さきほこるひかり(4)
ドアの向こうからは、楽しそうな話し声が漏れ聞こえてくる。やれやれ、と肩をすくめると、マヤはプレハブ棟の壁に寄り掛かった。ここからは、裏山のうっそうと茂った森しか見えない。大学の敷地内ということを忘れそうになる。木漏れ日がだいぶ奥まで射し込んでくるようになった。季節はすっかり、秋だ。
「あれー、マヤっち」
呼ばれた方に顔を向けると、ヒロエが大股に歩いてくるところだった。マヤは小さく手を振って応えると、唇に人差し指をあててみせた。
「富岡先輩、今はまだ榊田さんのご褒美タイム中です」
「なんだよ、まだいちゃいちゃしてんのか」
突発イベント、かき氷大食い大会の勝利者特典として、シンはコトハの介護を受ける資格を得ていた。というか、まともに立っていられないくらいグニャグニャだった。コトハに支えられて片手を挙げている最中にも、口からカラフルな液体が逆流しかかっていたくらいだ。ヒロエはこの記録動画を編集して、将来シンの結婚式で流してやろうと画策していた。
「吐いたところで水だし、問題なくね?」
アユムの冷徹なコメントに、流石のシンも逆上した。ただしへろへろのぐだぐだだったので、何を言っているのかも、何をしようとしているのかさえもさっぱり判らなかった。陸に引き上げられた深海魚が、口から内臓をはみださせながらドッタンバッタンしている姿を髣髴とさせる。それが誰の目にも気の毒に映ったので、こうして急遽しつらえられた勝利者特典が与えられることになったのだ。
「良い雰囲気ですよ。お似合いですよね、あの二人」
シンは普段から人当たりが良くて、マヤにも色々と気を使ってくれる、優しいお兄さんみたいな男性だった。それがコトハにだけはちょっと砕けた態度になって、いかにも心を許しているという感じがする。コトハの方もシンに対しては師匠として尊大なようでありつつ、その実べったりと甘えた物言いになることがある。
なんだかんだでお互いの存在を意識して、信じ合っているからこその関係だ。マヤにとって二人は、これ以上はないベストカップルだった。
「まあねえ。運命の人なんて言ってるし、そんなもんなんじゃねぇの?」
さもつまらなそうに、ヒロエは両掌を上に向けた。未来からわざわざ娘がやってきて、くっつけさせるくらいの関係だ。そこにはきっと他とは比べ物にならないくらいの、強い絆があるに違いない。
「富岡先輩と丸川先輩も、十分にお似合いだとは思うんですけど」
「ああん? あたしとアユムの場合は、ちょっと違うだろう」
アユムとヒロエは、尖央大学の付属中学の頃からの同級生だ。誰よりも身近で、誰よりも親しい関係ではある。今でもヒロエの実家の離れで、半同棲生活を送ってはいるが。
「なんつーか、男女関係っていうのとは違うからさ」
シンとコトハみたいな二人と比較されると困ってしまう。アユムとヒロエがあんな風にラブラブしているとか、考えただけで虫唾が走る。ヒロエにそんな態度を期待されても絶対に不可能だし、アユムの方もノーサンキューだろう。慣れないことはするもんじゃない。
アユムはアユムで、ヒロエはヒロエだ。二人はきちんと、お互いに望んでいる姿でいるにすぎない。それは恋人ではなくて、いつも自然に一緒にいる関係だ。『お似合い』という表現はまあ、百歩譲って受け入れるにしても。
男と女、ではない。二人はあくまで、アユムとヒロエ、なのだ。
「ま、せいぜい末永くつるんでいきましょうってところだ。アユムがうざがるくらいには傍にいるつもりだよ」
アユムがヒロエのことを、真剣に煩がることなんてしないだろう。ガサツで大雑把な性格に関してと、飲酒と喫煙について注意するばかりだ。アユムの方も、恐らくは人生単位でヒロエに干渉して生きていく意志を持っている。魔法研究会における本当のベストカップルは、他でもないアユムとヒロエなのかもしれなかった。
「はー、恋人っていうよりも、もう熟年の夫婦って感じですね」
「なんでそうなるんだよ」
そう言いながらも、ヒロエは嬉しそうに笑っていた。茶化されるのは腹立たしいが、認められるのは悪くない。実際問題、こんなヒロエをもらってくれるのはアユムくらいしかいないのだ。ここまできたら、嫌でも押し付けてやるつもりだった。
「おーい、何やってんだ? 文化会本部がカンカンだぞ?」
噂をすれば、アユムだった。今日の魔法研究会は、予定にない大規模なイベントを実施しただけではなく、相当な騒ぎにまで発展させてしまった。部長のユイが頭を下げるくらいでは、どうにも片が付かなかった。そもそもヒロエが部室にやってきたのも、事の発端にして元凶であるコトハを呼びだすためであった。
