ゆりかごのねがい(1)
夜が明けてしばらくすると、窓の外からスズメのさえずりが聞こえてくる。この生活にもだいぶ慣れてきた。榊田シンは布団から身体を起こすと、カーテンをやや乱暴に開け放った。
びっくりして飛び去っていく小さな集団を見送って、うーん、と背筋を伸ばす。今日も天気が良い。台風が接近していたが、見事にこの辺りを逸れていったとのことだ。ありがたい話であるのと同時に、大学にはちゃんといかなければならないということでもある。いよいよ後期課程が始まるのだ。しっかりと気合を入れ直さなければならなかった。
前期の単位取得状況は、特に問題なしだった。ほとんどの単位は通年課目なので、前期の試験成績が余程ひどくない限りは大丈夫だろう。シンの成績は中の中。この調子なら、落とすこともないし、優秀者と表彰されることもない。中庸、平凡。高望みなんてしない。それで十分だった。
部屋の中に目線を移すと、ぐしゃぐしゃになった布団の脇に小さな女の子が立っていた。白いワンピースに、ほっそりとした長い手足。黒髪が朝日を受けてきらきらと輝いている。くりくりとした目の、可愛らしい顔立ち。ぼんやりと呆けたような表情で、女の子はシンのことを見つめていた。
「おはよう、シキ」
シンが声をかけると、シキはにっこりと微笑んだ。最近は反応が良くなった気がする。より感情表現が豊かで、人間的だ。コトハに言わせれば、これは何かを学習しているというよりも、因果の結びつきが強くなっているからなのだそうだ。
なるほど。この夏休みで、シンはコトハとだいぶ親しくなったという自覚があった。その影響で、シキはより色濃くこの世界に自身を投影することができるようになったのだ。それは素直に喜んで良いことなのかもしれない。
シキは幽体という、実体を持たない存在だ。普通の人間には、その姿を見ることすらできない。シンプルに考えれば『幽霊』と表現したくなるのだが、コトハはその辺りの区分について非常に口うるさかった。
「いいかね? 記憶が『霊』、本質が『魂』。合わさって『霊魂』だ。幽霊というのは、『霊』だから記憶だ。よくラノベとかアニメで『残留思念』とか言うだろう? 何らかの理由で実体を伴わずに記憶がその場に滞留しているのを『幽霊』と呼ぶのだ」
そんなもっともらしい講釈はとにかくとして。
シキの場合は、『魂だけ』であるということだった。記憶がなく、本質だけが彷徨いでている。記憶は学習に由来するものであり、そのせいなのか、シキは言葉を扱うことができなかった。色々と教え込もうとしてみても、覚えられることとそうでないことの差はだいぶはっきりとしていた。
「とりあえず『シキ』」と名付けたのはコトハだった。
「明確な名前を与えることはしない。これは仮の名前だ。変にしっかりと名付けてしまうと、因果律にどんな影響があるのか判らないからな」
名前一つで何を大げさな――事情を知らない者ならそう思うことだろう。
しかし、こればかりは考えすぎて困るようなことは何もない。シンとコトハにとって、シキは特別な意味を持つ魂だった。
尖央大学魔法研究会の元部長にして、心理四年の宮屋敷コトハと。
魔法研究会の新入部員で、この九月に書記を拝命したばかりの国文一年、榊田シン。
魂の待機室であるガフの部屋から飛びだしてきたシキは、将来においてこの二人の間に産まれてくる娘の魂だというのだ。
夏休み中にジョギングだなんだとやっていた成果なのか、ここ最近のシンの目覚めは非常に快調だった。シンはもともと、運動らしい運動などしたこともない、がりがりの痩せっぽっちだ。八月の頃は全身筋肉痛でひいひい言っていたのが、今では少し走ったくらいでは息が上がらなくなってきた。
ユイに言わせればそれくらいは当たり前で。
ヒロエからすればまだまだ全然貧弱な坊やで。
アユムによれば抜け駆けは許さない――ということらしい。
個性豊かな魔法研究会の先輩たちは、シンに対して実にフレンドリーだ。大学に入ってから、シンの生活の中心はすっかり魔法研究会だった。
顔を洗いに洗面台に立つと、冴えない細身の男の姿が鏡に映っていた。まあ確かに、お世辞にも逞しいなどとは言えそうにはない。コトハの好みはもっと筋肉質で、野性味のあるタイプだと聞いていた。
残念ながら、ここにいる榊田シンは肉どころか草も食べていないような絶食系だった。小学校の頃は、「シン君の良いところ」という道徳の作文で、「優しそう」以外にめぼしいコメントがついていなかった不名誉な実績も保持している。
大縄跳びやリレーのような体育行事は、大の苦手だった。いっそのこと、もっと病弱であってくれれば言い逃れもできただろうに。それでいて健康優良児というわけでもない。何というか、シンはあらゆることに関して、適度に中途半端だった。
