めがさめてひとり(7)
空が赤い。まるで燃え盛る炎のような色だ。世界を赤に染め上げるその光景は、残酷なまでに美しい。そうだ、いつだって世界はあるがままなのだ。それを見る人の心を試してくる。
コトハは膝をついて、その身体に覆いかぶさった。細くて、華奢で。ろくに食べてもいない感じで。運動不足で。痩せぎすで。
初めて会った時から、どうしようもないと思っていた。こうなることは判っていた。そんな、自分にとって都合が良いばかりの未来なんて、存在しない。アカシックレコードの見せた幻影だ。それでも――
今では、後悔していた。
温もりが残っている。血糊で、ぬるぬるとした感触。この服の下には、恐らく無数の傷跡が残されている。それだけ多くのものを切り裂いてきたのだ。それら全てが当然の報い、受けるべき痛みなのだとしても。
こんなのは、あまりにもむごすぎるではないか。
これが。こんなことが。
約束された未来だというのか。
「コトハさん、そこをどいて下さい」
「嫌だ!」
もう十分だ。みんな十分に苦しんだ。悲しんだ。
これ以上、一体何をするつもりなんだ。
「もういいじゃないか。全部終わったんだろう? これで――」
「いいえ、まだ終わっていません」
コトハは顔を上げると、彼女の姿を凝視した。赤に包まれた世界の中、彼女の左掌だけが眩しい銀色に輝いている。ぞっとするほどに冷やかな目線が、おびただしい量の血で汚れたコトハを見つめ返した。
「だって、榊田君は、シンはもう・・・」
「はい、榊田シンは死にました」
我慢していた涙が、堰を切ったようにこぼれだした。今、コトハの手の中にあるこの肉体は、もう息をしていない。心臓の鼓動が聞こえてこない。コトハが愛することになると、未来がそう告げた人間、榊田シンは――
ここで、命を落としたのだ。
どうしてこんなことになってしまったのか。コトハは、シンと共に死ぬつもりだった。見せられた可能性、その先に待つ未来。榊田シンという人間の二つ名を読み取った時から、コトハの覚悟は決まっていた。
この時、この瞬間こそが、魔法使い宮屋敷コトハの最後――自身の死に場所である、と。
それなのに。
「嫌だ。私は榊田君が好きだったんだ。愛していたんだ。ずっと、ずっとその気持ちだけは外にださないようにしていたけど、それでも私は、榊田君のことが好きだったんだ」
宮屋敷家の人間として、コトハにできることは限られている。その与えられた範囲の中でのみ、コトハは生きてきた。
尖央大学魔法研究会部長。善なる魔法使いを束ねる者、宮屋敷家次期当主。
コトハの持つ肩書は、魔法使いたちの希望でなければならなかった。そこには好きとか嫌いとかいう、余計な私情を差し挟む余地はまるでない。コトハという人間は、宮屋敷コトハ以外の何者でもないのだ。
「手に入らない夢なら、ここで終われれば良いって、そう思ってた。黙って、押し殺して。それで、お互いに何も知らないまま、その気持ちを抱いたまま、死んでいければ良いって・・・」
コトハが誰かを心の底から愛して。幸せに包まれて結ばれて。温かい家庭を築くなどと――
そんな馬鹿げた、子供の妄想みたいな未来はあり得ない。コトハが榊田シンに与えられるものは、悲しみの未来だけだった。
「どうせ私がどんなに榊田君のことを好きでいても、運命なんて変わらない」
それならば。
「せめて最後ぐらいは、同じ時、同じ場所で死にたかった・・・」
いっそ命の炎の尽きるこの時だけは、全てを忘れて。
「榊田君と一緒に、死んでしまいたかった!」
ただひたすらに、榊田シンのことを愛させてほしかった。
「いい加減にしなさい、宮屋敷コトハ。私にはまだやることがあるの。こんなところで泣きじゃくるだけの貴女なら、はっきり言って足手まといです。いいからそこをどいていて下さい」
「嫌だ! 私はもうこれ以上、榊田君を苦しめさせない。榊田君は私のものだ。私はここで、榊田君と死ぬんだ!」
「ふざけたことを言わないで!」
銀色の光が、コトハの身体を刺し貫いた。終わりだ。これで良かった。大好きなシンに折り重なるようにして、コトハは死んでいける。
未来とは、こんなに悲しいものなのだろうか。
コトハとシンの行く末に待っているのは、こんな救いのない結末だけなのだろうか。
――違う、こんな未来は嘘だ。出鱈目だ。
なぜなら。
コトハは、この未来を『選ばなかった』のだから。
「あ、やっと起きた」
ソファの上で飛び起きたコトハを見て、ヒロエが呆れたような声をだした。狭い部室の中は満員御礼だった。丸椅子にはユイとミユ、マヤが腰かけている。シンとアユム、ヒロエは壁に寄り掛かって立っていた。
「あれ? 私、寝てた?」
「これまた盛大に寝ぼけてますね。もう夕方ですよ?」
