はんぶんのきもち(6)
目を開くと、車の天井が見えた。ルームランプは消えている。カーラジオのがなり立てる、デーゲームの野球中継の音が聞こえていた。シンが身体を起こすと、すぐ横にシキがいた。心配そうな表情でシンの方を見ている。「大丈夫だよ」とシンは小声で語りかけた。
「おお、シンちゃん起きたか」
運転席からヒロエが顔をのぞかせた。車の中には、他には誰もいないようだった。
「冷たいお茶飲むか?」
「ありがとうございます」
差し出されたペットボトルを受け取ると、シンはぐいっ、と中身を咽喉に流し込んだ。少々ぬるくなってきてはいたが、十分に冷えた緑茶をごくごくと飲み干すと、乾きが癒されて心地よかった。
シンが一息ついたところで、スライドドアが開け放たれた。
「榊田君、目を覚ましたか。良かった」
シンの姿を見ると、コトハはそう言って目尻を下げた。続けて助手席のドアが開いて、ユイが乗り込んできた。全員が乗車したのを確認すると、ヒロエは前を向いてハンドルを握り直した。
「どうします? 情報は得られたんでしょ?」
「うーん、榊田君が消耗しているしな。日を改めたいところなんだが」
ちらり、とコトハはシンの方に目線を投げてきた。
「俺がのびてる間に、何があったんです?」
シンの問いかけに、助手席のユイが振り返って応えた。
「ヤスコちゃんのお友達が何人かいてね、お話をきくことができたの」
児童館の階段下でヤスコの記憶に触れた後、シンは意識を失って倒れてしまった。ヒロエがシンを車に運んでいる間に、コトハとユイは児童館にいる子供たちに懐中時計に見覚えがないかを聞いて回った。
「そうしたらね、意外に色々な話を聞くことができたよ」
コトハは深く溜め息を吐いた。
ヤスコの家庭は、母子家庭だった。両親は数年前に離婚していて、母親と二人暮らしなのだという。
「あの懐中時計は、父親からもらったものだそうだ」
離れ離れになった父親から受け取った懐中時計は、ヤスコの宝物であった。いつも肌身離さず身に着けていて、学童保育の友人たちもよく目にしていた。
「懐中時計をバザーに出したのは、母親だ」
ヤスコが懐中時計を大切にしていることを、母親はあまり快く思っていなかったらしい。ヤスコから無理矢理時計を取り上げると、引っ越しの直前に児童館のバザーに寄付してしまった。
「階段の脇で座り込んで泣いているヤスコちゃんの姿を、何人かの友達が目撃している」
懐中時計は、ヤスコにとっては唯一の父親の思い出だった。「お母さんは、お父さんが嫌いなんだ」そんな言葉を残して、ヤスコはこの児童館からいなくなってしまった。
「この時計をヤスコちゃんに返してあげたいと言ったら、みんな随分と協力的になってくれてね」
年賀状や手紙のやり取りをするために、住所を交換している子が何人かいた。見ず知らずのコトハやユイにそれを教えることには問題があるかもしれないが。
それでも、ヤスコにその時計を返してあげてほしい。
お願いします、と頭まで下げられてしまって、コトハはその住所を大事に預かることにした。
「県境は越えるけど、それほど遠くじゃない。車なら陽があるうちにいける距離だ」
「ガソリン代、こっちは落ちるんすか?」
「ついで、だからな。子供の忘れ物を届けるのに使うんだ。部費で落としてくれて構わんよ」
「魔女先輩ふとっぱらー。おっきいのはおっぱいだけじゃなーい」
がん、とコトハは運転席の後ろを蹴り飛ばした。
「とりあえず榊田君を家に送って、それからいってみようと思っている。ヤスコちゃんに返したところで、また母親に捨てられてしまわないかが心配なところだが」
「待ってください」
シンはコトハに向かって、まだ重い身体を無理に乗り出した。
「俺もいきます。いや、いかせてください」
「榊田君、君は今ひどく消耗している。無茶をさせるわけにはいかない」
コトハの自分をたしなめる言葉に、シンは大きく首を横に振った。
「いえ、これは俺がやりたいことなんです。だから、俺自身の手で片付けたい。俺がやらなきゃいけないんです」
シンが望むこと。魔法使いとして、シンが進むべき道。
強い覚悟を湛えた瞳を向けられて、コトハはふむ、と鼻を鳴らした。
「まあ、そこまで言うのなら連れていくのはやぶさかではないが、ちょっと条件があるぞ?」
コトハの返事に、シンの表情がぱぁっと明るくなった。
「はい、よろしくお願いします」
「・・・言ったな?」
意地の悪い笑みが、コトハの顔いっぱいに広がった。
そろそろ陽が西に傾き始めている。車内に差し込む光が眩しいくらいだ。
ヒロエはずっとカーラジオで野球中継を聞いていた。煙草が吸えないならこれぐらいは認めてほしいということだった。ユイもコトハも微妙な表情をしたが、運転手には逆らえないということで渋々了承した。
