はんぶんのきもち(4)
シンは久しぶりに昔の夢を見た。
真っ暗なベランダに、一人で立っている。夜風が冷たい。吐く息が白くて、呼吸の度に視界がぼやける。
見上げると、星空が広がっていた。冬の空気は張りつめていて、遠くの光をシンの目まで真っ直ぐに届けてくれる。そのことを教えてくれたのは、確か父であったと思う。
後ろから、笑い声が聞こえた気がした。サッシの下、カーテンの隙間から、オレンジ色の灯りが漏れている。そこにはきっと、優しくて暖かい空気がある。シンは自分の二の腕を抱くと、視線を夜の空に戻した。
ここは寒くて、凍えてしまいそうだけど。
あそこは、シンの居場所ではない。
シンがいることで、壊れてしまうものがあるなら。シンがいない方がうまく回ることがあるのなら。
一人で良い。
ここじゃない場所に、早く出ていきたいと思う。そこにはきっと、シンだけの場所がある。
シンを愛してくれる人がいる。
シンの愛せる人がいる。
目を覚ますと、シキがシンの顔を覗き込んでいた。
朝の光に包まれて、やかましいほどのスズメのさえずりの洪水の中で、シキはシンの頬に触れていた。シキの手は、冷たくも熱くもない。擬似的な接触。コトハはそう説明していた。
それでも、シンには不思議とシキが柔らかくて、温かいと感じられた。
シキは、シンの娘だ。いつか産まれてくる、自分の子供。自分が父親になるという証。
「シキ」
シンが名前を呼ぶと、シキはにっこりと笑った。シキにはどの程度のことが判っているのだろう。シンはシキに微笑み返した。
「おはよう」
シンは一人ではない。いや。
いつかは、一人ではなくなる。シキは、シンにそのことを伝えてくれた。それだけでも、シンにとってシキの存在は、とても嬉しいものだった。
週末の午後、シンのアパートの前まで軽ワゴン車が迎えにきた。くたびれた白い車体には、『富岡酒店』と書かれている。スライドドアを開けて後部座席に乗り込むと、コトハがぐったりと伸びていた。
「おはようございます」
「うーっす、シンちゃん。おはようさん」
運転席から、威勢の良い声がした。経済三年、魔法研究会の部員で会計担当の富岡ヒロエだった。もじゃもじゃの天然パーマに、銀縁の眼鏡。体格ががっしりとしていて、初対面だと男性に間違われることもしばしばある。気風の良い姉御肌という感じだ。
ヒロエは野球帽に濃いグリーンのスタジアムジャンパーという恰好だった。まるで、これから草野球の試合に出かける、とでも言い出しかねない雰囲気だ。
「おはよう、榊田君」
助手席にはユイが座っていた。
「あれ、丸川先輩は?」
ヒロエの車で移動する際、助手席は教育三年、魔法研究会の副会長、丸川アユムの指定席だった。そこにユイがいるということが、シンには珍しいことに思えた。
「アユムは今日は補修だよ。あいつ、鉄棒苦手だからさ」
ヒロエは意地が悪そうにイヒヒ、と笑った。
「丸川先輩は小学校教諭の教職課程を取っているから、色々と大変なのよ」
ユイが補足してくれた。小学校の先生は、低学年までは専科の講師に頼らず担任が全ての授業を行わなければいけない。美術では絵を描くし、音楽ではピアノなどの楽器を演奏するし、体育では鉄棒にマット運動、水泳までこなす必要がある。
アユムには、確かに運動が得意そうなイメージがない。どうしても逆上がりができないので、今日はできるようになるまで特訓させられているということだった。
「そう考えると、学校の先生って大変ですね」
「そりゃ『先生』だからな。なんでもできてくれなきゃ困るってもんだ」
後部座席に腰を下ろすと、シンはスライドドアを閉じた。ばん、という音と共に、横にいるコトハがびくん、と痙攣した。
「・・・で、宮屋敷先輩はどうしてこうなってるんです?」
放っておこうかとも思ったのだが、後輩という立場上、シンは一応訊いてみた。ヒロエとユイはやれやれとでも言いたげに目線をからませた。
「そこの低血圧はまだ目が覚めないんだと。ちょっと旦那様から目覚めのキスでもくれてやってくれ」
「旦那様って、まだ決まった未来じゃないですよ」
「決まったようなものだろう」
ヒロエは、ははっ、と笑った。
「シキちゃんって、いつもシンちゃんの傍にいるんだろう? 仮にそこの魔女先輩以外の女とデートとかしててもさ、ずーっとシキちゃんが視界の隅をチラチラしていることになるわけだ。その状態で他の女とそういう雰囲気になんかなれると思うか?」
