さきほこるひかり(6)
大きく膨らんだお腹を、クレアは優しく撫でた。子供が産まれたら、その時は観念して籍を入れてほしい。そんなことを言われるとは、つゆほどにも思っていなかった。
彼にとってクレアは、不慣れな異国の土地で出会った一人の女でしかなかった。クレアだって、カップルを偽装するのに便利に使わせてもらっているだけだった。あくまで、ドライな関係であれば良かったのに。
――どうしてだろう。
クレアは、誰かを呪うことができなくなってしまった。お金さえもらえれば、今までなら何ということでもなかった。男でも女でも。年寄りでも子供でも。ちょっとした頭痛から、交通事故まで。なるべく苦しませることも、即死させることだってクライアントのお好み次第だ。クレアにとって、他人の人生なんて何の価値も持たないものだった。
それが、何一つとして障ることができなかった。いざとなると、彼の顔が脳裏をちらついた。何も知らない、普通の人間。ただ毎日をあるがままに生きて、何の疑いもなく、明日がくると信じている。どうしようもなく愚かで。
どうしようもなく、愛しい人。
呪い屋は廃業した。そうなったら、クレアには食べていく手段がない。人を呪う以外に、クレアにできることなんて何もなかった。クレアをここまで追い込んだのだ。少なくとも、その責任ぐらいは取ってもらわなければならなかった。
何も知らない彼は、天涯孤独のクレアを快く受け入れてくれた。いつかは日本に帰るのだろうと思っていたら、こちらに帰化するつもりなのだと言いだした。どれだけ頭が悪いのか。無理にそんなことをする必要はない。クレア自身、この国には良い思い出などは何もなかった。むしろ、こんな汚物に塗れた世界から、クレアを連れだしてほしいくらいだった。
そんなことを言っている矢先に、子供ができた。自分の中に彼との子供がいるのだと思うと、クレアは不思議と温かい気持ちになった。何もできない自分が、なぜか許せるようになった。このままこの国で、この街で。
彼と生きていくのも、悪くないと考えるようになっていた。
その日は、産婦人科の検診にいく予定になっていた。もう臨月が近い。いつ産まれてもおかしくはなかった。入院することも勧められたが、お金はなるべくとっておきたかった。クレアの人生で、お金が足りていることなんて一度もなかった。
いつもの散歩コースを通って、クレアはぶらぶらと歩いていた。季節は秋だ。そろそろ肌寒さを感じる。彼のために、冬物でも用意した方が良いのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、小さな悲鳴が聞こえた。
そちらに目をやると、どうやら子供が突き飛ばされたようだった。ずんぐりとした男が、慌てて走り去っていく。たまたまお互いによそ見でもしていたのだろう。大した話でもない。クレアはそのまま通り過ぎようとして。
心の奥底に、突き刺すような痛みを覚えた。
久しぶりに感じる、魔法使いとしての勘だった。ひりひりと焼けついてくるような、何者かの悪意。強烈な憎悪が渦巻いている。クレアは周囲を見渡した。誰かが、クレアを狙っているのだろうか。呪い屋として、人の恨みだけは十分に買ってきた。正体を知られないように立ち回っていたつもりでも、同業者の目は誤魔化せないだろう。
・・・違う。
これはクレアを標的にしたものではない。もっと不確かで、漠然としたものだった。誰でも良い。とにかく傷付けること。これは人を狙ったものでありながら、その目的は誰か決まりきった個人にはない。敢えていうのならば、これは不特定な無辜の市民を犠牲にするためだけに用意された――無差別な悪意だった。
冗談じゃない。この国には、沢山の異なる思想が蠢いている。それらは時として、認められない他の者たちを全て、共通の敵とみなして攻撃を仕掛けてきた。何が自由の国だ。自由と自由がぶつかり合って、結局自分の自由以外は排斥するしかないんじゃないか。クレアの商売だって、現役の頃は毎日依頼がひっきりなしだった。
巻き込まれてはたまらないと、クレアは公園を離れようとした。その視界の隅に、先ほど突き飛ばされた子供の姿が映った。地面に転がったまま、泣きじゃくっている。まだ幼いのか、母親の名前を繰り返し呼んで叫んでいる。当の母親は、一体どこにいってしまったのか。
気が付いたら、クレアは駆けだしていた。
時間がない。クレアの勘はそう告げていた。もう間に合わないかもしれない。それでも、身体が勝手に動いていた。
「ほら、大丈夫?」
小さな女の子だった。ブルネットの髪に、綺麗なガラス玉のような青い瞳。見知らぬ女性に声をかけられて、戸惑っているのか。しゃがみ込んだところで、クレアはぶるっ、と身震いした。
すぐ後ろだ。
恐らく、さっき走っていった男が置いていったものだ。気配を探る。スポーツバックだ。中に、爆発物が仕掛けられている。火薬の量は大したことがない。その代わり、金属の缶が仕掛けられている。
