すべてはここから(1)
広い洋間には、毛足の長いピンク色の絨毯が敷かれている。壁紙の色も、カーテンも、うっすらとした桃色だ。明るくて、柔らかい。全てが優しさに包まれた暖かい部屋の中で。
宮屋敷コトハは、泣いていた。
周りには、絵本や玩具が散乱している。本は乱暴に真っ二つに引き裂かれ。木の玩具はぼきり、と真ん中から二つに折られて。人形は手足がもげてバラバラの状態だ。
これをやったのは、その破壊の中心で火がついたように泣きじゃくっている、コトハ自身だった。
コトハが魔法使いとしての力に目覚めたのは、六歳の時だった。幼いうちは力の使い方に戸惑うことが多いため、無理に『栓』を外すことはしないのが通例となっていた。コトハの場合も、時が満ちるのを待っている状態であったのだが。
驚くべきことに、コトハは自らの『栓』を自分で引き抜いてしまった。
噴き出した力は、想像を絶するものだった。
元々宮屋敷の家は魔法使いの家系であり、父親も母親も例にもれず魔法使いであった。その娘であるコトハも、強い力を持って生まれてくると見込まれてはいた。
しかしそれを考慮しても、コトハの力は異常なほどであった。
コトハの父親が、コトハの二つ名を読み取った。二つ名は『現存する原初よりの原理』、通称は『現理』。それを聞いて、魔法使いたちは恐れおののいた。二つ名に『原理』を含む魔法使いの誕生は、類い稀なものだった。
ただ。
やはり、コトハはまだ、子供であった。
大きすぎる力を、コトハはいつももてあましていた。力の使い方の手ほどきは、主に父親がおこなっていた。しかし、加減がうまくいかないことが多く、まだ幼いコトハは次第にふさぎ込みがちになっていった。
「コトハ、どうしたの?」
そんなコトハを、母親はいつも慰めてくれた。
「ママ、わたし、どうしてもうまくできないの」
コトハは母親にしがみつくと、わんわんと声を上げて涙を流した。
「コトハはまだ小さいんだから、何でもうまく出来るわけじゃないわ。少しずつ覚えていきましょう」
優しく諭しながら、背中を撫でてくれる。コトハは母親のことが大好きだった。
「ううん、わたし、はやくおぼえないといけないの。もっとじょうずにならないと」
「もう、誰ですか、コトハにそんな無理なことを言うのは。パパですか?」
コトハは首を横に振った。
父親は、コトハに力の使い方を教えてくれる。ちっとも厳しくない。コトハにとっては、正直「ぬるい」と感じられるくらいだ。
コトハは、もっと上手に力を扱えるようにならなくてはいけない。それも、可能な限り早く。
「どうしたの、コトハ? そんなに急がなくても大丈夫よ」
「ママ、わたしははやくじょうずにならないといけないの」
母親の目を、コトハは真っ直ぐに見つめた。そこには強い意志がある。六歳の子供が持つには、あまりにも重く、あまりにも大きな覚悟。
「じょうずにつかえなければ、わたしはこのちからでだれかをきずつけてしまう」
コトハは、幼い子供でありながら。
もう一人前の魔法使いであった。
コトハの言葉を聞いて、母親はぎゅう、とコトハを抱き締めた。この小さな身体には、沢山の魔力と、強固な意志が詰まっている。だから。
「大丈夫よ、コトハ」
正しく導いていかなければならない。
「あなたは、ちゃんと『現理』を理解しているのだから」
コトハが、魔法使いの『現理』を見失うことがないように。
現代を生きる魔法使いたちが、己のあるべき姿を見つけられるように。
これは、宮屋敷の家に課せられた、大きな使命だった。
鉄板焼きの『千秋』は、尖央大学から二駅ほど離れた小さな乗換駅の前にある、客が自分で焼くタイプのお好み焼き屋だ。魔法研究会が創設された当初からあるというのだから、二十年以上の歴史があるということだろう。
そして過去から現在に至るまで連綿と受け継がれてきた、魔法研究会の由緒あるコンパ会場だった。
魔法研究会は初等教育研究会と合同で、児童館で公演イベントをおこなった。初等教育研究会は、部活の正式名称こそお固くて厳つい感じがするが、実態は子供向けの人形劇サークルだ。人形劇団『ぷーすけ』と言った方が通りが良い。実際、シンの周りではみんな『ぷーすけ』と呼称していた。
魔法研究会は、大学のクラブ活動としては主にマジックショーの公演をおこなうボランティア系サークルだ。構成員が魔法使いという変わり種であったとしても、やることには変わりはない。
「もっと、魔法を使った物凄いマジックをやるのかと思ってました」
国文一年、新入部員の榊田シンの言葉に、その場にいる全員が「わかってないな」と声を合わせた。
