拙くとも、やがては色とりどりの人生を歌う、美しい歌になることだろう。


 ――生命の誕生


 その言葉を聞く度、僕の胸は酷く締め付けられる。

 その言葉を聞く度、僕は追憶の海底に沈んでいく。

 深く深く、出口のない、冬の日の星空のように静かな、静かな海底へ……。




 ◇◆◇




 僕が彼女と出会ったのは、まだ冬の寒さ残る、肌寒い春前の昼下がりだった。


 まだ寒いとは言え、暖かいお茶を飲むには些か暑すぎる。だが、アイスを食べるほどではない。

 そんなひねた季節の中、僕は家を出た。

 ポケットに160円とスマホを押し込み、人通りの少ない昼下がりの町を歩いていく。


 途中、自販機でコーラを買って、河川敷を通る。

 僕の密かなお気に入りスポットだ。

 春になれば桜が満開になって、それはもう美しい薄紅色の吹雪を舞わせる。


 だが僕は、の河川敷が好きだった。

 桜の咲かない、芽吹く直前の桜が。

 僕自身も、理由はよく分からない。

 何が僕の琴線に触れたのか、何を思って僕は寂しげな大木に惹き付けられるのか。


 とにかく僕は、誰の目にも止められない季節外れの花見を、毎度のように楽しんだ。

 買ったばかりの白のイヤホンを耳の後ろに掛け、音楽を楽して。


 丁度一本の垂れ桜の孤樹に差し掛かった時。

 イヤホンからは、少し前に流行った歌謡曲が流れていた。

 彼女と出会ったのは、丁度そんな時だ。


「――――♪」


 唐突に聞こえた歌声に、僕は足を止めた。

 桜は芽吹く前が好きだが、垂れ桜は滝のように流れ出す、満開の頃が好きだ。

 今の時期の垂れ桜には、興味はない。

 それでも足を止めたのは、イヤホンを嵌めた耳の隙間から入ってきた歌声が、酷く美しかったからだ。


(誰だろう……?)


