いろめぶくおもい(4)
ひどく眩しい。視界が白で覆われていたので、シンは最初そう思った。ここは、光で満たされている。続けて、強い風が吹き付けてくるのを感じた。身体に無数の小さな礫が当たる。石よりも脆くて、とても冷たい。
氷。いや、雪だ。
それでようやく、シンは自分が雪原にいることを知った。見渡す限りの、真っ白な雪景色。近くを見ても、遠くを見ても何も変わらない。距離感が失われて、くらくらとしてくる。空には厚い雲がかかっていた。こちらも白一色だ。地平線がどこにあるのかも定かではなかった。
身体に付着した雪を払いながら、シンは冷静になって自分に何が起きているのかを考察し始めた。少し前ならパニックに陥っていたところだが、色々と経験を積むことによって慣れてきてしまった。状況的に、恐らく誰かの心象世界に入り込んでしまったのだろう。コトハには心配をかけているかもしれない。何もない空を仰ぎ見て、シンは「早く戻らないとなぁ」と独りごちた。
寒さが物凄いので、感覚の一部を遮断することにした。本当の肉体がここにあるわけではない。誰かの心の中と、強めに同期してしまっているだけだ。だから、凍えてしまったりとか、凍傷を起こしてしまうような心配はない。これができるということは、間違いなくここは心象世界の中だ。後はきっかけさえあれば、立ち去るのは容易なことだろう。
コトハが気が付いて、ここまで飛び込んでくる方が先かもしれなかった。それを待っても良かったが、こんな何もない場所で二人でいても、並んで震えていることしかできそうにない。コトハは暑いのと寒いのが苦手なのだそうだ。得意なものなんてないじゃないか、とかツッコんではいけない。シン自身、どちらも大して我慢が利く方ではなかった。無理に見得は張らず、仲良くエアコンの効いた屋内にいる方が結果的にはお互い楽なのだ。
良くは判らないが、ここは想像していたよりもずっと単純な作りのようだった。今目に見えているもの――感覚がマヒしてしまうほどに白に埋め尽くされた世界。それがほぼ全てだといえる。
とりあえず一度戻ろう。シンが心象世界からの脱出を試みようとしたところで。
「待って」
背後から、声が掛けられた。
コトハはふむ、と一つ鼻を鳴らすと、パーテーションの方に歩み寄った。照明の陰になって判りにくいが、奥に続く通路がある。その向こうにあるものについて、記憶の海の中をまさぐって。それでようやく、コトハはここで何が起こったのかに思い至った。
「そういえば、ここだったねぇ」
今のシンなら、それほど心配する必要はないだろう。そもそもこの美術館には、危険なものは置かれていない。展示室に入ってきた魔法使いが、次から次へと行方不明になるとか。そういった怪奇譚は小説の中だけで十分だ。
パーテーションで作られた角を曲がると、その絵が視界に入った。奥から冷たい風が流れてきている。相変わらずこんな状態なのか。だからこうして、目立たない場所に展示されている。
絵の前で、シンが倒れているのが判った。ゆっくりと歩み寄って、その横にしゃがみ込む。身体に触って、異常がないことを確認する。命に別状はない。ほっと一息つくと、コトハは床の上に横座りした。
慌てて追いかける必要はなさそうだった。念のため、魔力の補充だけおこなえるようにしておけば良い。シンの頭を持ち上げて、太腿の上に乗せる。こうやって接触していれば、消耗する傍からコトハの魔力を供給することができる。シンの前髪を整えると、コトハは安心したように目を細めた。
「困った子だ」
二人のすぐ前に、大きな絵が飾られている。真っ白いキャンバスの中央に、まるで縦に小さな亀裂が走っているかのように――そこには、小さく一人の少女が描かれていた。
降り積もった雪の中に身体を埋めて、空を見上げている。寒さに耐えて、いつかはこの厳しさが消えてくれるのだと。そう信じて、ただじっとうずくまっていた。
「どうかされましたか?」
誰かが、通路の先から声をかけてきた。若い女性の声だ。コトハはそちらに顔だけを向けて応えた。
「連れがこの子に取り込まれてしまってね。無理に引き剥がすこともできるのだが、今はちょっと様子を見ているところだ」
照明が薄暗いせいで、顔までは判らない。科を作るような緩慢な足運びで、女性はコトハのすぐ前にまでやってきた。
「ああ、噂の『ひとおもい』ね」
ふんわりとした癖のある巻き毛に、アーモンド型の茶色い目。細身でしなやかで、山猫のような鋭さを感じさせる。コトハは女性の顔を確認すると、やれやれと肩を落とした。
「これはこれはクウコさん。ご無沙汰しています」
内海クウコは、コトハとシンの姿を交互に見下ろすと。
