やわらかなのろい(4)
土曜日、シンはミズカと待ち合わせてショッピングモールまでやってきた。夜からは花火大会ということもあって、街はどこにいっても人で溢れ返っていた。そんな中、シンは先日のお詫びということで、午後いっぱい荷物持ちでもなんでもする覚悟でいたのだが。
「こんにちは、榊田君」
やってきたミズカは、ガーリィなブラウスに、ふんわりとしたミニのフレアスカートという出で立ちだった。明るい髪の上には、赤いギンガムチェックのハンチングが乗っている。大学ではあまり見ない感じの、有体に言ってしまえば可愛いらしい服装だった。
「こんにちは、川原木さん。今日は、その、この前のお詫びということで」
口から出る言葉も、どうにもぎこちなくなってしまう。シンの大学のクラスには、明確な階級のようなものは存在していない。しかし、暗黙の内に立ち位置というものは決まってくるものだ。ロクに他人とつながりを持とうとしないシンなどは、当然底辺に近い下位に属していた。
それに対してミズカは、完全に頂点の一握りの部類だ。本来ならば、シンが直接話をすること自体がおこがましい。ミズカと並んで立っているだけで、場違い感が増してくるというか。大体、いつものTシャツにデニムというラフな格好では、失礼にあたるのではなかろうか。シンの中をネガティブな思考が駆け巡って、くらくらと眩暈がしてきそうだった。
「どうしたの、榊田君? ひょっとして緊張してる?」
「まあ、正直してます。とりあえず何でも言いつけてください。俺は何をすれば良いですか?」
開き直って、召使いにでもなった気分になるしかない。覚悟を決めると、シンはぴしっと背筋を伸ばした。あれやこれやと言われるのは、普段からコトハへの対応で慣れている。ミズカなら、あそこまでのわがままを発揮することはないだろう。
「そんなに固くならないで」
さりげなくシンの横に立つと。
ミズカは、そっと手を握ってきた。
「せっかくのデートなんだから」
「でっ? えっ?」
驚いて目を白黒させるシンの様子に、ミズカはくすくすと笑みをこぼした。
「男と女が二人でお出かけすれば、デートでしょう?」
状況についていけず、完全にパニックに陥ったシンの手を引っ張ると。
「さ、時間がもったいないから、いきましょう」
ミズカはさっさと歩き始めた。
目の前で起きている問題は、シンのキャパシティを完全にオーバーしていた。
まずその一。そもそもシンは女子とデートというものをしたことがない。ミズカが言うには、男と女が二人で外出すればデートらしい。だとすると、以前大学の裏山にユイと一緒に登ったことがあった。猫のサキチはノーカウントだろうか。ユイの方にはその意志はなかったようだし、あれはやはり『なし』だろう。となれば、これが初めてのデートということになる。
そのニ。デートの相手が、川原木ミズカである。デートの対象として考えた場合、ミズカは合格点・・・というかこれ以上を望む意味が判らないほどのハイスペックだ。美人だし、可愛い。横にいて釣り合いが取れるかと問われれば、シンは間髪入れずに「ノー」と答える自信があった。大体なんでミズカは、シンとデートをするなどと言いだしたのか。解せぬ。
考えれば考えるほど、思考の泥沼にずぶずぶとハマっていくのだが。
現実の方はおかまいなしだった。ミズカはシンと手をつないで、モールの雑貨屋の軒先を眺めて歩いていた。夢か、そうでなければ罠に違いない。悪質なドッキリが仕掛けられていて、ミズカは仕方なくそれに従わされているのか。その方がいっそスッキリする。誰か知ってる顔が飛び出してきて、シンに向かってあるべき現実というヤツを突きつけてもらいたい。喜んで受け入れる所存だ。
「榊田君、上の空だったりする?」
突然ミズカに問いかけられて、シンはびくっと身体を震わせた。
「ごめん、その、何が起きているのか理解し切れてない」
そろそろ種明かしをしてほしい。魔法研究会のマジックショーなら、後半は手品教室だ。どんなにびっくりするような出来事でも、仕組みを知ってしまえばなんてことはない。人間はみんな、過程が明らかではない事象に対して恐れを抱く。『隠された』とは、原因と結果をつなぐプロセスが見えないことを示す言葉だと、確かコトハが説明していた。
コトハの名前が脳裏に浮かんで、シンははっとしてミズカの掌の感触に思い至った。ミズカの手は、細くて滑らかだが、それでもコトハのものとは違う。コトハに手を握られた時、シンはそこから暖かい何かが通うのを感じた。