 垂れ桜の根本には、ブロンドの髪を腰まで伸ばした女の子がいた。

 右手には空になったコーラのペットボトルを持て余し、左手にはまだ値札シールが貼られたイヤホンのパッケージ。

 物憂げな横顔は酷く綺麗で、どこか浮き世離れしていた。


「ん~……?」


 彼女の端正な顔が、少しだけ歪んだ。

 眉目秀麗。顔をしかめても、それだけで画になる。


「とれない~……」


 ポツリと呟く彼女。

 手元を見れば、イヤホンのパッケージ。まだ半分ほど、ビニールが被ったままだ。


 分かる、分かるよ。

 イヤホンのパッケージって開けづらいからな。

 ビニールは静電気で指に引っ付くし、プラスチックの蓋は固い時がある。


 だから――


「手伝いましょうか?」


 僕が彼女に近付いたのに、きっと下心なんてなかったのだろう。


「え、あ、はい。ありがとう……」


 それが、僕と彼女の出会いだった。


 それからも僕は河川敷に通い、彼女とポツリポツリと会話を重ねた。

 今思えば、この時僕はもう、彼女に惚れていたのかも知れない。

 だが僕がその気持ちに気付いたのは、出会ってから半年ほど経ってからだった。


 僕が自分の恋心に気付いた、次の日。

 僕は遂に、彼女を呼び出した。

 初めて出会った河川敷で、夕焼けを背にして。

 僕は、ありったけの想いを伝えた。


「あなたの事が、好きです。付き合って、ください……っ!」


 ダメ元の告白だった。

 高3にもなって彼女なんて出来たこともないし、自分の顔に自信が持てるほどナルシストじゃない。


 それでも彼女は、フフッと笑って


「よろしくね」


 と笑いかけてくれた。

 格好悪い僕の手を、そっと繋いでくれた。


 しなやかな白磁の指が、僕の指に絡まる。

 それだけで僕の心臓は、張り裂けそうな程に暴れまわった。

 こうして僕らは、恋人になった。



 そこから先は、絵に描いたようなリア充生活を送った……と言うわけでもない。

 どっちかの家へ上がって、映画を見たり音楽を聴いたりした。

 お揃いの、白のイヤホンを買ったりもした。


 その時の嬉しそうな彼女の顔は、今でも忘れられない。

 普段は綺麗で澄ました顔が、その時ばかりはニマニマと嬉しそうに緩んでいた。


 そして、直ぐにイヤホンを付けようと言い出した。

 何故か、一つのイヤホンで一緒にだ。

 流石にドキドキして、イヤホンを耳に掛ける手が震えた。


「へぇ~。君はこんな事でも緊張しちゃうのかな~?」


 彼女は、そんな僕を面白がるように笑っていた。

 その耳には、既にイヤホンが付いている。

 経験豊富だってアピールか、ぐぬぬ。


「う、うるさいな~……」


 緊張した。

 緊張して、僕はどうでもいいことで彼女の意識を逸らそうとした。


「そんなこと言ったって、イヤホンの付け方間違ってるよ」

「え?」

「イヤホンはね、コードを耳の裏から通して付けるもんなんだ」


 言いつつ、彼女の耳からイヤホンを抜き取る。

 そのまま彼女の耳の裏にコードをかけ、もう一度イヤホンを付け直した。


「これでよし」

「うげえ、君って細かいなぁ……」


 恥ずかしさも緊張も忘れ、満足げに頷く僕を、君は若干引き気味に見ていたっけ。

 そうして二人で聴いた尾崎の『I love you』は、少し僕らを大人にしてくれたような、そんな気がした。


 ああ、あの時の僕らは、幸せだった。

 すぐそばに君がいて、いつでも笑いかけてくれて……。

 時々ケンカもしたけれど、時間と一緒に忘れていって、またお互いを好きになった。


 あの頃の僕らは、何でも出来た。

 二人で海にも行ったし、花火もした。

 旅行も行ったし、体を重ね合わせたりもした。


 ――彼女がいれば、何も苦ではない


 そんなことさえ思っていた僕は、盲目だったんだろう。

 すぐそこに迫っていた幸せの終わりなんて、気にも止めなかったんだから……。



 付き合って一年が経った頃。

 彼女はよく熱を出すようになった。

 首筋が痛いと、辛そうにすることが増えた。

 それでも彼女は、いつも僕と一緒にいてくれた。


「大丈夫だよ~。君はホントに心配性だね~」


 そう言って君は、頑なに病院へ行こうとしなかった。

 引きずってでも、彼女に嫌われてでも、僕は彼女を病院へ連れていくべきだった。


 だが、後悔ってやつはいつも先には立たない。

 後悔した時は、もう何もかもが手遅れだったのだ。


 僕がなんとか医大へ進学できた年の晩冬。彼女が、倒れた。


 急いで病院へ担ぎ込んで、医師の診察を受ける。

 一通りの診察を終えた医師が、やがて僕に言った言葉。

 それは今も、時折夢に出る。


『悪性の腫瘍。脳にも転移が見られます。もって、3ヶ月ほどでしょう』


 そこから先は、もう何も覚えていない。

 医師が駆け付けた彼女の両親とした話も、全く耳に入ってこない。

 遅れて駆け付けた僕の両親に支えられ、僕は彼女の寝かされた病室へと足を運んだ。


 病室は、大きな個室。

 窓際から差し込む柔らかな夕陽に照らされて、彼女は静かに眠っていた。

 細く美しかった首筋や、リンパ節の至るところが晴れ上がっている。

 絵画のように美しい顔にも、今は汗が乗っていた。


 誰からの慰めの言葉も、窓から見える首都高の光景も。何もかもが、もうどうでもよかった。

 ただ、彼女を。彼女だけを見ていた。

 初めて出会った時のように、一心に。黙っていれば、彼女がまた目を覚ますんじゃないかって思って。


 結局、彼女が目を覚ましたのは倒れてから三日経った日の事だった。

 目を覚ました彼女は、どこかスッキリした顔をしていた。

 今思えば、あの時君は、もう自分の体のことに気付いていたんだろうね。


「やあ……、ひどい顔だね……」


 久しぶりに聞いた彼女の声は、ひどく掠れていた。

 それでも起き抜け特有の掠れた声は蠱惑的で、久しぶりに聞けた彼女の声に、僕はドキリと胸を高鳴らす。


「俺より自分のことを心配しろよ……」

「なぁに? 私の顔がひどいって言いたいの~?」

「違う、そうじゃないよ……」

「なら、いいじゃないの」


 いいもんか。この状況で、どうしてそんなことを言えるんだ。


「それより、これからの事を喋ろうよ!」


 どうして、君は笑えるんだ?

 どうして、そんなに前向きになれるんだ?


 今になって思えば、君は僕を精一杯励まそうとしていたんだね。

 君は僕のいないところで、泣いていたんだよね。

 気付いてあげられなくて、ごめん……。


「こっ、これからか! そりゃ楽しそうでいいな!」


 涙を拭って、僕は精一杯笑って見せる。

 それから僕たちは、これからの事を話し合った。

 病気のことなんて一切触れない。

 元気だった頃の、あの分け隔てない恋人同士の会話だった。


 退院したらどこそこに行こうとか、どこの店のケーキが食べたいとか。

 僕は医大の授業もすっぽかして、一日中彼女と談笑した。

 毎日、毎日。

 日に日に痩せ衰えていく彼女を見ながら……。


「死んでるみたいに生きるより、死んで皆の中で生き続ける方がいいな~」

 