確かにその通りだ。シンがこの先誰か女の子と付き合うことになったとして、そこには常にシキが同行していることになる。誰と一緒にいたとしても、コトハとの娘であるシキの監視付きとなってしまっては、進展するものも進展しなくなってしまうだろう。
「大方魔女先輩が未来から寄越してきたお目付け役なんじゃないのか? だとしたらもう旦那様として美味しくいただいちゃっても誰も文句は言わないだろう」
「富岡先輩、それは言い過ぎです」
ユイに突っ込まれても、ヒロエはまったく悪びれる様子はなかった。
「・・・ちょっと待て、それには一つ前提条件があるだろう」
流石に聞き捨てならなかったのか、コトハが目を開けてゆっくりと身体を起こした。せっかくの綺麗な黒髪はばさばさで、眼鏡は半分ずり落ちている。こんな状態で、朝食とか昼食はどうしたのだろうか。コトハは、確か実家暮らしではないとシンは聞いていた。
「私がシキにそこまでさせて榊田君をキープしておこうとするからには、私が榊田君のことに大変固執している、という条件が必要になるはずだ」
「してないんすか?」
むう、とコトハは考え込み、それからシンの方を向いた。ずれた眼鏡を直して、じっと見つめてくる。動揺を隠すように、シンはその眼を正面から見つめ返した。
「・・・そうだな、今のところは、ないな」
にやり、と怪しげな笑みを浮かべて。続けて、コトハはふわぁ、と大きなあくびをした。
「少なくとも、榊田君の自由意志を奪ってまでものにしたい、という考えはないよ。私は恋人を束縛するタイプではないと思う」
「魔女っぽくないっすね」
「魔女じゃないからな」
がん、とコトハは運転席の後ろを蹴飛ばした。
「そもそも『魔女先輩』という不名誉極まりない呼び方を広めたのは、ヒロエ、君だろう?」
「とんでもない。あたしはフツーに先輩のことを『魔女先輩』と呼んでいただけでさあ」
見た目の特徴と中身の特性を的確に捉えた、見事なあだ名ではあると思う。シンも、心の中ではよく『魔女先輩』と呼んでいる。心象世界では自分から魔女っぽい三角帽子までかぶっておいて、不名誉とはどの口が言うのか。
「じゃあ二つ名で呼びますか? あっちもそうとう恥ずかしいでしょう」
「あ、俺、宮屋敷先輩の二つ名知りません」
じろり、とコトハはシンのことを睨みつけてきた。今まで、シンは事あるごとにコトハの魔法使いとしての二つ名を聞き出そうとしていたのだが、誰も教えてはくれなかった。恐れを知らないヒロエなら、あっさりと口を滑らせてくれそうだ。
「榊田君、魔法使いの二つ名はその本質を表すもので、そう易々《やすやす》と口にしていいものじゃないんだ」
「ケチ臭いこと言わないでくださいよ、『現原々理』」
ぶは、とシンは噴き出した。コトハの顔がみるみるうちに赤くなる。
「『現理』だ! 『現存する原初よりの原理』! そんなダサい略し方をするな!」
「人にはダッサい二つ名を付けておいて、何を文句言ってるんですか」
「黙れ、『つらたん』!」
ヒロエの二つ名は『貫きたがえぬ信念』、略して『つらたん』。シンと同じく、コトハから与えられた二つ名だ。新入部員歓迎会の時に、「略さなきゃかっこいいのに」とヒロエがぶつぶつ言っていたのをシンは思い出した。
「いい加減にしてください。もう出発しましょう」
呆れを通り越してげんなりとした顔で、ユイが二人の言い争いを制した。
「はぁーい、わかりましたよ『おせっかい』」
ヒロエの返事に、今度はユイが目を細めた。
ユイの二つ名は『大いなる世界の善意』、略して『おせっかい』だ。性格を良く表していて、言い得て妙だとは思うのだが。
二つ名は、どうも争いしか生まない。やはり軽々しく口にしない方が吉なのだろうとシンは悟った。
懐中時計の出所はすぐに知れた。キョウスケが仕入れ元のリサイクルショップに問い合わせたところ、児童館でおこなわれたバザーの売れ残り品ということだった。
バザーを担当していた児童館職員との連絡も事前に付けてあって、今日は懐中時計を持っていって、直接話をうかがう手はずになっていた。
「落窪市の、ここの児童館だな」
後部座席から身を乗り出して、コトハがタブレットの地図アプリで場所を示した。
「げぇー、結構遠いじゃないですか。ガソリン代、部費で落としますよ?」