ミズカには、それがない。どうしてだろう。じっと見下ろしているシンの視線に気が付いて、ミズカはぱっと手を離した。
「ええっと、迷惑だった?」
「そうじゃないんだけど・・・」
全ての物事には理由がある。こうしてミズカがシンとデートなどをしているのは、やはりシンにはとても不自然に感じられた。
「うん、ごめん。説明が欲しいかも。川原木さんがどういうつもりなのか。それが判らないと、安心できそうにない」
申し訳なさそうに宣言したシンをじっと見つめてから。
「判った。じゃあ、お茶にしましょう」
ミズカはにっこりと微笑んだ。
フードコートの隅っこ、壁際であまり人気のなさそうな小さな席が、丁度空いていた。冷たいハーブティーがあるということで、シンはそれを二つ購入し、ミズカの前に置いた。お詫びなのだから、それぐらいは普通にご馳走するべきだろう。ミズカの方も、すんなりとその申し出を受け入れた。
こういう奢りにも慣れていそうだ。偏見かもしれないが、シンはついそう考えてしまった。
「さて、何から話そうか」
ミズカの声は、どこかはしゃいでいるみたいだった。ジャスミンティーをストローで撹拌する。氷同士がぶつかって、カラン、と涼しげな音を立てた。
「・・・やっぱり、高校の話かな」
リップでうっすらと光沢をもった唇が開かれて。
ミズカの物語が、静かに語られ始めた。
ミズカが高校に入って、最初に出来た友達がリサコだった。リサコは目立たないし、物静かで大人しくて、あまり人前に出ていくようなタイプではなかった。それでも心根は優しくて、ミズカはリサコのことが好きだった。
時間が経つにつれて、ミズカはクラスや部活に多くの友人ができるようになった。人付き合いが苦手で、奥手なところがあるリサコは、相変わらず孤立していることが多かった。ミズカはリサコと仲の良い友人のままでいようとも思ったが、次第に距離を置くようになってしまった。
「私ね、臆病だったの」
リサコ以外の友人と付き合うようになると、色々なことを言われるようになった。リサコは暗くて、何を考えているのか判らない。リサコと一緒にいると、ミズカまでそう思われる。ずるずると引きずられるようにして、ミズカはリサコとの接点を減らしていってしまった。
リサコは、本当はそんな子じゃない。確かに口数は少ないし、一人でいることは多い。見た目も派手ではないし、自分からはどこかの輪に入ろうとはしてこないかもしれない。
ミズカは一度、リサコに強く言い聞かせたことがあった。もっとみんなに話しかけて、友達を作ろうとした方が良い。判ってもらおうとしないと、いつまでもこのままだ。
その言葉を聞いても、リサコは困ったように微笑んだだけだった。
「ミズカちゃんが友達でいてくれれば、私はそれでいいから」
友達。
その言葉が、とても重いもののように感じられて。
「私は、リサコの手を離してしまった」
リサコがいじめに遭っている。
その噂は、すぐにミズカの耳にも入ってきた。高校生にもなっていじめとか、実に幼稚だ。リサコのことが心配ではあったが、これで少しは懲りるだろうと。
ミズカは、自分のすぐ近くで起きているいじめに関して、目を瞑って口を閉ざしてしまった。
「私が、リサコの味方になってあげれば良かったんだけどね」
陰湿で、見つからないようないじめがいつまでも続いた。学校の中でたった一人のリサコには、頼れる相手が誰もいなかった。唯一の友達はミズカだ。ミズカがリサコを庇って、「こんなことはやめようよ」とだけ言えば。
意味のない嫌がらせなんて、すぐに収まったのかもしれなかった。
「後になって思えば、リサコは何度も私にSOSを発してた」
教室で、廊下で、昇降口で。
何かを言いたげにしているリサコを、ミズカは幾度となく目撃していた。そしてその度に、無視してやりすごしていた。
一度離してしまった手を。
どうやって、また差し出せば良いのか。
どんな顔で、リサコの言葉を聞けば良いのか。
「私は、リサコを見捨てたんだ」
不器用なリサコが、最後の力を振り絞って書いた、たった一行だけの手紙。
それを残して、リサコは学校からいなくなってしまった。
「リサコの家は、引っ越していて、誰もいなかった。リサコは私の前から、完全にいなくなってしまった」
リサコの連絡先は、誰も知らなかった。
いじめが自主退学の原因であることを把握している学校は、リサコの転居先を生徒に教えてくれることはなかった。
