こころとかすよる(1)
光が瞬いた。ばちっ、と何かがショートした音がして、火花が舞い落ちる。微かに照らされた壁面に、べったりと擦り付けられた血糊がストロボのように映し出された。
剥きだしのコンクリートの、冷たさしか感じさせない通路だ。照明が灯っていた時でさえ、薄暗くて、無機質で。人の意志をもって、外界の全てを排除した作りになっていた。
足元に気を付けながら歩を進める。ぬちょり、とした嫌な感触が靴底を伝って足裏にまで到達してきた。犠牲者に憐みの念は禁じ得ないが、今は急ぎ確認しなければならないことがある。それに。
ここにいた者であるのならば、この結果は全て因果応報によるものだ。
自分たちが何をしていたのか、知らない者はいなかっただろう。いや、「知らなかった」などと言わせはしない。
人として、超えてはいけない一線がある。たとえそれが真理の探究に繋がるものだとしても。ここでおこなわれていた全ては許されてはいけないものだったのだ。
――今更、何を言うのか。
天羽セイは、口許に自嘲の笑みを浮かべた。
セイがこの惨劇を免れたのは、罪悪感などという自分勝手なセンチメンタルのお陰だ。たとえ今命を落とさずに済んだのだとしても、それでセイの罪が許されるわけではない。
いずれ、相応の罰は下るだろう。そのくらいの覚悟は、とうにできている。
そうでなければ、こんな計画に加担することなどない。
つんと、生臭い匂いが鼻を衝いた。緊急警報を受けてロッジに到着した時から、違和感は覚えていた。人避けの結界が機能を失っている。しかも内部はこの状況だ。宮屋敷の手の者辺りが勘付くのは時間の問題だろう。
通路の一番奥。魔術的な文様の描かれた分厚い扉があった場所には、ぽっかりと穴が開いていた。猛烈な力で、内側から弾き飛ばされたのだ。滅茶苦茶にへしゃげた扉の残骸に、ボロ布と肉塊がこびりついている。せめて即死であってくれれば良いが。いや――
ここで消えていった命のことを思えば、可能な限り痛み、もがき、苦しんでもらったとしてもまだ足りないか。
かつては扉だった大穴をくぐって、セイは部屋の中に足を踏み入れた。空気が重い。元から、ここは気分のいい場所ではなかった。見た目だけは美しく、汚れひとつないぴかぴかの施設。しかしそこには、血と、汗と、汚物がたっぷりと染みついていた。どんなに洗い流そうが、そこにこびりついた想念だけは消し去ることはできない。
儀式のためのホール。学校の体育館くらいの広さの、やはり無機質な空間だった。こつん、という靴音に混じって、ぐじゅ、という不快な音が響く。この部屋が爆心地なら、犠牲者は原型など留めていないだろう。ばちっ。一瞬、光が周囲を照らし出して。
膝を抱えてしゃがみ込む、一人の少女の姿が浮かび上がった。
病的に細い手足。ぼさぼさで、伸ばしたままの長い髪。所々に残った傷跡に、青黒い痣。『どれ』だろうか。しばらく記憶をたどって、それからセイはようやくその少女のことを思い出した。
確か、冬生まれだ。
生気のない、ぐったりとした顔が脳裏に浮かぶ。セイは一度だけ、彼女と対面したことがあった。ロクに言葉も話せない彼女は、セイのことを興味なさげにぼんやりと眺めているだけだった。「こいつは見込みがある」そう言って下卑た笑い声をあげた魔法使いは、多分今床の上に中身をぶちまけているうちの一人だ。
少女に近付こうとすると、すぐに異変が感じられた。空間が歪んでいる。肉眼で確認できるものではないが、明らかに見かけ上の世界が感覚のそれとは乖離していた。
セイは少女に向かって進んでいる。だが、少女との距離は一向に縮まらない。出来の悪いルームランナーの上を歩かされている気分だ。セイは、ふん、と鼻を鳴らした。
「いるんだろう? 出てこいよ、鍵の守護者」
セイの言葉に応えて、少女の前に何者かが立った。純白の肌を持つ、半裸の女性。燃えるような赤い髪が、見えない風に揺られて棚引いている。身にまとっているのは、豹の毛皮。古代エジプトの神官の正装だった。
「お前もまた、これを企てた者の一員か、魔法使い」
地の底から下腹にまで響いてくる、怒りに満ちた声だった。少女を庇うようにして、女はセイの前に立ちはだかった。ギリシャ彫刻を思わせる、美しい肢体がセイの行く手を阻む。その貌には、サファイヤのごとく青く澄んだ双眸が輝いていた。
「そうだな、否定はしない。お前を相手に嘘をついても無駄なのは判っている。だから、正直ベースでちゃんとこっちの話も聞いて欲しい」
女の表情は少しも変化しなかった。だが今この瞬間にセイに命があるということは、向こうには話を聞くつもりがある、ということだろう。
何しろ相手は神だ。無関係な人間一人がどうなったところで、何一つ気に留めはしない。交渉の余地があるのなら、気が変わらないうちに利用させてもらわなければ。
「そいつを――鍵の所持者を助けたい」