それが、どういう運命の巡り会わせによるものか。シンは宮屋敷コトハという女性と結ばれ、娘を授かるというのだ。
「未来は可能性だからね」
コトハは高名な魔法使いの一族、宮屋敷家の一人娘だった。優れた魔法使いであり、とんでもない大金持ちでもあり。
ちょっときつい感じのする眼鏡美人で。
あとは、おっぱいが大きかった。本人は少々気にしているらしいので口には出さないが、それは割と重要な特徴だ。
とりあえず様々な点において、コトハはシンとは不釣り合いな感じだった。多分、シンがこれまで通りの目だたないような人生を送り続けていたのだとしたら・・・巡り合うこと自体がまず奇跡、というぐらいの相手だ。何かの間違いか、新手の詐欺だとでも言われた方が、まだ信用できただろう。
それでも、人の縁というのは不思議なものだ。魔法研究会に入って、夏がきて。
夏合宿が終わり、大学の後期の授業が始まるこの時期になるに至って。
シンは、コトハと付き合うようになっていた。それも、ちゃんとした恋人同士だった。
簡単な朝食を済ませて着替えを終えると、シンは大学に向かおうとした。今日の講義は、午前の二限目からだ。慌てる必要はないが、キャンパスには少し早めに着いておきたい。魔法研究会の部室にいけば、きっとコトハが待っているだろう。
カバンを掴んで出かけようとして、シンはふと、テーブルの上に放置してある一枚のハガキに目をやった。青空とカモメのイラストが印刷された、暑中見舞いだった。大学生活を始めて、このアパートに住むようになって。自分宛てにこんな郵便物が届くなんて、シンは考えることすらしていなかった。
差出人は、シンの母親だった。ボールペンの小さな字で、「元気にしていますか。たまにでも良いので、連絡をください」と書かれている。このハガキが届いたのは七月の下旬。もう丸一ヶ月以上も前のことだった。
結局、母親に返事をださないままに夏は終わってしまった。別に、郵便にこだわる必要なんてなかったのかもしれない。暑中見舞いの体裁でなくても良かっただろう。いやそれどころか、手紙でもなくて、メールでも、電話でも、手段は何でも良かったのだ。それでも――
シンにとって、家族はもう切り捨てたものだった。
シンが六歳の時、シンの両親は離婚した。シンは母親に引き取られて、このまま二人で生きていくのだと思っていた。
数年後、母親は再婚した。十歳のシンは、新しい父親を名乗る男性に母親の半分を奪われた。
そしてまた数年後、妹が生まれた。もう半分が奪われて、シンは母親を失った。
明るくて暖かい家庭が、シンのすぐ目の前にあった。シンはその中の一部のようでいて・・・そこにいてはいけない者だった。
母親は、何かとシンに気付かってくれていたのだとは思う。新しい父親も、シンのことを本当の息子みたいに扱おうとしてくれていたとは感じている。両親のそんな愛情を否定するつもりはないが。
どうしても、妹にはかなわない。
二人には、血の繋がった子供がいる。シンよりも、そちらの方を優先するのは当たり前のことだ。責めるつもりはなかった。ただそこはもう、シンのいる場所ではなかった。たったそれだけの話だった。
可能なら、シンは高校入学を機に一人暮らしを始めるつもりだった。全寮制の学校についても調べていたことがある。その考えを話した時に猛烈に反対したのが、シンの母親だった。
「どうして・・・」
母親はそう言って泣き崩れた。シンにとっては、理由は説明するまでもないことだった。シンは幸せな家族の中にある、忘れたい過去、異物でしかない。高校に関しては、父親や妹のとりなしもあって諦めることになったが。
大学生になって、引き留められる事情はもう何もなかった。
学費も、家賃も。アルバイトをしながら、こつこつと『返済』している。一人暮らしには不釣り合いなこの広い部屋は、母親からの最後のわがままだった。これのせいで、全てを返し終わるのには時間がかかりそうだが。
このお金の切れ目が、縁の切れ目ということになるのだろう。
「いこう、シキ」
玄関に立つと、シンはシキに声をかけた。ぱたぱたと、音はしなくても聞こえてきそうな勢いでシキが近付いてくる。その様子を見て、シンは破顔した。
もし自分に娘ができるなら、精一杯愛してあげたい。シンは自分が、『まともな家族ではなかった』ことをずっと引け目に感じていた。もともと女性にモテる要素も何もないし、一生独り身ならそれはそれで構わないとも思っていた。
シキはそんなシンに、未来を運んできてくれた。父親想いの、優しい娘だ。シンは冷たく切り捨てるだけの存在ではない。誰かを好きになって、誰かに好きになってもらえる。それは妻となる女性だけではない。はるか時間を超えてまで、父親に会いにきてくれる娘もいるのだ。
シキに、こんな想いはさせない。半分の気持ちなんて、自分だけで十分だ。
テーブルの上にあるハガキを、もう一度だけ見やって。