「派手なことをして驚かしたいと思うなら、普通にお金をかけて高い仕掛けを買った方が早いって。変な苦労して、うまくいくかどうかも判らん魔術使って、しかも後輩に引き継ぐことができないかもしれないとか、無意味にもほどがあるだろう」
そう言ってジョッキに入った生ビールを一気にあおったのは、経済三年の富岡ヒロエだ。もじゃもじゃの天然パーマに、銀縁の眼鏡。がっしりとしていて、女性らしさからは少々かけ離れている。普段から裏方中心なので、今日も黒子役のために全身黒ずくめの服装だった。コトハからは「探偵アニメの犯人みたいだな」と評されて、理不尽だと憤慨していた。
「それに、子供相手にやることだ。種を知りたいとか、自分でもやってみたいという子供たちから夢を奪ってどうする。教えてほしいと言われたら、一緒に練習してできるようにしてあげる。そこまでが魔法研究会のマジックショーだ」
シンの横に座っている、小柄で色白な男は、教育三年の丸川アユムだ。手足が細く、目もぱっちりとしていて、遠目では髪が短い女の子に見えないこともない。イマドキの表現では、『男の娘』か。本人はそれを個性だと言っているが、変にからかうとマジ切れするから気を付けろ、とシンが入部した際にヒロエが警告を発していた。
「榊田君の言いたいことも判るよ。私もできることなら攻撃魔法の二、三発でもぶちかましてみたいとは思うんだけどさ、残念ながらファイヤーボールもグランダッシャーもインディグネイションも使えないときたもんだ」
「なんでゲームなんですか」
アユムにツッコまれて、心理四年、魔法研究会部長の宮屋敷コトハは「あっはっは」と笑い声をあげた。この場を冷静に制してくれるはずの教育二年、橘ユイは、残念ながら本日は欠席だ。
魔法研究会の四人は、児童館公演の打ち上げで『千秋』の鉄板付きテーブルを囲んでいる真っ最中だった。
児童館でのマジックショー自体は、大成功に終わった。黒いマントに、つば広の三角帽子をかぶったコトハが前に出て、帽子の中からひょいひょいと色々なものを出していく。それらは全て、事前に児童館の中で見つけておいた『失くし物』だった。
「最近ヘアピンを失くしませんでしたか?」
「大事にしていた人形が、どこかにいってしまったりしませんでしたか?」
「あのマンガの四巻、なくなってたりしてませんか?」
トランプやハトが出てくるどころの騒ぎではない。観客の子供たちはみんな驚いて大歓声をあげた。
種明かしとしては、あらかじめ落とし物を探して見つけおいて出しただけ、ということにしてあった。手品部分は本当にただの手品だ。帽子とかコトハの衣装、マントにはたっぷりと仕掛けが施してある。
しかし、出てきた物は全部本物の魔法で発見したものだ。この『仕込み』の方が大変で、シンは児童館の中を歩き回り、見つかった物品の素性を片っ端から魔法で調べてくたくたになった。
「こんなこと、毎回やってるんですか?」
「うんにゃ、今回は榊田に便利そうな能力があるっポイから、僕が考えて活用させてもらった」
アユムが得意げに胸を張った。なるほど、この先輩のせいで今日は一日こき使われる羽目になったのか。シンは内心ちょっとムカッとした。
「榊田君のお陰で大盛況だった。同じ場所で何回もやるのは難しいし、そうそう便利な『失くし物』があるとも限らないが、ショーのレパートリーとしてはなかなか良い」
コトハも今日の成果には満足であったらしい。終始ご機嫌で、今も店で一番高い海鮮ミックス玉を奢りで焼いてくれている。じゅうじゅうという音と共に、鉄板の上からは美味そうな匂いが立ち昇っていた。
「シンちゃんだって良い目見ただろ?」
ヒロエにウィンクされて、シンは言葉を詰まらせた。
シンには、物に残された記憶や想いを辿る『感応』の力がある。しかしその制御はまだ今一つで、これだけの数をこなしたのは初めてということもあり、すっかり力がガス欠になって倒れてしまった。
そうなった場合、シンの力を補填してくれるのはコトハだ。魔力を補うには、なるべく直接、広い面積での体の接触が望ましいらしい。シンが意識を取り戻すと、コトハはいつものようにシンを膝枕していた。
「榊田君もいい加減慣れてくれればいいのに」
コトハはしれっとそう言うが、シンにはなかなか難しい話だった。そもそもコトハ以外の女性にそんなことをされたことなど一度もない。もっと言えば、女の子と関係を持ったことすらない。そんなシンにとって、スタイル抜群でシャープな美人という外観のコトハにぺたぺたと触られるのは、あまりにも刺激が強すぎた。
艶やかな長い黒髪に、透き通るような白い肌。黙っていればきりっとした才媛に見える挑戦的な釣り目。そこに縁なしの眼鏡が理知的な印象を更に上乗せしている。手足はほっそりとしていて、スリーサイズはどん、きゅっ、ばん、という感じだ。そんなコトハの太ももに頭を乗せて冷静でいろだとか、健全な男子にはどだい無理な注文だ。
