はんぶんのきもち(5)
児童館に到着すると、ユイとヒロエは職員への挨拶もそこそこに、さっさと子供たちの中に混じっていってしまった。ユイは図書室で読み聞かせ、ヒロエはグラウンドでサッカーをするという。初めての場所で、初対面の子供たちを相手に、二人はすっかり馴染んでいた。
「あの二人はある意味ベテランだからな」
コトハは二人を自由にさせておいて、シンと共に事務室に向かった。児童館の事務室というのはどこも似たり寄ったりで、狭い部屋の中に、大量の書類に埋もれたデスクが並んでいる。バザーの担当をしていた仲藤という職員は、まだ若い、ジャージ姿のぷっくりとした体形の女性だった。坂道で良く転がりそうだ、と思ったところで、シンはコトハに睨まれた。口に出した覚えはないのだが、一体どこで悟られたのだろうか。
「ええっと、バザーの商品に関するお問い合わせということでしたっけ?」
厄介なクレームだとでも思っているのか、仲藤の口調はおどおどとして歯切れが悪かった。コトハはポケットから懐中時計を取り出してみせた。
「はい。こちらの懐中時計なのですが、元の持ち主のことで何かご存知のことはありませんでしょうか?」
コトハの手から懐中時計を受け取ると、仲藤は顔のすぐ真ん前にまで近付けてじっと見つめた。極度の近眼なのだろうか。それにしては眼鏡はかけていない。丸メガネが似合いそうだ、とシンが考えると、またコトハが目で注意してきた。おかしい。思考が漏れているのか、あるいはコトハが勝手に読んでいるのか。
「ああ、これ、ヤスコちゃんの」
「ご存じなんですか?」
仲藤はコトハに時計を返すと、こっくりとうなずいた。
「水盛ヤスコちゃん。ここの学童保育に通っていた子の持ち物だと思います。懐中時計なんて珍しいものだったので覚えてました」
学童保育は、小学校に通うようになった後の子供を、放課後に預かるサービスだ。両親ともに仕事で忙しい家庭などでは、よく利用されている。シンも昔は小学校の近くにある児童館に、学童保育として預けられていたことがあった。
「じゃあ、この時計の元の持ち主はヤスコちゃん、ということで良いんですかね?」
「そう思うのですが・・・」
しゅん、と仲藤がうつむいた。
「ヤスコちゃんは先月学童をやめてしまいました。ご家庭の事情で、お引越しされるとか」
シンはコトハと顔を見合わせた。ここまで来て、手掛かりを見失ってしまうのか。
「引っ越し先とか連絡先は、判りませんよね?」
「そうですね。それに仮にこちらで連絡先を把握していたとしても、個人情報になりますからね」
仕方がない。コトハとシンは丁寧に頭を下げた。
マジックショーのイベント公演の打ち合わせをしたいということで、コトハは事務室に残った。シンはヤスコの懐中時計を受け取って、一人児童館の廊下で壁に寄り掛かっていた。
家庭の事情。児童館職員の仲藤はそう言っていた。それは、シンがこの時計に見せられた心象風景と何か関係しているのかもしれない。
母親に引きずられて、泣き叫んでいた女の子。あの子が、水盛ヤスコだ。シンには確信があった。これは恐らく、シンの持つ魔法使いの力が教えてくれている。懐中時計を胸に抱いて、ヤスコは母親に連れられてどこかに去っていった。
この時計はどうして、児童館でバザーの商品として売りに出されていたのか。
懐中時計には、ヤスコの父親が残した想いが刻まれている。現実のその文字列が裏蓋の内側に残されていることは、既に確認済みだった。その行為の意味するところを知って、シンはどうしてもこの時計を元の持ち主のところに戻したかった。
ふと顔を上げると、目の前にシキが立っていた。シキは、じっとシンの顔を見つめている。
シンは、シキの父親になる。
自分の娘、子供を見失わないために。シンなら、シキのために何をするだろうか。
シキは、どうやってシンを探して、ここまで辿り着いたのだろうか。
未来のことは判らない。何一つ確定していることはないと、コトハは断言した。
しかしそれでも、シキはシンの下を訪れた。未来の可能性を、一つの道を示してみせたのだ。
この時計に残された願いにだって、まだ希望はあるはずだ。シンはそう信じたかった。
「やあ、お待たせ」
十分程度で、コトハは事務室からひょっこりと顔を出してきた。
「ウチの大学の初等教育研究会のOBが繋がりを持っているらしくってね、今度そこの連中とも一緒に打ち合わせをすることになったよ」
初等教育研究会は、主に子供向けの人形劇の公演をおこなっている部活だ。魔法研究会はその前座としてよく声をかけてもらっている。そういうことならば、近々ここで共同イベントを開催するという流れになるだろう。
シンが懐中時計を握っているのを見て、コトハはふぅ、と肩を落とした。