これはセイの本心だった。腹に一物ないとは言わない。だが、それを加味した上でも、向こうにとっても悪い話ではないはずだ。何しろ。
「放っておけば、そいつは死ぬぞ。それがそいつの望みなんだからな。お前はそれを認めるのか?」
鍵の守護者は、不愉快極まりないという表情を浮かべた。こんなちっぽけな魔法使いごときに頼らねばならないのだ。面白くなんかないことは想像にたやすい。
しかし、ここで悠長にしている余裕など、お互いにないはずだった。この儀式を執りおこなった頭の悪い連中の仲間にしろ。正義の味方面しているいけすかない連中にしろ。相手が何者であれ、今からここにやってくるどんな魔法使いよりも。
自分の方がはるかにマシである、という自信がセイにはあった。
「・・・やってみよ」
そう言い残して、女は姿を消した。まずは第一関門突破だ。セイはやれやれと肩を落とすと、うずくまっている少女に向かって、再び足を運び始めた。妨害してくる者はもういない。今度は拍子抜けするほどあっさりと、セイはその傍らにまで歩み寄ることができた。
「よう」
セイの声に反応して、少女はピクリと身体を震わせた。近くで見ると、その痛々しさが更に増してくる。少女は、衣服を身に着けていなかった。不健康な、やせ細った身体に、おびただしい数の傷。裂傷に、擦過傷に、打撲。実験の痕だ。この何もない場所に、少女は実に十年以上もの間隔離されていたことになる。
骨の浮き出た小さな背中に触れようと、セイが手を伸ばしたところで。
「お前も――お前も私を、そんな眼でっ!」
不意に、少女がセイの方を振り返った。
落ち窪んだ両目は、真っ赤に充血していた。怒りと、悔しさと、悲しさ。初めて彼女を見た時には、そこには何もなかった。感情も、意志も。生きる気力さえも。
それが今、こうやって激情を爆発させている。
生きている。
どうしてだろう、彼女のそんな様子を見て。セイは、何故かとてもほっとした。
「俺が、何だって?」
セイが問いかけを発する前に、少女は動きを止めていた。そうだ。今、彼女は鍵の力を自由に使えている。虚飾の言葉は必要ない。偽りも、嘘も、何も意味を持たない。
心の底から、思ったままの気持ちを投げかけるだけで良いのだ。
「おめでとう、君は何もないからこそ、手に入れたんだ」
哀れだなんて。
惨めだなんて。
そんなことは、少しも思わない。
ただ、羨ましい。
セイがどんなに望んでも手に入れられなかった、究極の力。
少女は、その一つを手に掴むことができたのだ。
だから――
「いこう。もう君を、奴らの玩具にはさせない」
かけられた言葉と。
差し出された掌を。
自分の中で、ゆっくりと咀嚼して。
それから、少女ははっきりとその想いを口にした。
「お願い、死なせて」
朝日が昇ってしばらくすると、もうあっという間に気温が上昇する。本当なら、陽が出る前に済ませてしまうのが正しいのだろう。それができるのなら、そもそもこんな苦労などしていない。
ひいはあと息を切らして、榊田シンはようやく山道を登り終えた。
ふらふらになりながら、木々の間に建っている社のところまで歩いていく。新しく交換された賽銭箱の前まで来ると、どっかりと地面に腰を下ろして天を仰いだ。
「キクリ、様、おはようござい、ます」
「うむ、よくきたな魔法使いよ。精が出ることだ」
シンの顔を、麻の着物姿のまだ幼さの残る少女が覗き込んだ。この社に祀られている神性、キクリヒメノミコト――裏山の神様キクリだ。
「おはよう、榊田君。今日はまあまあ、早かったんじゃない?」
社の陰から、緑の、正直ダサいジャージの上下を着た教育二年、橘ユイが顔を出した。その表情は涼しげで、汗など少しもかいていない。栗色の肩までの柔らかい髪に、清楚で優しいお嬢様。そんな雰囲気なのに、シンよりも圧倒的に早起きして、猛スピードでこの裏山に登って。キクリの社の周りの清掃まで済ませているのだ。正直、シンには全く敵う気がしなかった。
シンがいるのは大学の裏山、ほとんど人のこないハイキングコースを登りきったところにある古い社だ。尖央大学の魔法研究会では、ここに住まうキクリの存在を支えるため、余裕を見てはお参りをする習慣となっていた。
夏休みの間も、ゼミだ何だで大学を訪れる機会というのはそれなりにはあるのだが。シンの場合はまだ一年生ということもあり、何かしら用事を作らなければ大学まで足を運ぶことはあまりなかった。
ずっとバイト三昧の生活でも、シンとしてはそれはそれで構わなかった。むしろ、せっかくなのでもう一つくらいバイトを増やしてみようか、などと計画していたくらいだ。
しかし、その考えを改めさせる要因が、夏休みの最初の方で起きてしまっていた。
ここ最近の出来事の発端といえば、そのほとんどは、魔法研究会部長、心理四年の宮屋敷コトハだった。通称、魔女先輩。本人はそう呼ばれると、ちょっと微妙な顔をする。
なんだかんだの紆余曲折と。シンのどうしようもない失敗に、コトハの優しさ。それから、二人の間に存在する、輝かしい未来の可能性・・・