その中には、大量の折れ曲がった釘が――
「伏せて!」
ばんっ、という、石油缶を叩いたような。どちらかといえば大人しめな爆発音だった。
クレアは、呪い屋だった。魔法使いの力で、数多くの人間を傷付け、時には死に至らしめた。
自分が綺麗な死に様を迎えられるなどとは、夢にも思っていなかった。どうせいつかは、あの下町の汚い下水道の中に沈んで死んでいく。誰も悲しまないし、誰も覚えてくれていることもない。そうなるのが当然だと、信じて疑わなかった。
だからこれは、報いだった。あんなに沢山の人間を不幸にしたクレアが、幸せになんてなれるはずがない。今更呪いをやめて、誰かを愛して。家庭を作って生きていくなんて、できやしない。
他人の人生なんて1セントの価値もないと思っていたクレアが――
どこの誰とも知らない子供を庇って死ぬなんて、あるわけがない。
緑の山々が見えた。遠い昔に、クレアが目の当たりにした光景だろうか。そこには神様がいて、クレアたちのことを見守ってくれている。そんなことを聞いた気がした。誰に? 良く思いだせない。
身体が動かない。それはそうだ。無数の釘が、クレアの身体に突き刺さって、肉を抉ったのだ。その代わり、あの子は大丈夫だったはずだ。クレアがしっかりと壁になって防いでいた。怖い想いはさせてしまっただろうが、命には代えられない。
お腹の中が熱い。そうか、この子はどうなったんだろう。人を呪う以外には何もなかったクレアに、希望を与えてくれた・・・あの人との、大切な子供。
胎動を感じる。生きている。そう、良かった。
はるか遠くの尾根に向かって、クレアは願った。クレアは罪人だ。どうせいつかは野垂れ死ぬ運命だ。身分不相応な幸せを掴もうとして、地に落ちた哀れな亡者だ。それで良い。
でも、この子は違う。この子の父親は、何も知らない普通の人間だ。今日の次には明日がきて、それがいつまでも続くと根拠なく信じていられるような、愚かでどうしようもない人間だ。
だから、この子を彼の下に届けてほしい。
クレアの命はここで終わる。それで良い。
二度とこの子と言葉を交わせることはない。それで良い。
その身体は罪の血で汚れ、恐ろしくも醜い姿へと転じる。それで良い。
人を殺めたその手は刃と化し、この子を抱き締めることもできない。それで良い。
どんな罪だって、背負ってみせる。
だから――
「大丈夫」
光が溢れた。
半透明の、八枚の翼が大きく広げられている。その中心で、長い黒髪がゆらゆらと揺れた。東洋人の、女の子だ。クレアを真っ直ぐに見つめている大きな吊り目からは、強い意志を感じた。
「一緒にいこう、輝きの未来へ」
クレアは手を伸ばした。その方向は、未来だ。未来がクレアの手を取って、力強く引っ張った。
ユイはうっすらと目を開けた。何が起きたのか、あまり良く覚えていない。確か、グラス一杯の日本酒を一気に飲んで。勢いに乗ってコトハのことを怒鳴りつけて。
その後は、どうなったのだろうか?
「あ、ユイ部長、目が覚めました?」
そう声をかけられて、ユイは慌てて飛び起きた。肌寒い。ここは外だ。左右を見回すと、ユイはどうやら公園のベンチに寝かされていたみたいだった。
「起きなかったらどうしようかと思いました。はい、お水です」
マヤが、にこにこしながらペットボトルを差しだしてきた。「ありがとう」と言ったところで、ユイは激しい頭痛に襲われた。なんだろう、これは。ひょっとして、二日酔いとかいうものだろうか。
水を飲みながら、ユイはようやく冷静さを取り戻していった。ここは打ち上げ会場の近くにある児童公園だ。周りにはユイとマヤ以外に人の気配がない。ひょっとすると、マヤが人払いをしてくれているのかもしれなかった。時計を見ると、まだ夜半前だった。恐らく飲み会が終わって、すぐにここに移動してきた感じか。
「ひょっとして私、飲みすぎた?」
「そうですねー」
やってしまった。ユイはがっくりとヘコんだ。飲んだくれの反面教師としてあんなに立派なトヨとコトハがいたというのに、まさか自分が酔い潰れてしまうとは。
「他のみんなは?」
「えーと、それがですね。時間いっぱいにまで粘っていたせいで、お店から追いだされてしまいまして・・・」
マヤの説明によると、少しも会を〆る気配もないままの尖央大学の集団は、最終的に居酒屋から全員叩きだされてしまったらしい。その際の混乱で、ユイを介抱していたマヤは他の部員たちとはぐれてしまったのだという。
「コトハ様からは連絡がありました。榊田さんと二人で二次会するので、お邪魔無用とのことです」
「あ、そ」
コトハの心配などは、最初からしていなかった。ヒロエとアユムに関しても、アユムが素面だったので問題はないだろう。一番ダメなのは自分だ。何だか情けなくなってきて、ユイは深く溜め息を吐いた。
「まだ時間はありますし、少し涼んでいきましょう」
マヤはユイの横に座ると、お茶のペットボトルの封を開けた。その後ろに、赤黒い骸骨が守護するようにして立った。ユイは骸骨の姿を見上げて、それからマヤの方に目線を向けた。