胸の中に、ぽっかりと穴が開いたまま。
ミズカは、沢山の『友達』と共に取り残された。
「榊田君、今から私は、とても失礼なことを言います」
姿勢を正すと、ミズカは真剣な目でシンと真っ直ぐに向き合った。数秒だけ沈黙して。
それから、寂しそうに口元を緩めた。
「榊田君は、リサコと同じ感じがしたの」
一人ぼっちで。
そうしていることが、さも当たり前のようで。
それなのに、見えないような助けを求めている。
どうしようもなく寂しがりなのに。
誰にも声をかけられない。
「入学説明会の時とかも、榊田君は小さくなって、目立たないようにしているのに・・・でも、すごく寂しそうだった。内部生の子が楽しそうにおしゃべりしているのを、じっと見てたりしたから」
言われてみれば、そんなこともあったかもしれない。シンはぼりぼりと頭を掻いた。
尖央大学に入ってすぐの頃は、一人きりでいるのが普通だった。正確には、その前からもずっとそうだ。再婚した両親と、父親が違う妹。家族の中で居場所を失くして、シンはいつも一人だった。
自分がいなくなれば、全ては丸く収まる。そう思って実家を飛び出して。結果として、シンは何もかもを捨ててしまった。自らの手に収まるものなんて、何もないと諦めていた。
「それがびっくり。榊田君、ここ数ヶ月で随分変わったよね」
「そうかな?」
シン自身には、何の自覚もない。実家との関係は相変わらずだ。母親は何かと連絡を取ろうとしてくるが、シンの方はあまり近付きすぎないようにしている。夏休み中にも、帰省する予定など一切ない。
どういうことかと思いを巡らせ始めたところで、にゅう、とテーブルの横からシキが顔を出した。
ああ、そうか。
大学に入って、新入生向けの部活勧誘合戦がおこなわれた際に。
シンは、魔法研究会に入ったのだ。
「もう暗くて、今にも泣き出しそうで、毎日一人で黙々と講義を受けている榊田君が、外部生のみんなと一緒にコンパなんか出ちゃって、女の子の家に転がり込んで泊っちゃうくらいになったんだよ?」
「えーっと、ごめん。ほんとにごめん」
前半の言われようは相当にひどいものだが。後半に関しては言い逃れのしようがない。謹んでお詫び申し上げる以外に、道はないだろう。
ぺこん、と頭を下げたシンを見て。
ミズカはほんの少し目を細めてから。
ゆっくりとうつむいた。
「榊田君が変わった理由は、判っているつもりなんだ・・・」
グラスの中で、氷が半分以上溶けている。薄くなったジャスミンティーの中で、陽炎が踊っていた。
「中学の時、担任の先生がね、こんなこと言ってたの」
下を向いたまま、ミズカは一つ一つの言葉を噛みしめるようにして話を続けた。
「人生から後悔をなくすことはできない。ただ、振り返って、それで良かったんだって思える後悔をしなさいって」
ミズカは、リサコを助けることができなかった。それは大きな後悔だ。
しかし、仮にミズカがリサコの味方になったとしても、結果は変わらなかったかもしれない。リサコを助けられなかったという後悔が残ることに、違いはなかったかもしれない。
ただ、決定的に変わるのは、後悔の『重さ』だ。
その時やれること、それを全て出し切った上で、なお残った後悔であるのなら。それは、仕方なかったと諦めることができる。
ミズカが悔いているのは、リサコを助けられる可能性を放置してしまったことだ。
ミズカには、まだやれることがあったはずのなのに、それを理解していたはずなのに。
ミズカは、自分の意志でそれをしなかった。それが、後悔の重さを増していた。
「だから、私、言わないで後悔することだけは、もうしないようにしているの」
ミズカが顔を上げた。眼に込められた覚悟が違う。シンは思わず座ったまま気を付けした。
「榊田君が変わった理由の見当はついている。その上で、こういうことを言えば榊田君を困らせることになるのも判ってる。でも、私は二度とあんな後悔はしたくないの」
がやがやという、フードコートの喧騒が聴覚から消えて。
あんぐりと口を開けて驚くシキの顔が視界から消えて。
シンの目の前には、ミズカだけがいた。
真正面からシンのことを見つめて。
たとえここで砕けてしまっても、それで良いと。
全力でぶつかってくるミズカの言葉を。
シンは、黙って受け止めた。
「好きです、榊田君。春からずっと、貴方のことを見てきました。私とお付き合いしてくれませんか?」