 彼女はそう言って、延命処置を是としなかった。

 ただ機械に繋がれて、眠り続けるのは嫌だそうだ。

 僕と彼女の両親は、その意思を尊重した。


 そして、3ヶ月目。

 陰気な雨が降り頻る、しめやかな朝だった。


 彼女の容態が、急変した。

 激しく咳き込み、吐血。

 突然「君のイヤホンを取ってきてよ」と言われ、家からイヤホンを取ってきた時のことだった。

 もう、声を聞くことも叶わない。


 涙が溢れ出した。

 泣いちゃダメなのに、彼女が頑張ってる間は、泣いちゃダメなのに。

 僕は泣いてしまった。

 古着屋で買ったジーンズを、涙の滴が暗く染めていく。


「……ッ?」


 ふと、右ポケットに入れていたスマホが振動した。


「見、て……」


 呼吸器に覆われた口許が、僅かに言葉を紡いだ。

 震え覚束ない指先で、スマホを触る。

 直後、僕のスマホに、一通の動画が届いた。

 送られてきたのは、最後のラブレター。

 入院直後。まだ少し、元気だった頃の彼女がいた。


『私の世界一の恋人へ。

 この動画を見てるってことは、もう私はこの世にいないんだね……ってのは、言ってみたかっただけ。

 本当は、頑張って生きてるんだと思います。

 でも、もう私は喋る体力もないと思う。

 だから私は、この最後のラブレターで全てを伝えたいと思います。


 ……その前に、イヤホンを付けてくれると嬉しいな。

 二人で買った、思い出のイヤホンを……』


 あわててイヤホンを付ける。

 イヤホンの付け方なんて気にしてる暇はない。

 ただ乱暴に、耳に突っ込んだ。

 同時に、動画の中の彼女は喋りだす。


『私はもう、君と一緒に生きていくことも出来ない。君に、触れることも出来ない。

 歳を取って、シワくちゃになった顔を笑い合うことも出来ない……』


 動画の中の彼女は悲しげで、儚げで、ともすれば今にも崩れてしまいそうだった。

 でも、彼女はまだここにいる。


『――でも、私は幸せだよ

 君は、何があっても私の側にいてくれたから。

 未来も何もない、こんな私を、変わらず愛してくれたから』


 消えそうな命の灯火を必死に焚き付けて、死神の鎌から必死に逃れようとしている。

 がんばれ、がんばれと励ましながら、僕はイヤホンから聞こえる彼女の声を聞き続けた。


『ありがとう。どんな感謝の言葉よりも重く、どんな『ありがとう』よりも――ありがとう』


 涙で濡れた顔で、彼女は笑みを作る。

 自らの死を実感した者の浮かべる、太陽のような笑顔。

 その笑顔は、涙で顔をぐしゃぐしゃにした僕の顔を、もう一度笑わせてくれた。


『へへへっ……。実は、まだあるんだなー。でも、これで最後だから、よ~く聞いてね?』


 そう言った画面の中の君は、ニッカリと笑った。


『ねえ、私を見て! 君の前で、頑張って生きている、私を見てて!』


 少し衰えの色を見せる彼女は、それと釣り合わぬ程の快活な声で僕に呼び掛ける。

 その声に、僕は顔を上げた。


「前、屈んで……」


 言われた通り、上半身を屈める。

 すると、イヤホンのコードが引っ張られた。

 震える彼女の手が、僕のコードを引っ張っていた。


「あはは……。イヤホンの付け方、間違ってるよ……」


 言いつつ、彼女は枝のように細く、力強い手付きで僕の耳にイヤホンを付け直していく。

 何度もイヤホンを落としそうになり、何度も耳の場所を間違えた。

 それでも彼女は、手を止めなかった。

 それでも彼女は、微笑みを絶やさなかった。


「……うっ、……うぅっ!」


 止まらない涙が、僕の頬を止めどなく流れ続けた。


「泣かないの……。私は、幸せだから。最後は……笑って、見送って……」


 僕の頬に伝う涙を拭いながら、彼女はまた笑った。


「じゃあ、もう行くね……。バイバイ、大好きだよ……」

 

 最後に僕の頬をそっと撫で、彼女は、目を閉じた。


 その翌日。

 彼女は、静かに息を引き取った。

 眠るように静かで、安らかな最期だった。



 ねえ……さくら

 あれからもう、10年経ったんだね。

 君と初めて出会ったあの垂れ桜も、今はもう満開だ。

 もし君が、まだ天国でも笑ってくれているのなら、僕はまた明日も頑張ろうと思える。


 ああ、そうそう。僕、産婦人科医になったんだ。

 生命の誕生や、理不尽な死と向き合って、生きている。


 少しは、君のように強くなれたのかな?

 今はまだ分からないけど、次に会えたら教えてよ。

 それで、頭を撫でて言って欲しい。


『よく頑張ったね』


 って。

 だから、サヨナラは言わないよ。

 大切な人と……君とまた、会える日まで――


「――またね」

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― 新着の感想 ―
[一言] なろうで初めて最後まで読んだ恋愛短編です。出会いから付き合うまで短いと思いつつ、二人が本気で愛し合っているのを文章で伝わってきて感動しました。少し戦ってみなよ!と思いながら現実は残酷ですね。…
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