その辺りが複雑に絡み合った結果、シンとコトハはこの夏休みから男女交際を始めることになっていた。
コトハは美人だし、スタイルも良い。年上で、ちょっと生意気で。面倒臭がりで、朝は一人では起きれなくて。それでいて料理だけは上手で、なにかとシンのことを気にかけてくれる。
そんなコトハは、現在卒業研究の真っ只中だった。毎日のように大学にやってきては、何やらばたばたと動き回っている。ゼミ担当であり、魔法研究会の顧問でもある佐次本准教授によると、「まあ、順当だな」とのことだった。
「順当」にどういうことなのか。その言葉の意味するところは、シンには今一つピンとこなかった。ただ、コトハが大変そうだ、ということだけは良く伝わってきた。まがりなりにも彼氏なのだし、一応訊いておいた方が良いかと、シンはコトハに尋ねてみた。
「何かお手伝いできることはありますか?」
結果、このような事態となっていた。いや、山登りはオマケだ。これは自主的に、もう少し逞しくなっていた方が良いだろうと、シンが自分で判断してやっていることだ。筋金入りの本の虫のシンは、周囲からちょっと心配されるくらいの痩せ形だった。せめて、人並みぐらいの体力は付けておいた方が良い。そのくらいの自覚はあったので、春先に購入したトレーニングウェアは、素晴らしく活用させてもらっていた。
コトハは、シンに対して特に何かを要求してきたわけではない。シンは国文専攻、コトハは心理専攻と違う学科で、しかも一年生のシンに手伝えることなどは限られている。シンの申し出にしばらく唸って悩んだ後で、コトハは困ったように笑って、こう応えた。
「たまに榊田君が顔を見せてくれれば、それでいいよ。無理は言わないからさ」
ならば、コトハの近くにいられるようにしよう。バイト先のゲームショップが開くまでの朝の時間、シンは大学の裏山に登り、その後はユイと共に部室で一休みすることにした。コトハが部室に顔を出してくれれば、二言三言くらいは会話をすることができる。それができなくても、身体を鍛えること自体は無駄にはならないはずだ。
「榊田君も、真面目だねぇ」
「まあ、若いうちは体力が大事だからな。お主はあのぐうたらの分まで身体を動かせばよい」
キクリとユイは、息を切らしているシンを見下ろして、明るく談笑していた。
ユイは実家が神社の面倒を見ている関係で、キクリの社にもついでとばかりにしょっちゅう訪れている。むしろ、いない日の方が珍しい。シンがクタクタになって社まで登ってくると、いつもケロリとした顔でそこにいて、何事もなく挨拶してきた。まるでそこに住んでます、とでも言いたげだった。
シンが顔を上げると、シキがじっと見つめてきていた。コトハのために頑張っているところだ。そう思って微笑みかけると、シキもにっこりと笑みを返してきた。
真っ白いワンピースを着た、まだ幼い女の子。長い黒髪と、整った顔立ちはコトハによく似ている。シキは、今ではない未来に、コトハとシンの間に産まれてくることになる娘の魂だ。自分が産まれてくる未来を確定的にするために、因果律を越えてシンの下にまでやってきたという。
そのコトハと出会うきっかけが、そもそもシキの存在なわけで。こうなってくると、タマゴが先か、ニワトリが先か、という気すらしてくる。コトハに言わせれば、因果は必ずしも時間軸に沿っている必要はない、とのことだった。それは冷静に考えてみると、もう何でもありということなのではなかろうか。
まあそうは言っても。
シンは、シキのことは好きだし。コトハのことも、人並み以上には好きだと思い始めている。今ここで、こんなことをしているのもコトハのためだ。大変だけど楽しい、なんて考えてしまうようでは。
もうすっかり、魔女先輩の虜ということなのだろう。
「そうそう、榊田君。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
スポーツドリンクで水分を補給して、ようやく落ち着いてきたところのシンに向かって、ユイが手を合わせてきた。
ユイのお願いは、実のところロクなことがない。この裏山を最初に登ったのも、ユイのお願いを聞いてのことだった。可憐で、箸より重いものなど持ったことがないみたいな外見をしておきながら。ユイの中身は物凄い体育会系だ。油断がならない。
「いいですよ、今度は海ですか? 川ですか?」
それが判っていたのだとしても、後輩としては聞かないわけにはいかないだろう。美人の頼みとなればなおさらだ。シキが少しムッとしたようだったが、このくらいで壊れるような関係なら最初から脈などない。シンはコトハの彼氏であって、奴隷ではないのだ。一人の男として、女性に頼られるのは悪くない。
「うーん、川、になるのかなぁ」
天然なのか何なのか、ユイはさらりとそう口にした。かかっ、とキクリが愉快そうな笑い声をあげて。
シンは、がっくりとうなだれた。