アユムに言われて窓の外に目を向けると、外はもうだいぶ薄暗くなっていた。ミユを寝かしつけるだけのつもりが、完全に熟睡してしまっていたようだ。ミユはユイとマヤを相手に、テーブルでトランプをしている最中だった。
「この子、才能があるね。こりゃシンちゃんなんかよりもすぐに上達するよ」
「どうせ俺は要領が悪いですよ」
拗ねたように口を尖らせたシンの姿を見て、コトハは胸を撫で下ろした。そうだ。あんな未来は、あってはならない。コトハはあの未来を、選ばなかったのだ。
コトハの顔を、シキが不安げに見上げていた。判っている。絶対に、あの未来だけは回避してみせる。シキのためにも、シンのためにも。
そして、コトハ自身の幸せのためにも。
「宮屋敷先輩、晩ご飯なんですけど」
先ほどメールで連絡があって、シンの母は残業のため早く帰ることができなくなってしまったらしい。こういう時、普段ならミユのことは同じマンションの知り合いに頼んでいた。
しかし、今日はせっかくシンと一緒にいる。もし迷惑でないのなら、ミユの夕食を何とかしてほしい、とのことだった。
「てなわけで、魔女先輩が起きるのを待って『千秋』に繰り出そうという話になってたんですよ」
『千秋』は魔法研究会いきつけの鉄板焼き屋だ。各テーブルに鉄板が設置されており、お好み焼きやらもんじゃ焼きやらをセルフで焼くシステムになっている。安い値段でお腹いっぱいに食べられる、学生に人気のリーズナブルなお店だった。
「ミユが、宮屋敷先輩のヘラ捌きを見たいって言うんで」
料理上手なコトハは、お好み焼きに関しても例外ではない。三枚分ぐらいの材料を混ぜ合わせたジャンボお好み焼きでも、くるりと器用に引っ繰り返せる。その上、中までしっかりとふわふわに焼き上げているのだ。コトハの腕前は、『千秋』の店長のお墨付きだった。
「ああ、いいよ。ブリジットには外食してくるってメールしておく」
この時間だと、すでに下ごしらえくらいは始めてしまっているかもしれない。しかし、ミユが期待しているというのだから、それには逆らうことはできないだろう。なんなら、ブリジットの作った分は夜食にしてしまっても構わない。
それに、ここのところはマヤが毎日夕食を共にしていて、骸骨が苦手なブリジットは気の休まる暇もなかったはずだ。むしろ一人で食事をする時間を与えた方が、のんびりとすごせて良いのではなかろうか。
メールしてみると、さらりと了承の返事が届いた。ブリジットは最近絵文字を入れることを覚えてしまっていて、すっかりお気に入りの様子だった。お陰様で、主題の文章よりも絵文字の方が多い。どこに内容があるのかが、一見して判らない。メッセージアプリを教えたら、今度はスタンプ攻勢になるだろう。こちらの子供にも、ちゃんとした教育が必要そうだった。
「ウェーイ」と歓声を上げて、一同はぞろぞろと部室を後にした。ミユはヒロエに肩車されてご機嫌だ。体力と筋力のないシンではこうはいかない。最後に表にでたシンがカギをかけているところに、コトハがそっと近寄った。
「榊田君、さっきミユちゃんに、二人が付き合っているということは話してしまったから」
「あー・・・まあでも、彼女だなんだって結構言っちゃってましたよね」
そうだったかもしれない。どちらにせよ、もはや隠すような話でもないだろう。
「残念ながら、お兄ちゃんを取らないでー、とか泣かれることはなかったよ」
「ははは、いくらなんでも、それはないでしょう」
「似たようなことを言われはしたよ?」
「マジですか」
「マジマジ、大マジ」
コトハはシンの腕を抱いた。宮屋敷家であることを否定してでも、共にあることを選んだ未来。それは幻でも何でもなく、しっかりと今、コトハの手の中にある。絶対に離さない。離してたまるものか。
「宮屋敷先輩?」
「愛してるよ、榊田君。私は君のことが、大好きだ」
この未来は、諦めない。そう決めた。コトハは自分の人生を、最も愛する人であるシンに賭けたのだ。
『千秋』での夕食は、実に賑やかなものだった。まずはユイから「お酒と煙草禁止!」と厳命されて、コトハとヒロエから大ブーイングが起きた。ミユがいる前で、あれやこれやをさらす訳にはいかないだろう。今日に限っては健全に、ウーロン茶とジュースで乾杯となった。
大人数用の広いテーブルで、コトハが自慢の腕を披露してみせた。ミユがやってみたいというので、シンとコトハが補助して子供サイズのホットケーキみたいなお好み焼きを作り上げた。その横ではヒロエとアユムが喧嘩するみたいにして焼きそばを混ぜて、マヤがイカの足をガムみたいにずっとくちゃくちゃと噛んでいた。