ヒロエは魔法研究会の会計だ。そうでなくても、自分で使った雑費の数々を部費で計上している。毎年魔法研究会から、富岡酒店の領収書が大量に提出されることになっている理由は、推して知るべしだった。
「まあ、ついでだからな」
「ついで?」
「せっかくの縁だし、今度マジックショーの公演をやらせてもらえないか、お願いしてみるつもりだ」
児童館でのマジックショーは、魔法研究会の表向きの活動の主たるものだ。他の児童教育系のサークルとも協力して、人形劇やらバザーやらとの総合イベントを開催する。地域の児童館と顔を繋いでおくことは、重要なことだった。
「だから部活動扱いだ。ガソリン代は部費から落としてくれて構わんよ」
ラッキー、とヒロエは機嫌よくエンジンをスタートさせた。
良く晴れた春の日の午後に、軽ワゴンが軽快にバイパス道路を飛ばしていく。知らない間に、シキがシンとコトハの間に腰かけて、窓の外に目を向けていた。
「お、シキちゃん登場。そうやってるともう普通に家族じゃないですか」
ちらり、と後部座席の方を一瞥して、ヒロエが愉快そうに口笛を鳴らした。
「そういえば、どうして榊田君のところなんでしょうね?」
タブレットを持ってナビを担当しているユイが首をかしげた。
「産むのは宮屋敷先輩なんでしょうし、そっちに出てもおかしくないような」
ユイの疑問は当然のものかもしれない。シンは気になってシキの顔を見たが、きょとんとしているばかりだった。やはり、細かい意思の疎通はできそうにない。
「そりゃやっぱ、送り込んできたのが魔女先輩だからでしょう」
「その可能性は否定しないけどね」
はぁ、とコトハは呆れ顔をした。もうその話題は懲り懲りなのだろう。
「私の見立てでは、シキは自分の意志で榊田君を選んでいるように思う。発生の引き金も、榊田君がこっちに引っ越してきたことが要因だ。シキの因果は、榊田君の側に結びついているんだよ」
シキが最初に現れたのは、シンの部屋だった。それからずっとシンに付き従っている。コトハと巡り合った後も、シンの近くから離れることはなかった。シンとコトハの二人の結果であるはずなのに、シキはシンの傍にしかいようとしない。
「そりゃすごい。お父さんモテモテだ。パンツ一緒に洗わないでー、とか言われなくて良かった」
「いや、そんな娘ならそもそもお父さんのところには出てこないだろう」
それ以前に、産まれる前の娘が親の元を訪れることの方があり得ない。
「榊田君には、もうそれとなく理由が判っているのかもしれないね」
コトハの言う通りだった。
シンには、シキが何故ここにいるのか、見当が付き始めていた。
それは他でもない、シン自身が、シキがいることを望んでいるからだ。
シンが、一人ではないことの証明。誰かを愛し、愛されることの可能性。
シキは、シンのためにシンの横にいてくれている。大丈夫だと、支えてくれているのだ。
その相手がコトハだというのは、まだ今一つ実感が持てなかったが。
シキの姿を見ていると、シンはそれだけで心が安らぐ気がした。
「ま、いいんじゃないの? 幸せそうでさ」
ヒロエはそれ以上は詮索しようとはしなかった。コトハにはやたらと突っかかるが、後輩相手には優しい先輩だ。若干口が悪いのと、酒を飲むと騒ぐのと、後は。
「一服して良いっすか?」
喫煙者なのが玉にキズだった。
「シキちゃんがいるんだから遠慮してください」
ユイがぴしゃりとノーを突きつけた。
「ええー、シキちゃんって幽体でしょ? 副流煙とか関係ないじゃん」
「煙草の煙を嫌うモノって多いんですよ。何かあったら困るじゃないですか」
「審神者は言うことが違うな」
くつくつとコトハは笑った。ユイの実家は、代々小さな稲荷神社の世話をしてきている一族だ。魔法研究会に入る前から見えないものを見る力を持っていたユイは、その神社の祭神に力の手ほどきを受けていたことがある。神と対話をする者、すなわち審神者だった。
「くそう、おせっかいめ」
「はいはい、つらたんつらたん」
出しかけた煙草の箱をポケットに押し戻すと、ヒロエはぐいとアクセルを踏み込んだ。
「うわぁ」
ぶおん、とエンジンが唸りを上げる。加速の衝撃で、シンはシートに押し付けられた。
「精神安定剤なしなんで、ちょっと飛ばしますよ」
「事故らない程度で頼むよ。あと警察沙汰は御免だ。佐次本先生に迷惑がかかる」
慌ててシートベルトを締めようとしたシンの姿を見て、シキがきゃっきゃと無邪気に喜んでいた。