にぃ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「お久しぶり、コトハ様。デートの最中にとんだ災難だったわね」
少女の顔を見て最初に思ったのは、生気がない、ということだった。
これだけ寒い世界の中にいるのだから、当たり前のことかもしれない。しかし、シンには色々と腑に落ちなかった。心象世界は、通常誰かの持っている記憶や想いを、シンの中にあるスクリーンで再生するだけのものだ。向こうからシンの精神に対して働きかけてくることなど、ほとんどない。
何か特殊な空間なのだろうか。そう考えたところで、シンは自分のいる場所のことを思い出した。ここは魔法の絵画が展示されている場所なのだ。ひょっとすると、ここは絵の中の世界なのかもしれない。
「ええっと、何て言えばいいのかな」
仮にここが絵の中であるとして。この少女はそのことを自覚しているのだろうか。話したとして判ってもらえるのだろうか。判ってもらったとして、どうすれば良いのか。
あれこれと思い悩んでいると、少女がくすりと声を漏らした。
「大丈夫です、自分のことは判っています。こんにちは、魔法使いさん」
寂しそうな笑顔だ。シンはそう感じた。
「マカヨ、と申します」
少女――マカヨはそう名乗って丁寧にお辞儀した。辺りは一面の雪景色のままだ。マカヨは灰色の長衣を纏って、ところどころに雪の塊が貼りついている。見るからに寒々しい。いくら感覚を断っているとはいえ、視覚情報だけで十分に凍えてきそうだった。
「私は、魂を持った絵画、というものだそうです」
自分のことについて、マカヨはそう説明した。
かつて、魔法の絵画が全盛の頃に、その究極の形の一つとして魂を持った絵画が作られた。絵を描く魔法使いが、自らの持つ魔力を最大限に使うことで、真に『魂』を込める。それは映画のように同じ動きを繰り返すだけの、いずれは飽きがくるような作品にはならない。絵画の中に住まう魂と、言葉を交わして、共に時間を過ごすことですら可能にするのだ。
「私を描いた魔法使いさんは、その界隈ではとても有名な方だったそうですよ」
絵の中の世界に入り、そこで魂を持つ存在とやり取りをおこなうことができる。これは当時実に画期的なものとして扱われ、また同時にかなり希少なものだった。この絵を作ることのできる魔法使いは、後にも先にもたった一人であるということだった。
「今では残っている絵の数も少なくなって、ほとんど見かけることはないのだそうです」
シンは今、それだけ珍しいものにお目にかかっている、ということなのか。しかし、それにしては――
ぐるり、とシンは視線を巡らせた。
ここには何もない。なさすぎる。太陽も見えない空、どこまでも広がる雪野原、振り続ける冷たい雪。
そしてそこにいるのは、真っ青な顔をしたマカヨだけだ。とてもではないが、楽しくおしゃべりをできるような環境ではない。この絵を製作するには、相当の魔力やら手間やらがかかっただろうに。
作者の魔法使いは、一体全体何を考えてこのような絵を作りだしたのだろうか。
「この絵は、未完成なんです」
マカヨは申し訳なさそうに下を向いた。
「魔法使いさんの遺作、最後の作品なんだそうです。残された全ての魔力を使って、魔法使いさんは私を完成させようとしました。ですが、最後の仕上げを残して命を落としてしまわれたのです」
この世界がこんな状態なのは、どうやら意図されたものではないらしい。シンは納得した。余程のもの好きでもなければ、こんなところで女の子と語り明かしたいだなんて思わないだろう。かまくらでも掘って、そこで身体でも温め合えば良いのか。そんな倒錯趣味の絵画に命を懸けるとか、作者の魔法使いもそこまで意味不明な趣味嗜好は持っていない。
「魔法使いさんは言っていたんです。ここには沢山の希望を込めておきたいって」
絵が魂を持ち始めた時から、魔法使いはマカヨに語りかけていた。ここはとても寒くて、苦しいかもしれない。しかしそれは、この絵が完成するまでの話だ。もう少しだけ我慢していてほしい。必ず沢山の希望を見せてあげる。
「でも、魔法使いさんは死んでしまいました。この何もない世界に、私を置き去りにしたまま」
魂を持つ絵画を作ることができるのは、世界にたった一人だけ。その魔法使いがいなくなれば、誰もマカヨを完成させることはできなかった。
いつか見れると告げられていた希望を、ずっと心の中に抱いて。
マカヨは、ここで待ち続けていた。
「私は、ひとりぼっちでずっとこんなところにいるから、近くに誰かがいるとつい引っ張ってしまうんです。その、ご迷惑をおかけいたしました」
マカヨは頭を下げて謝罪してきた。事情が判れば、怒るようなことは何もない。コトハがすぐに迎えにこないのも、恐らくはマカヨのことを承知しているからだ。