ユイはタブレットで地図を見ながら、ヒロエのナビをしている。しばらくは大きな幹線道路を進むので、細かい指示は必要ない。暖かい陽射しを浴びて、ユイはうつらうつらと微睡んでいるようだった。
「あの、宮屋敷先輩?」
「なんだい、榊田君」
シンの目の前には、大きな山が二つ。コトハの返事は、その向こう側から聞こえてくる。後部座席に横になっているので背中が少しばかり痛かったが、頭の下はふかふかだ。
「その、これって意味のあることなんですか?」
「榊田君、君は私がただの趣味で膝枕なんてしていると思っているのかい?」
コトハは優しくシンの頭を撫でた。慈しむようなその手つきに、シンは自分の身体が熱を持つのを感じた。
「君の消耗した魔力を、私の魔力で補っているんだ。なるべく直接、接触範囲が広い方が良いのだが、私にも恥じらいはあるし、榊田君の方もこのぐらいが限界というものだろう」
一応、この行為には根拠があったらしい。確かに、他のどんな方法でコトハと接触したとしても、シンには我慢ができるとは思えなかった。ましてや、狭い車の中にはユイとヒロエもいるのだ。膝枕でも十分すぎるくらいに恥ずかしい。
「有難がっておけばいい、ですね」
シンの言葉に、コトハはふふっと笑みをこぼした。
「その通りだ。私だって誰彼かまわずこんなことをするわけではない。私にとって、榊田君は十分に特別だよ」
しばらく沈黙してから、シンはぽつり、と問いかけた。
「それは俺が魔法使いだから、ですよね?」
コトハは、シンの持つ魔法使いの力を開放した者だ。魔法使いとして、シンの師匠にあたる。
「そうだな、榊田君が魔法使いであることは、私にとって格段の意味を持つことは確かだ。それは否定しない」
シンは魔法使いであり、コトハの弟子である。
二人のその縁が作り出されたのは、シンの魔法使いの力を覚醒するように導いた、シキの手引きによるものだ。そう考えると、シンにはどうしても割り切れなかった。
「でもさ、人を好きになるって、きっと理屈じゃないんだよ」
シンの額の上で、コトハの手が止まった。人差し指一本を立てて、ゆっくりとシンの鼻筋を辿る。鼻梁を越えて、唇に触れそうになったところで。
コトハは、つん、とシンの鼻をつついた。
「だから、理由なんて考えるのはやめよう。榊田君はもうちょっと自分を過信しても良い気がするよ」
そうなのだろうか。
シンは顔を横に向けた。シキが、シンの様子をじっと覗き込んでいた。
「宮屋敷先輩」
「なんだい、榊田君?」
シンは、シキの父親になる。シキがいずれ産まれてくるシンの娘の魂だというのなら、そういうことになるのだろう。
「俺は、父親になれるんでしょうか?」
コトハは、黙ってシンの胸の上に掌を置いた。熱い脈動が、コトハの手に伝えられてくる。シンはコトハの手の甲にそっと触れた。少し冷たくて、滑らかで。ほっそりとしていて。
思い切って、シンはコトハの手を握った。コトハはただ、シンにさせるままにしていた。華奢で、柔らかくて。折れてしまいそうなほどに繊細な、コトハの指。コトハの手が離れていかないように、シンはほんの少しだけ力を入れた。それでも、強すぎはしないかと不安になったが。
コトハは何も言わず、じっとシンを見つめていた。
「・・・宮屋敷先輩は、俺の中を見たんですよね?」
懐中時計の見せた心象世界。
ヤスコの心と同調して、シンは自分の中身が溢れ出すのを感じた。もとより、コトハに隠し事などできるつもりは毛頭なかった。しかしそれでも。たとえコトハが相手なのだとしても。
自分の中を見られてしまうことは、とてもつらかった。
「見たよ。私は、榊田君の苦しみを知っている」
誰もいないベランダに、一人で立つ少年の姿をコトハは見た。星空の下で凍えながら、温かい部屋の中に入ろうとしない少年が、かつてのシンだった。
「大丈夫だよ、榊田君」
その光景を目の当たりにして、コトハはシキがシンの下を訪れた意図を知った。自分が、榊田シンという男性と結ばれることに、どんな意味を持つのかを悟った。
「榊田君は、きっと立派な父親になれる。シキがここにいることが、それを証明している」
シンに語りかけるコトハの声は、とても穏やかだった。シンはコトハの手を離すと。
静かに目を閉じた。
シンが六歳の時、両親が離婚した。理由はよく判らない。まともに説明されたこともなかったと思う。
シンを引き取ったのは母親だった。公営住宅の団地で、シンは母親と二人で暮らした。
母親は、シンの父親のことを話したがらなかった。写真も、何もかも、その痕跡となるものは全て処分してしまった。シンはもう、父親の顔を覚えていない。名前ですら、定かではない。