めいめいが好き勝手なことをしている間、ユイはあくせくとお皿を整理したり、焼けた分を取り分けたりしていた。コトハがわざとヒロエの焼きそばにチーズを降りかけて。それに気付いたヒロエが怒ってカキ玉のカキを全部奪い取って。「いい加減にしなさい!」とユイのカミナリが炸裂して。マヤは延々とくちゃくちゃしていて。
・・・気が付いたら、二時間くらいがあっという間にすぎていた。
店をでると、とっぷりと陽が落ちていた。そんなに長居していたつもりはないのだが、随分と盛り上がりすぎたとは思う。マヤがまだイカを噛んでいる。余程気に入ったのだろうか。
「マヤさん、ちゃんと食べました?」
「はい、食べてます。イカもタコも美味しいです」
マヤはヒロエの焼きそばから、イカだけをほじくり返したりもしていた。本人が満足しているのなら、それで良いのだろう。
「今日はどうするんだい、榊田君? ミユちゃんは実家まで送っていくのかい?」
「いえ。駅まで迎えにきてくれるみたいです」
夕食中に母からメールが届いていた。あと少しも経てば、最寄駅に到着する見込みだ。ミユの本日の大冒険は、そこで一応のオシマイとなる。
「なんだ、そのまま一度実家に帰っても良いんじゃないか?」
「そうしたかったんですけど、明日は朝から講義があるんで」
シンはミユの頭を撫でた。ほかほかと温かい。昼寝して少しは体力が戻ったようだが、夕食がまた大騒ぎだったのだ。帰ってぐっすりと眠ってもらわないと、熱でもだしてしまったら大変なことだ。
「お兄ちゃん、帰ってこないの?」
しょんぼり、とミユは下を向いた。今日は盛りだくさんで、いっぱい楽しかった。一人で電車に乗って大学までやってきた。探していたお兄ちゃん、シンにも会えた。綺麗なお姉さんがいっぱいいて、ケーキを御馳走になった。魔女のお姉ちゃんはシンの恋人で、一緒にお昼寝してくれた。他にも沢山遊んでもらって、マジックを見せてもらって、お好み焼きを焼いてご満悦だ。
お母さんには、後で怒られてしまうかもしれないけど。家で留守番していたら味わえない、素敵な一日だった。
この毎日が、ずっと続いてくれれば何も言うことはない。でも、それを望むのはワガママというものだろう。
「ごめんな、ミユ。今日は難しいんだ。その代わり――」
少しずつで良い。ゆっくりで良い。
今のシンには、自分の場所がある。コトハがいてくれる。無理に傷付けることも、傷付くこともない。
離れて、距離を置いて。
だからこそ判ったこともある。ミユが教えてくれた。シンは、からっぽでも半分でもなかった。
榊田シンには、妹の榊田ミユがいる。半分でも、確実に血の繋がった兄妹。かけがえのない家族だ。
「お正月には一度帰るよ。約束する」
ミユの左右に、シンとコトハが並んで歩いていた。二人に手を繋いでもらうと、ミユはとても幸せな気分になった。お兄ちゃんと、お姉ちゃん。コトハのことをそう呼ぶのはまだ恥ずかしかったので、『魔女のお姉ちゃん』だ。優しくて、柔らかくて。
ほんのちょっと、寂しがり屋で。泣き虫な魔女。
ミユが昼寝から目を覚ました時、まだ隣で眠っていたコトハは、ぽろりと一つ涙を流した。小さな声で、シンの名前を呼んでいた。魔女のお姉ちゃんは、ミユのお兄ちゃんのことが本当に好きなのだ。
シンは後ろを振り返ると、シキの様子を窺った。いつもの定位置をミユに奪われている格好だが、シキは気にしている素振りはなかった。むしろ、温かく見守ってくれている。ふと、シンはどうしてシキがミユと同じぐらいの年恰好をしているのだろうかと考えた。
魂だけのシキにとって、自分の姿形には大きな意味はないはずだ。その外観を作りだしているのは、むしろ見る側のイメージの問題となる。
恐らく、シンの中にはミユへの後悔があったのだ。シキの姿には、シンのミユに対する想いが影響している。たとえ他に理由があるのだとしても、今はそれで良い。いや、むしろシンにはそうであってほしかった。
「あ、星座盤持ってくれば良かった」
空を見上げて、ミユがそんなことを口にした。そうだ、星を見る約束をしていたのだ。頭の上には、秋の夜空が広がっていた。
「ミユちゃん、大丈夫だよ。お兄ちゃんはそんなものがなくても、お星さまのことなら何でも判っちゃうんだから」
無責任なことを言い放って、コトハがくつくつと笑った。三等星までなら全部の名前を列挙できると豪語していたのは、コトハの方ではないか。非難めいたシンの視線を受けて、コトハはウィンクを返してみせた。
兄の威厳の見せどころ、ということか。シンは観念すると、南の空にひときわ輝く一等星を指差した。
「じゃあ、まずはあそこにある明るい星、あれが――」
さあ、星めぐりを始めよう。
「Fragment.11 めがさめてひとり」は以上で終了となります。
ありがとうございました。