「こっちは情報が途切れちゃったね。仲藤さんも連絡先は本当に知らないみたいだから、手詰まりだ」
「本当に?」
「ああ、さっきまでしばらくの間、近くにいる他人の思考を読み取れるようにしていたんだ」
それでか。
シンの顔色を見て、コトハはむすっと口をへの字に曲げた。
「榊田君、色々と失礼なことを考えすぎ。ノイズくらいならいいけど、こっちまで笑っちゃったらどうしてくれるんだ」
そうは言われても、意図せずに頭の中に浮かんでしまったことだ。考えることを控えてほしいとは、思想弾圧に等しいだろう。
「そういうことをするのなら、先に教えておいてください」
「榊田君の場合はそうするよ。ヒロエなんかは、逆に頭の中で漫才やら一発ギャグやら始めて大迷惑だからな」
なるほど、ヒロエならやりかねないとシンは納得した。
「それに、そうやって心の中が盗聴できるってことはあまり大っぴらには言いたくないんだ」
コトハはふい、と横を向いた。
「特に、榊田君にはそういう風に思われたくない。フェアじゃないだろ?」
「フェア、ですか」
思いの外、コトハはシンのことを真剣に考えてくれている様子だった。シンはなんだか気恥ずかしかった。
「心を読まれにくくする方法は今度教えてあげるよ。私たちは、お互いのことをきちんと正攻法で理解し合うべきだ」
「真面目ですね、宮屋敷先輩」
「真面目だよ? 最初から、今現在に至るまで、私は常に真面目だよ?」
心外だと言わんばかりに、コトハは唇を尖らせた。その横でシキがにこにこと笑っている。二人が並んでいると、親子であるということがよく判った。シキは、小さな魔女先輩だ。
コトハは隣に立つシキの姿を見下すと、優しく目を細めた。
「シキが私たちの未来だというのなら、その未来は二人にとって納得のできる、幸せなものである方が良いだろう? 私は榊田君のことを無条件に受け入れることも、否定することもしない。ちゃんと理解して、その上で結論を出す」
ごほん、とコトハは一つ咳ばらいをした。
「だから、私は榊田君とはなるべく普通にしていたいんだ。普通に一緒にいて、普通に理解しあって、それで」
コトハの声が、視線が。いつもとは違って感じられて、シンは胸が高鳴った。コトハの顔が近い。身体が、触れてしまいそうなほどに寄ってきている。柔らかく湿った唇が開いて、コトハが次の言葉を紡ぎ出そうとした時。
「ひゅーひゅー、熱いねー、ちゅーしちゃえよー」
にやにや笑いを浮かべたヒロエと、顔を真っ赤にしたユイが歩いてきた。
「富岡先輩、ダメですって」
「いーじゃん、子供まで作るご予定なわけだし?」
「宮屋敷先輩は結果だけを急がないようにすごく気を遣ってるんですよ?」
「えー、結果にコミットしようよー。っていうかもう結果は見えてるんだからさぁ、プロセスなんてどうでもいいじゃーん」
「・・・ヒロエ、お前な」
コトハの声色は、怒りに満ちていた。良く見るとわなわなと肩を震わせている。シンは慌ててコトハから顔を逸らした。危ない。今のはちょっと危なかった。
「イマドキ小学生男子でもそんなことは言わんぞ? お前は私に何の恨みがあるんだ?」
「恨みはまあ、ないワケでもないんですけどね」
ヒロエはちらちら、と左右に視線を向けた。
「それは置いといても、児童館の廊下でやることではないでしょうよ」
ヒロエに指摘されて、コトハはぶわっと耳まで赤くなった。男の子数名が、丁度その後ろをばたばたと走り抜けていく。シンも自分が今どこにいるのかを思い出して、冷や汗が流れ出してきた。
「馬に蹴られて死ぬつもりはないですよ。ただ、ロマンスはそれにふさわしい場所でお願いしますわ」
ロマンス。
コトハは目を白黒させながら、ぐぎぎ、と呻きのような声を絞り出した。そんなコトハの横顔を、シンはちらり、と見やった。
さっきの言葉の続きは、多分聞かないでおいて正解だったのだと思う。コトハとの関係は、コトハが望んでいるのと同じように。シンもまた、真面目に考えておきたいことだった。
結果が見えているからこそ、焦らなくていい。コトハはちゃんと、シンと真正面から向き合ってくれている。
「それより、ちょっと気になるところを見つけたんですよ」
ユイがそう話を切り出したことで、シンはようやく当初の目的に立ち返った。
ユイが一同を連れてきたのは、二階に続く階段の脇だった。階段下がパイプスペースと収納になっていて、建物の裏手に出る非常口が設けられている。その場所に近付いただけで、コトハはぴくん、と反応した。
「何かを隠してるね」
シンは手に持った懐中時計に意識を集中してみた。誰かを感じる。時計を胸に抱いている気配。かち、かち。時を刻む音が、身体の中にまで響いてくる。
「やっぱり関係ありそうですか?」
「はい、間違いなく関係しています」