シンには、父親がいない。
正確には、父親はいないものとされてしまった。
シンにとって、世界は母親が全てだった。シンのために毎日身を粉にして働いている母親。シンを可愛がってくれる母親。シンはずっと、母親のことが好きだった。
そんな母親が再婚したのは、シンが十歳の時だった。
職場で知り合った男性だという。物腰の柔らかな、どちらかといえば優しい感じのする男だった。
「今日からあなたのお父さんよ」
シンには、母親が何を言っているのか判らなかった。シンの父親は、この世界にたった一人だ。顔も名前も、もうおぼろげになって思い出すことも難しいが。
それでも、シンにとって父親と呼べる人間は、一人しかいなかった。
母親は、新しい夫と常に一緒にいるようになった。シンの世界は、どんどん小さくなっていった。どんなに寂しくても、悲しくても。もう、母親はシンだけの母親ではない。
半分になった。
半分は、まだシンの方を向いてくれている。
もう半分は、シンの知らない、違う世界の方を向いてしまった。
父親がいてくれたら、足りない半分をシンに向けてくれただろうか。シンにはよく判らなかった。ただ、自分が人と違うこと。たまに「片親」と言われることがたまらなくつらかった。
新しい父親ができたとしても、シンはいつまでも「片親」だった。何故なら、その男はシンの「父親」ではないからだ。どんなに優しい言葉をかけてくれても、どんなにわがままを聞いてくれたとしても。
シンは、「片親」だった。
母親がシンの妹を身ごもったのは、それから一年後だった。
家の中が慌ただしくなり、シンは自分の居場所がなくなったことを知った。ここには、家族がいる。父と、母と、娘。そこに、シンは含まれていない。母親に半分だけ見てもらっていたシンは、とうとう全てを失うことになった。
シンには、もう何もない。
半分は、一つになれない。
妹が成長するにしたがって、家の雰囲気がどんどん変わっていった。明るくて、楽しくて、笑顔に満ち溢れている。
その中に、シンの入る隙間はない。
妹は、父親と母親、両方から愛情を注いでもらえる。全部だ。シンにはなかったもの。半分になって、その後なくなってしまった全部。
妹は可愛い。「お兄ちゃん」と言って慕ってくれる。妹には何の罪もない。
家族が楽しそうに団欒していると、シンはそっとその場を離れるようになった。そこにいてはいけない気がした。
寒い冬の日、シンはベランダに出て星を眺めた。部屋の中では、父と母と妹が、楽しそうに話をしている。その声を遠くに聞きながら、シンは夜空に思いを馳せた。
遠い昔、もう定かではないほどの古い記憶の中で。シンは、父親に抱えられて星を見ていた。確か、父親は星に詳しかったのだと思う。スピカや、アルタイル、そういった星の名前を、最初に教えてくれたのは誰なのか。それは恐らく父親だった。
シンを見てくれるはずだった、もう半分。今父親がどこで何をしているのか、シンはまるで知らない。生きているのかどうかですら判らない。
凍えそうになるくらいに寒い日でも、星を見上げれば、シンは自分のもう半分を取り戻せる気がした。何もなくなってしまった自分の、本当はそこにあるはずの半分。ずっと欲しかった家族。父親。
大学進学を機に、シンは家を出た。本当は高校に通っているうちに出てしまいたかったが、母親が許さなかった。
母親も、シンに対して思うところがあったのだろう。家族の中で居場所を見失っていたシンに、色々と気を遣ってはくれた。
だが、それも妹のことが落ち着いた後からだった。何もかもが手遅れだ。シンは別に家族に迷惑をかけるつもりはなかった。むしろ、迷惑にならないように姿を消すつもりだった。父親を名乗る男のことも、同じ母親を持つ妹のことも、嫌いではないし、恨んでもいない。
むしろ幸せになってほしいと願っていた。その幸福の中に、シンのいるべき場所はない。それだけだった。
人を想い流れる涙。ひとおもい。
シンに与えられた二つ名。そのあり方。
お金だけは受け取ってほしいと、今でもアパートの家賃や生活費がシンの口座に振り込まれている。これも、できる限り早いうちに、シンは全てを自分で賄うようにしてしまうつもりだった。
シンには、もう何もない。
何もないシンが、名前ばかりの家族から離れて。
たった一人の部屋に辿り着いた時。
シキが、シンの下を訪れた。
シンを「父親」に持つ娘の魂。
シンに、全てを与えてほしいと願う魂。
何もないなんて、そんなことはないと。
まだその命を授かる前から、シキはシンに希望を伝えるためにやってきていた。