「マヤっち、あいつあんな顔して、あたしの初めてをケダモノみたいに滅茶苦茶にして奪っていったんだぜ? シンちゃんだって野生解放したらどうなっちゃうことやら」
「そ、そうなんですか?」
マヤは耳まで真っ赤に染めて言葉に詰まった。それとは逆に、アユムの顔はみるみると青くなっていった。
「ヒロエ、お前何言ってんだ!」
「えー、あたしの数少ない女性としてのアドバンテージを誇れる体験談なんですけどー」
「奇妙な誇張を加えるな! っていうかそもそもその話をペラペラと言いふらすな!」
「なんだよー、戦績としてそんなに誇れないかよー」
「他に誰ともしとらんわ・・・ってやかましい、そうじゃねーよ!」
いい感じに二人がヒートアップしてきたところで、ばぁん、と部室のドアが開け放たれた。
「うるさいなー! せっかくしっとりと良い雰囲気だったのに、榊田君がビーストチェンジしちゃったらどうしてくれるんだ!」
怒り心頭になったコトハが、外に飛びだしてきた。その後ろから、シンが顔だけを覗かせてくる。だいぶ体調は戻ったみたいだが、完全とまではいかない様子だ。部室前で繰り広げられている悪夢めいたやり取りを目の当たりにして、もう一度くらいはぶっ倒れてしまわないだろうか。そうは思いながらも、マヤには呆然と会話の成りゆきを見守ることしかできなかった。
「元を正せば魔女先輩がシンちゃんのオカズを取り上げようとしたからだし、しょうがなくない?」
「うぐっ、それはまあ・・・そうなんだけどさ。でも、その場の空気に流されてってのは、よくないだろうよ」
「だってさー、アユムー?」
「なぜ僕に振る! 黒歴史だ! 記憶にない!」
「ほらー、やっぱり勢いに任せっててのはダメだって。私はちゃんと思い出にするよ? アニバーサリーだよ?」
「なんだよ、毎年ハマグリでも食べんのかよ。やらしーな」
呼びだしの件は、完全にどこかに消え去ってしまった。部室にいったまま誰も帰ってこないので、今頃はユイの不機嫌ゲージが振り切れる寸前にまで上昇しているだろう。
魔法研究会にいると、いつもこうだ。賑やかで、楽しくて。マヤはつい素に戻って、笑ってしまう。
マヤのすぐ隣には、いつもと変わらずに骸骨が佇んでいた。遠く、海を越えてこの国にまでやってきて。最初は不安と緊張ばかりだったのに。
今では、とても幸せだ。マヤをここに導いてくれた数多くの事柄に、マヤは改めて感謝した。
マヤが魔法使いの力を手にしたのは、ただの偶然だった。
骸骨はそれ以前、マヤが生まれた時からずっとマヤを守護し続けていた。父親と二人暮らしをしていたマヤは、裕福ではないが穏やかで幸福な毎日をすごしていた。
見える人間にとって、骸骨は強烈なインパクトを与えてくる外観を持っていた。マヤがハイスクールに入る年まで、魔法使いたちは恐れをなして、誰一人としてマヤには近付こうとしなかった。マヤは骸骨に守られながらも、その存在にはまるで気が付くことはないままだった。
そんなマヤを魔法使いとして覚醒させたのは、宮屋敷家に仕えている者だった。とんでもないモノを連れ歩いている女性がいる。マヤの知らないところ――魔法使いの世界では、そんな噂が立てられていたらしい。興味本位で近寄ってくるような相手は、マヤに悟られる前に骸骨が退けていた。宮屋敷家の魔法使いは骸骨に敵意がないことを示しつつ、おっかなびっくりでマヤに通過儀礼を施した。
それ以来、宮屋敷家はマヤに非常に良くしてくれた。魔法使いとしてだけでなく、マヤの父親の仕事や、マヤのハイスクールの学費に関しても援助を申しでてくれた。魔法使いの力を持たない父親に説明するのは少々厄介だったが、不思議と理解してもらえていた。マヤにとって宮屋敷家は、家族全体の恩人になった。
骸骨が何者であるのかを調べてくれたのも、宮屋敷家だった。骸骨はマヤの出産の際に死んでしまった母親――クレア・ララミィの魂が転じた姿であろう、ということだった。
そう説明されると、色々なことが納得できた。どんなに恐ろしい姿をしていても、マヤには骸骨が少しも怖いとは思えないこと。四十六時中マヤに付き従い、その身をあらゆる害悪から守ってくれていること。マヤの指示には絶対に逆らわないこと。
マヤがこの世に誕生したその時から、マヤは母親の手によって守られ続けてきた。その事実を知って、マヤは骸骨のことがより一層愛しくなった。自分を守護するものとして認められるようになった。そしてそれを教えてくれた宮屋敷家にも、深い感謝の念を抱いた。
大恩ある宮屋敷家に、マヤはなんとかして報いたかった。マヤの申し入れに対して宮屋敷家は「強い力を持つ魔法使いを傘下に置きたいだけなので、何一つ気にすることはない」と回答してきた。いるだけで良い、ということなのだろうが――それはそれで困った話だった。いかに宮屋敷家が大金持ちの資産家であり、大した金額を捻出しているわけではないとしても。宮屋敷家には、マヤの生活の全てを支えてもらっている。マヤとしては、何とかして目に見える形で恩返しをしておきたかった。