これは、ヤスコだ。ユイの問いに、シンは首肯した。
「じゃあ、ちゃっちゃと暴いちゃいますわ」
ヒロエがひょい、と右手を振った。ヒロエの魔法使いとしての能力は『ペネトレイト』。『看破』または『突破』などと呼ばれている。隠されたものの存在を見通し、その実体を力ずくで白日の下にさらけ出させる。豪快なヒロエの性格が、そのまま表れているかのような力だ。
階段の横に、今まで見えていなかったものが急に姿を現した。
「これは」
コトハはその場にしゃがみ込んだ。その目線の先にあるのは、ホコリをかぶった数個のブロックと、絵本だった。
「榊田君」
言われるまでもなく、シンはコトハの横に並んだ。かち、かち。懐中時計の振動が大きくなる。コトハと手を繋ぎ、目を閉じる。前回は意図せずに飲み込まれてしまったが、今度はこちらから入っていく。コトハが最初からサポートしてくれるのならば、不安なことなどは何もない。
魔法研究会の部長、魔女先輩は、シンにとって最も信頼のおける人物だからだ。
薄暗い階段の脇に、女の子が座り込んでいた。
その手の中には、懐中時計が握られている。秒針の規則正しい音が、女の子の身体の中に時間を刻んでいく。周りに散乱したブロックや絵本には目もくれず、女の子はただ目の前の暗闇を見つめていた。
「水盛ヤスコちゃんだね」
コトハが呟いた。懐中時計の見せる心象世界の中なので、黒い大きな魔女帽子を頭に乗せている。むしろこの姿の方が、シンにはしっくりときているように感じられた。
「ヤスコ!」
誰かの声がした。きんきんとした、女の声。カツカツという足音が廊下中に響いた。
ヤスコは顔を伏せた。時計を抱きこむように、ぎゅっと身体を縮こまらせる。廊下の向こうから、灰色の服を着た女が現れた。
「お母さん、か」
ヤスコの母親は、足早に廊下を歩いてくる。すぐ近くにまでやってきたが、丸くなったヤスコに気付かずそのまま通り過ぎていった。ほっと息を吐いてヤスコが顔を上げると。
「ヤスコ!」
再び、声がした。廊下の向こうに、ヤスコの母親が現れる。廊下を歩いて、ヤスコの脇を通過する。同じことが繰り返される。何度も、何度も。ヤスコの母親は、いつまで経ってもヤスコの姿を見つけられない。ヤスコはその場にじっと座り込んでいる。
「ここは、ヤスコちゃんがお母さんから身を隠していた場所だったんでしょう」
母親が迎えに来て、学童保育から帰る時。ヤスコはここに隠れて、母親をやり過ごそうとしていた。
その記憶が、シンの中に流れ込んできている。見つかりたくない。ここにこうしていたい。ヤスコの想いが、シンの中でちくちくと痛みを与えてきた。
「虐待か?」
「いえ、それは違うみたいです」
シンが応えるのと同時に、手の中の懐中時計が、かちり、と大きな音を立てた。
「ヤスコ!」
今まで完全にヤスコの姿を見失っていた母親が、急にヤスコの方に向かって駆けてきた。膝を抱いて丸くなっているヤスコの前に立つと。
「ヤスコ、良かった!」
ぎゅう、と力強く抱きしめた。
母親はヤスコの背中に手を回して、愛おしげにその身体を撫でた。眼からはぼろぼろと涙がこぼれて、すすり泣きのような声が漏れ聞こえた。
「ヤスコ、どこに行っていたの? 心配かけさせないで」
「ママ、ごめんなさい。ママ」
ヤスコの安堵が感じられる。ヤスコは、母親を嫌っているわけではない。母親もまた、ヤスコに対して十分な愛情を持っているように思われる。
それでは、何が。
かちり。
時計の音。大きな不安。シンの背筋が、ぞっと震えた。
「ヤスコ、あなたまだこんなものを」
母親の手が伸びた。ヤスコの胸元から、懐中時計を奪い取る。身体の中に響いていた秒針のリズムが、ふっと消え失せた。
「ママ、やめて」
その音が失われて、ヤスコの中が悲しみで満たされていくのが判った。シンの奥深くで、何かが共鳴している。吐く息が白い。ベランダから見える星空。暖かい室内の光。振り返って、暗闇の方を向く。
「こんなもの!」
泣き声。慟哭。
「榊田君、しっかりしたまえ」
自分が二つになる。切り取られたように、真っ二つ。
半分は一つではない。半分は一つになれない。
だから。
ずっと一つになれないまま。このまま。
「榊田君! 君にはシキがいる! シキと、私がいるじゃないか!」
コトハの呼びかけに、シンははっとした。
気が付くと、コトハがシンの目をすぐ近くで覗き込んでいた。眼鏡のレンズの向こうに、力強い、何もかもを見通す黒い瞳が見える。それは少しも動じることもなく、ただひたすらにシンのことだけを見つめていた。
「宮屋敷先輩」
「理由にしたくないことは判ってる。でも、君はその可能性を掴めるんだ。大丈夫」
コトハの優しい声を聞いて。
シンは、ゆっくりと自分のいるべき世界へと戻っていった。