「マヤさん。フユとか、天羽先輩のことだけど・・・」
「はい?」
こんなことで、と思われるかもしれないが。ユイにとっては、十分すぎるくらいの不祥事だった。守らなければならない、沢山のものがあるというのに。
それは果たして、ユイ一人で背負いきれるほどのものなのだろうか。
「宮屋敷アマネさんって、信頼できる人かしら」
マヤはいつも、定時連絡で宮屋敷の分家に報告をしないでおいてくれていた。マヤにそんな無理をさせていることが、ユイには心苦しかった。
学園祭の時、マヤはフユと遭遇していたのだ。探していた『銀の鍵』を目の前にして、マヤは魔法研究会の部員としての立場を優先した。その後の定時連絡でも宮屋敷アマネという雇い主に対して、秘密を貫いてくれていた。
もし、宮屋敷アマネという人物が信頼に足る者であり、フユのことを安全に保護してくれるというのなら。
ユイのような中途半端な存在に守られているよりも――それはずっと確かなことになるのではなかろうか。
「いけません、ユイ部長」
きっぱりとした物言いに、ユイははっとした。赤みを帯びたマヤの瞳が、ユイの眼を見つめ返している。今までに感じたことがないくらいに、マヤは真剣だった。
「アマネ様は確かに信頼のおける方です。ですが同時に魔法使いであり、宮屋敷の分家の実力者でもある方です。アマネ様の立場であれば、『銀の鍵』に関することは秘密にはしておけないでしょう」
アマネは数多くの魔法使いたちを束ねて、宮屋敷という看板を背負ってその上に立っている人物だった。本家の長女でありながら自由気ままに生きているコトハとは違って、そこには『宮屋敷』としての責任が常に付きまとっている。アマネであれば間違いなく『銀の鍵』についての情報を開示し、公式に処分する判断を下すだろう。
「『銀の鍵』は魔法使いにとっては毒です。その存在は広く知らせるべきではありません」
「マヤさん・・・」
「アマネ様に報告できないことは確かにつらいですが、私だって馬鹿ではないのです。コトハ様のお考えも、ユイ部長の苦しみも、ちゃんと理解できているつもりです」
ユイの手に、マヤは掌を重ねた。細くて華奢であっても、想いの強さなら誰にも負けてはいない。骸骨すらも退かせたその高潔な精神を、マヤは高く評価していた。
「重すぎるというのであれば、一緒に背負います。私たちは、魔法研究会の仲間なんですから」
信じてほしい。マヤは尖央大学魔法研究会の、ユイの味方だ。宮屋敷アマネに仕える者ではあっても――橘ユイの描く未来もまた、マヤの目指す正しい世界の在り方だった。
「ありがとう」
マヤは柔らかく微笑んだ。人を信じて、その優しさを繋げていく。それこそがマヤの二つ名、『祝福されし大輪の花』通称『一族』の指し示す、進むべき道だった。
プップー。
公園の入り口に停まった車が、控え目にクラクションを鳴らした。軽自動車だ。そちらに目をやると、マヤはぴょこん、とベンチから立ち上がった。
「呼んでいた騎士の方がお迎えにきてくださったようです。それではユイ部長、遠慮なく送ってもらってください」
「え? 騎士?」
まさか。
ユイはさぁっと全身から血の気が引くのを感じた。こんな、お酒に酔って倒れているところに助けにきてもらうとか。恥ずかしすぎて、どう顔を合せれば良いのか判らなかった。しかも夜中に、車に乗せて送ってもらったりなんかして。
その後は、どうなってしまうのだろうか・・・?
やっぱり改めてお礼は言いたいし、部屋まで上がってもらった方が。それならお茶くらいはだした方が。時間的にも、そのまま泊ってもらった方が。あ、シャワーとかどうしたら。洗濯物、どうしてたっけ。それより掃除、お片付け。でかける時ってどうだったかな。散らかってなかったかな・・・
思考が目まぐるしく、ぐるぐるとフル回転している。酒の残った頭で無数のシミュレーションを展開して、ユイはパニック状態になった。そうこうしている間に、車から降りた人影がユイに向かって手を振ってきた。
「おーい、ユイ、大丈夫か?」
「・・・はぁ?」
思わず変な声がでた。どうにも今日は色々とうまくいかない。ユイはてっきり、天羽セイが迎えにきてくれたものだとばかり思っていたのだが。
「サキチさんに連絡してもらいました」
「トヨが笑い転げてたぞ。ユイでもお酒で失敗するんだな。俺も気を付けないと」
酔いなど完全にぶっ飛んでしまった。そういえば夏祭りの時、車がどうとか話していたような記憶がある。興味がないのですっかり忘却していた。後でサキチには、小一時間どころか時間無制限でお説教をしてやらないといけない。たっぷり、みっちりと、だ。
「ああ、そう。ソレハドウモ、アリガトネ」
期待を裏切られた分、その反動が言葉に込められてしまうのは仕方がなかった。ユイの幼馴染であり、神様であるトヨの配偶者――三島リクはきょとんとした顔で首を傾げた。