「そんな簡単に言わないでください」
ウーロン茶を一口飲んで。それから、シンはふと思い至った。
「丸川先輩とか、どうだったんです? 俺みたいなことって、なかったんですか?」
シンの質問に、アユムの表情が強張った。対照的に、コトハとヒロエは満面の悪人ヅラとなった。
「丸川君は大変だった。っていうか全然ダメだった。膝枕して、起きたと思ったらフラフラのまま逃げ出そうとして、後ろから羽交い絞めにしたら悲鳴をあげて気絶したんだから」
「『背中に当たった』って・・・普通喜ぶところなのにな。なんでそうなるんだか」
ヒロエは笑いをこらえながらビールをまたあおった。これでジョッキ四杯目だ。それも空になりつつある。すっかりいつもの飲酒ペース、悪酔い確定コースだった。
「私はその後文化会本部に呼び出されて散々注意されたよ。お前ん所は男連れ込んで何やってるんだ、って」
我慢ができなくなったのか、ヒロエはぶひゃひゃひゃと笑い出した。コトハも呆れ顔で失笑すると、ひょい、と海鮮ミックス玉をひっくり返した。「よっと」「お見事」大きなお好み焼きには、美味そうな焼き色がついていた。
「それ以来、丸川君には余裕を持って能力開発してもらっている。幸いにも、日常で暴発することはあまりない力だ。ヒロエも協力してくれてるし、非常に助かっているよ」
「こいつとは腐れ縁ですからねー」
アユムとヒロエは、中学時代からの友人だということだった。二人は尖央大学の付属中学に入学して、それからずっとエスカレーター式で大学まで進学してきた。付属からきている学生はかなりの数がいるが、この二人は中でも特別親しい様子だった。
「ええっと、これ訊いて良いんですかね?」
不機嫌そうにそっぽを向いているアユムと、五杯目のビールを注文しているヒロエの二人を、シンは見比べた。
「丸川先輩と富岡先輩は、その、付き合っているんですか?」
じゅうー。
コトハがお好み焼きを鉄板に押し付けた。むわ、と湯気が上がる。
その向こうで、コトハがくっくっと押し殺した笑い声を漏らすのを、シンは聞き逃さなかった。
「え、あれ? 訊かない方が良かったですか?」
「榊田君、グッジョブ」
コトハは親指を立ててみせた。おろおろとするシンを尻目に、アユムは「けっ」と大きな悪態をついた。
「んー、なんだアユム、そういう態度は良くないだろー?」
ヒロエは目を細めて、アユムの方に身を乗り出した。眼鏡が湯気で曇っている。ヒロエの方を一瞥すると、アユムは今度はふん、と鼻を鳴らした。
「付き合ってなんかないよ。なんでこんなニコ中のアル中と」
ヒロエは喫煙者だ。酒屋の娘ということもあって、酒もガッツリと飲む。対してアユムは煙草は吸わないし、酒も一滴も飲まない。今もシンと同じようにウーロン茶を頼んでいた。
アユムの返事を聞いて、ヒロエはふう、と溜め息を吐いた。
「ヒドイよね。初めてまで奪っておいてこの言い草なんだから」
シンは飲みかけていたウーロン茶を思わず噴き出しそうになった。アユムの顔が真っ青になり。
コトハが身体を二つに折って爆笑した。
「お、お前、こんなところでなんちゅーことを言い出すんだ!」
「なんだよー、本当のことじゃんかよー。あたしに男にしてもらったくせに随分なこと言ってくれんじゃんかよー」
「ししし、知るか! 僕の人生最大の汚点だ! 黒歴史だ! 忘れろ! 僕も忘れる!」
ぎゃあぎゃあと言い争いを始めた二人を放置して、コトハはお好み焼きを仕上げにかかった。ソースとマヨネーズをかけて、青のりをたっぷりと降りかける。
「榊田君、ホタテ好きか? 貝柱のところあげるよ」
「いや、好きですけど、これはどうしたら・・・」
ヒロエとアユムは、顔を真っ赤にして怒鳴り合っている。どうしたものかと戸惑っているシンに向かって、コトハは切り分けたお好み焼きを乗せたヘラを差し出した。「あ、どうも」取り皿の上に置いてもらう。
「この二人は仲良しでね。他の店だったら出禁にされているところだ。三年生二人の夫婦喧嘩をつまみに一杯やるのが、魔法研究会の風情ってものだよ」
「夫婦じゃない!」
「夫婦じゃない!」
息の合った突っ込みを受けて、コトハは大喜びでチューハイを飲み干した。
「榊田君、私たちも頑張ってあのくらいの域に達しないといかんな」
それはどうなんだろう。とりあえず、コトハの焼いたお好み焼きは美味しかった。ヒロエとアユムも、「ふざけんな」「バーカ」と罵り合いながら、むしゃむしゃと食べている。
結局この二人の関係がどういうものなのか、シンにはさっぱり判らなかった。