父親の祖国でもあり、宮屋敷家がある日本という国に、マヤは強い関心を抱いた。ハイスクールでは、日本の古典文学の世界に魅せられた。日本の歴史を知れば、父や母のこと、宮屋敷家についてもより詳しく知ることができるかもしれない。マヤは日本の大学への進学を希望した。それならば、ということで、宮屋敷家は尖央大学を推薦してくれた。
日本の大学は四月からだ。ハイスクールをでて、それまでの期間はどうやって過ごそうかと考えていたところに、急遽九月編入の話が飛び込んできた。魔法使いの世界で、トラブルが発生している。可能な限り早く日本に渡り、協力してほしい。マヤはその要請を受け入れた。宮屋敷家の役に立つ、またとないチャンスだった。
こうしてマヤは、日本の土を踏んだ。初めて訪れる異国の地だったが、マヤの血の半分は日本人だ。不思議と、空気が身体に馴染む気がした。宮屋敷家の用意したリムジンに乗って、マヤは空港から宮屋敷の分家に招待された。
宮屋敷アマネの名前は、日本行きが決まった頃から耳にしていた。いくつかある宮屋敷の分家の中でも、強い発言力を持っている人物であるのだそうだ。今回のマヤの尖央大学への編入に関して、人一倍働きかけてくれた功労者でもある。かなりの無茶を通して、本家のコトハにも疎まれているらしい。
そこまでしてもらったからには、期待は裏切れない。緊張感を持って、マヤはアマネとの謁見に望んだ。
ひんやりとした、白い壁の部屋に通された。殺風景で、飾り気のようなものはまるでない。病室にいるみたいだと、マヤはぼんやりと考えた。
「マヤ・ララミィさん? ごめんなさいね、わざわざこんなところにまできていただいて」
小さな声だった。力が、息の量がまるで足りていない。それに続いて、ぐぃーんという機械音が近付いてきた。背の低いマヤよりも、更に小柄な何かが部屋の奥から迫ってくる。滑るように、真っ直ぐに。
車椅子だ。それが判るのと同時に、マヤはその場に膝をついた。電動の車輪が、マヤのすぐ目の前でぴたりと止まる。痛々しい、黒と白のまだらになった髪の毛が、ざらり、と揺れ動いた。その向こうに見えた真紅の瞳に、マヤは心を奪われた。
「初めまして。宮屋敷アマネです」
宮屋敷アマネは、宮屋敷の家系の中でも強い魔力を持った魔法使いだった。本家に劣らないどころか、魔力だけならば宮屋敷家の歴代で最も優れていると言えた。
・・・ただし、その魔力の性質が問題だった。
「こんな姿で、幻滅されたでしょう?」
「いいえ、そんなことは――」
マヤはそこで言葉を飲み込んだ。アマネの中では、常に強い魔力が行き場を失くして暴れ回っていた。結果として、アマネの身体はそれを支えきれずに、ぼろぼろの状態だった。肌は異様なまでに白く、眼は爛々と赤く輝き、髪は半分以上が白髪と化している。手足はほとんど思うようには動かせず、車椅子と介護の人間がいなければ、一人では何もできない状態だった。
「忌々しい力です」
アマネの通過儀礼を担当した魔法使いは、儀式の最中にその魔力に中てられて命を落としてしまった。故に、アマネの正確な二つ名を知る者は誰一人として存在しない。アマネはただ、『白の摂理』――『死の理』とだけ呼ばれていた。
「そちらがシワテテオかしら?」
マヤの背後に立つ赤黒い骸骨の方を、アマネはじぃっと見つめた。病的にまでに細い身体でありながら、それでもアマネは美しかった。他の全てには氷の彫像のように一切の温度が感じられなかったが、挑戦的な大きな吊り目にだけは力が満ちている。その不思議な双眸からは、まるで魔力が奔流となって溢れだしてきそうなほどに感じられた。
しばらく、アマネは骸骨を凝視していた。暗い眼窩の向こうに、何かが見えたのだろうか。アマネはやがて、くすり、と笑みをこぼした。
「マヤ、あなた、とても愛されているのね。気に入りましたわ」
それからアマネは、マヤに仕事についての説明をした。『銀の鍵』と天羽セイの追跡。その手がかりを知るであろう、尖央大学魔法研究会の調査。最終的にそれらは、コトハによって報告できないことになってしまったが。
「ではマヤ、この国を、大学生活を楽しんでください。あなたにとって生きるということが、希望に満ちたものでありますように」
アマネのその言葉が、マヤの胸にはずっと突き刺さっていた。目に見える『死』という力を持つ魔法使い――宮屋敷アマネ。マヤにとってアマネは、コトハにも覆すことのできない強い絆を持つ相手となった。