シンは、外にでた。駄々をこねて泣くような子供は、ここにはいない。そんなものはもう、切り捨てて置いてきた。
尖央大学の裏手、クラブハウス棟のさらに奥の奥、裏山の斜面に面した僻地に建てられたプレハブ棟。魔法研究会の部室はそこにある。長い歴史を持つということは、必ずしも良いことばかりとは限らない。大学の全てから置き去りにされて、この建物はロクな設備もアンペア数もないままだ。
よくよく考えてみると、シンは夏休み中もほとんどこの部室を訪れていた。後期課程が始まったとしても、日常の行動はまるで変わっていない。ここから向かう先がバイト先か、講義室か程度の違いだ。シンにとってそうなのだから、他のメンバーに関しても大差はないのではないか。
「おはよう、榊田君」
「おはようございます、橘先輩」
部室に入ると、まずは教育二年、橘ユイが声をかけてきた。二年生ながら、夏合宿で次期部長を指名されている。ユイはいつも通りに丸椅子に腰かけて、何やら本を読んでいたようだった。
「何読んでるんですか?」
「児童教育の教科書。勉強して判っているつもりでも、なかなか身についているとは言えなくてね」
ふぅ、と息を吐き出すと、ユイは勢いよく椅子から立ち上がった。
「榊田君は二限から? まだ時間あるから、コーヒーでも淹れようか?」
「あ、自分でやります」
今までは当たり前のように、ユイにお茶なりコーヒーなりを準備してもらっていたのだが。ユイはこの魔法研究会の部長になったのだ。そういう雑用を任せてしまうのには、なんだか抵抗があった。
「気にしないで、好きでやってるから」
ユイはひょいひょい、とカップやら何やらを取り出して、既に電気ケトルからお湯を注いでいた。シンが何か手伝いをしようとする隙すら与えない。大した手際の良さだった。
「んあー」
部室の奥、剥き出しのコンクリート床に不釣り合いな豪華なソファの上で、奇妙な声がした。シンは、なるべくそちらには視線を持っていかないようにしていたつもりなのだが。
どうやら、いつまでもそういうわけにはいかないらしい。
「宮屋敷先輩。榊田君、きましたよ」
ユイの呼びかけに応えて、ソファの上の物体は、もぞり、と小さく蠢いた。不自然に大きく盛り上がったタオルケットだ。そろそろ朝の早い時間は涼しくなってきたので、部室に着いた時にはまだ肌寒かったのだろう。別に無理して起きてもらう必要はない。元気でいてくれているのならまあ、それで良い。色々と大変だということは理解しているつもりだった。
「寝てても良いですよ、宮屋敷先輩」
すぽん、とタオルケットの隙間から首が生えてきた。せっかくの綺麗な黒髪が、ぐしゃぐしゃになって台無しだ。赤い下縁の眼鏡も、右半分がズレて落ちている。覚醒していればきりっと凛々しい挑戦的な吊り目も、開いているのかいないのかイマイチ判然としなかった。
これが宮屋敷コトハ。魔法研究会の先代部長で、二つ名に『原理』の二文字を含む偉大な魔法使いだった。
「榊田君、勘弁してくれ。君まで私を甘やかしだしたら、私はもう堕ちるところまで堕ちてしまう」
「だらしがないという自覚があるのなら、しっかりしてくださいよ」
ぶぶぅ、とコトハは唇を尖らせた。
「なんかさ、最近の榊田君はあれだよね、カレシの余裕ってやつを感じさせるよね。女ができて友達をなくす男ってさ、きっとこういうタイプだよ」
「彼女がいたことがないから判りません」
彼女なんて、できると思ったことすらない。そしてできたと思ったら、その相手はタオルケットから首だけだして拗ねている。全く、一体何をどうすれば良いと言うのやら。
「こんなところに天羽先輩がきたら、大事ですよ?」
天羽セイは、コトハの前の魔法研究会の部長だ。この場に現れることなどまずあり得ない人物だが、コトハにとっては天敵のような堅物である。その名前を口にするだけで、効果は覿面だった。
「天羽先輩の名前はださないでくれよ。ああもう、余計な知識ばっかりつけちゃって」
タオルケットの下から、ようやくコトハの全身がさらけだされた。今日は少しおしゃれな、薄いグリーンのワンピース姿だった。相変わらず、胸の辺りのボリュームがひときわ目立っている。豊かな谷間の上の辺りで、金の六芒星のペンダントがきらり、と光を反射した。
「今日はいつもとちょっと違いますね」
「まあね」
ぶっきらぼうに返事をすると、コトハはシンからわざとらしく視線をはずした。ユイがくすくすと小声で笑っている。ああ、そういうことなのか。
「似合ってますよ、宮屋敷先輩」
「あ、なんかムカつく」
望んでいたはずの言葉をかけたのに、ひどい仕打ちだ。コトハの方こそ、ここのところはシンに妙な絡み方をしてくるようになった。
まあしかし、それが楽しいし、嬉しいのは仕方がない。
魔女先輩は、シンにとっては誰よりも大切な恋人だった。