むしろ、シンはマカヨの境遇に同情した。絵画として存在するマカヨは、老いて死ぬということがない。この寒々しい白いだけの世界に、延々と一人でい続けることになる。
そんなマカヨとほんの少しでも会話をして、ひと時の慰みにでもなってくれるのなら。それならそれで、シンは一向に構わなかった。
「気にしないでください、割と慣れているんで」
実際こういうことはしょっちゅうだった。最近は能力が安定してきたこともあって回数が減ってきてはいるが、数ヶ月前などは日常茶飯事だった。
普段何気なく生活している場所にも、人の想いというのはあれやこれやと残されている。それにいちいち能力が勝手に反応して、心象世界に引きずり込まれて。見たくもない悲劇やら、痴情のもつれやらを目の前に突き付けられて。意識が戻ったらコトハの膝枕・・・というのが、四月辺りのシンのお決まりのパターンだった。
それに比べれば、せいぜい寒いくらいの場所で女の子と話をするなんて、天国まではいかなくても相当にマシな部類だ。なんなら美術館のこの部屋に、何日か遊びにきても良いくらいだ。
「そう言ってもらえると嬉しいですけど」
マカヨの表情には、翳りが残ったままだった。いくらシンがマカヨのためにここに通い詰めたとしても。マカヨの置かれている状況が好転するわけではない。それに、シンだって人間だ。いつかは老いて死ぬ。絵画が残る限りここにいるマカヨとは、流れている時間が根本的に異なっていた。
「そろそろお戻りになった方が良いですね。お連れの方が心配しておられます」
コトハのことか。心象世界の時間は、必ずしも現実時間とは一致はしないが。それでも、そこそこに長い時間をこちらですごしていた気はする。マカヨにはまた会いにくればいい。シンはマカヨに向かって手を振った。
「じゃあ、さようなら」
「さようなら、魔法使いさん」
マカヨはきっと、この絵を完成させてくれる魔法使いが現れることを期待しているのだ。いつか、ここに希望が描かれると信じている。残念ながら、シンにはその力はない。
コトハにも見つけることができなかったのだとすれば、それはきっと不可能なことなのだろう。
「おはよう榊田君。私とのデート中に、美少女との対話をえらく楽しんでいたみたいじゃないか」
コトハの第一声に、シンはしまった、と内心で舌打ちした。マカヨに同情するあまり、向こうに長居しすぎたのかもしれない。確かに今はコトハとのデートの最中だったのだ。あまり他の女の子に気を取られてしまってはいけないだろう。
「コトハ様は素直じゃないなぁ。さっきまであんなに愛おしそうにナデナデしてたのに。あたしに遠慮なんかしないで、もっと感動的にチュッチュしてくれちゃっても全然構わないんですよ?」
シンの知らない声がした。美術館で、マカヨの絵を見たところで心象世界に入ったはずだ。シンは自分がどこにいるのか、改めて周囲を確認した。
応接室、のような部屋だった。そこのソファに、コトハが腰かけている。そしていつも通りの膝枕だ。天井から下げられている照明や、置かれているチェストなどの調度品が、とても高価そうなものに思える。後は、猫足のテーブルを挟んだ向かいのソファに、一人の女性が座っているのが見えた。
「ここは美術館の特別室。お客様との商談をする際に使用する部屋だよ」
コトハの説明を聞きながら、シンは素早く身体を起こした。初対面の人間が近くにいる状態で、いつまでも膝枕をされているのもどうかと思う。魔力の消耗もそこまでではない。座り直した目の前で、猫みたいな茶色い瞳が、にぃ、と三日月形に歪められた。
「初めまして『ひとおもい』。マカヨが迷惑をかけたみたいで申し訳なかったねぇ」
女は背もたれに体重を預けると、ぐるん、と首を回した。どこか艶めかしくて、色っぽい仕草だ。上目づかいにシンを見つめる双眸は、獲物をいたぶるネコ科の肉食獣そのものだった。
「私は内海クウコ。『異言語話者』の里の仲介人をしているものだ。宮屋敷と馴れ合うつもりはないが、まあよろしく頼むよ」
シンの脇腹を、コトハがどすっと突っついた。痛い。そこまでされなくても、別に見惚れてなどはいなかった。まだコトハの膝枕の感触は残っている。そこは安心してほしい。
ただ、クウコという女性が持つ雰囲気があまりに特殊だったせいで、シンはそこに意識を向けていたのだ。
クウコは、魔法使いではない。
しかし、それ以上の何かを持っている。
それが何かは判らないが、少なくとも簡単に気を許していい相手ではない。隣にコトハがいるのならば、尚のこと注意が必要だ。
何しろ、シンはこれ以上コトハの前でカッコ悪いところを見せるわけにはいかないのだから。




