やわらかなのろい(3)
「うへぇ、移動が面倒臭い」
一時間もすると、コトハは部室に帰ってきた。暑い中走ったせいか、じっとりと汗をかいている。湿ったブラウスに、うっすらと下着の線が透けて見えて。シンは意味もなく咳払いした。
「仕方ないじゃないですか、佐次本先生に会うためなんですから」
佐次本キョウスケは魔法研究会の顧問で、コトハのゼミ担当の准教授だ。自身も魔法使いであり、コトハの家で修業を積んでいたこともある。その当時から、コトハはキョウスケに好意を寄せていた。
「榊田君はいけずだ。佐次本先生も私の気持ちを知ってて、奥さんとお子さんとそろって遊園地にいった話なんかをするんだ」
「いや、それは普通に一家団欒の話をされただけですよね?」
キョウスケは、コトハが出会った頃にはもう既婚者であった。今では小学生になる子供もいる。キョウスケにとってコトハは、世話になった恩人の娘以外の何者でもない、ということだった。
「最近ちっとも部室に顔を出してくれないと思ったら、佐次本先生との関係をツッコんでくるとか。榊田君は冷たい」
ユイから受け取った麦茶をぐいっと呷ると、コトハはソファの上に仰向けに身体を投げ出した。ぼすん、と音を立てて、色々な部位が揺れまくる。
「はぁー、生き返るわぁー」
ソファには、この夏を涼しく過ごすための知恵――冷感パッドが敷かれていた。そのまま眠ってしまいそうな勢いで、コトハはうっとりと目を閉じた。
「榊田君、あんまり宮屋敷先輩をいじめちゃダメだよ?」
「はぁ」
二人のやり取りを見かねて、ユイがシンの脇を軽く突っついてきた。
「宮屋敷先輩は、榊田君に会いたいから、この炎天下の中を急いで部室まで戻ってきたんだから」
そうなのだろうか。シンがコトハの様子をうかがうと、ちら、と薄目を開けていた。なんとも面倒臭い。シンは丸椅子から立つと、コトハのすぐ近くまで歩み寄った。
「宮屋敷先輩、久しぶりに顔が見れて嬉しいです。佐次本先生の代わりに、俺が一緒にいますよ」
シンの言葉を聞いて、コトハはむくりと起き上がった。真顔で、じっとシンのことを見つめる。眼鏡のレンズの向こうにいるコトハは、いつになく真剣な面持ちだった。
「榊田君は榊田君だ。佐次本先生とは違う。代わりとか、そういうことではないんだ」
コトハの腕が持ち上がって、シンの頬に白魚のような指が触れた。くすぐったくて、心地よい。ふっ、とコトハの相好が崩れて。
「私も会いたかったよ、榊田君。恋しいという感覚はちょっとつらいけど・・・不思議と心が躍る気もする。今はとても嬉しい」
優しい声がこぼれ出た。
すっかり上機嫌になったコトハは、シンを自分の隣に座らせた。冷感パッドの効果は抜群だった。こんなに便利なモノなら、エアコンに頼るよりもずっと経済的かもしれない。シンは真面目に購入を検討することにした。
「寝っころがるとまた快適なんだ。榊田君、一緒に横になってみないか?」
「ダメ、ダメです宮屋敷先輩!」
ユイが慌ててそれを制した。
「暑いからドア開けっぱなしなんです。文化会本部にバレると相当マズいんで」
確かに、部室で男女が並んで横になっている姿を目撃されるのは大事だろう。コトハは、以前にも似たようなことをやらかしている前科者だ。男に飢えた魔女。そんな不名誉な噂が立ってしまっては、目も当てられない。
「膝枕だけでもかなりアレなんです。自重しましょう」
「自重ねぇ」
コトハは腕を組んだ。その上に豊かな胸が乗っている。この薄着の眩しい季節の間、シンの方にもかなりの自制心が要求されそうだった。
「榊田君が青春をスパークさせない限り、大丈夫だとは思うけど」
「いや、そこはあんまり俺を信用しすぎないでください」
草食系だなんだと言われてはいるが、シンも普通に男だ。今もすぐ近くにコトハの大きい胸があって、興奮しないわけではない。二人きりになって、コトハの方が少しでも乗り気だというのなら。衝動を抑える理由が一切なくなってしまう。何しろ、二人の間には子供ができるという未来まで見えてしまっているのだ。
「そうだ、シキ」
部室の中を見回すと、シキはシンと反対側、コトハの隣に腰かけていた。
「ありゃ、今日は宮屋敷先輩の方に懐いてますね」
「そういう気分の時もあるんだろう」
シキは言葉を発することができない。シンはほっと胸を撫で下ろした。話す必要のないことなら、話さないで済むのが一番望ましい。そんなシンの考えを読んだのか、シキはぷぅ、と頬を膨らませた。
「珍しい反応ですね」
「榊田君、シキと喧嘩でもしたのか? 私的にはシキがこんな表情を見せるようになったのは面白いし、興味深いからそれでも全然構わないのだが・・・親子なんだから仲良くしてやってくれよ?」
「あ、はい」
まるで浮気がばれそうになった父親だった。いや、実際それに近いのか。だが、シンの身は潔白だ。その証拠に、シキはしっかりとそこに存在している。
それに、シンにとってコトハは、もう十分に特別な存在だ。多分ではあるが、コトハは他の誰よりも大切な人になりつつある。
こうしてコトハと共にいる時間を、シンはとても愛しいと思い始めていた。
「そうそう榊田君」
コトハは大事な用件を思い出した、という風に手を打った。
「今度の土曜日なんだが、夏合宿の打ち合わせがてら、ウチで花火大会の鑑賞をしようと思うんだ。屋上のペントハウスでバーベキューしながら眺める花火は最高だぞ」
その話は、以前にもコトハに聞いたことがあった。三十五階建てのマンションの屋上から見る花火は、確かに格別だろう。
「了解しました。土曜日ですね」
「うん、魔法研究会のみんなもくるから。わいわい騒ぎながら合宿についても決めてしまおう」
携帯にメモしようとして、シンははたと気が付いた。そういえば、その日には他の予定が入っていたような。
それが何なのかを思い出して、シンはさぁっと青くなった。
「ええっと、宮屋敷先輩。俺、ちょっと遅れるかもしれません」
「ん? 了解だ。花火が打ちあがるのには間に合ってくれたまえよ」
今度の土曜日。それは、ミズカに指定されたのと同じ日だ。これが天罰か、とがっくりとうなだれたシンを。
シキが、感情のない目でじいっと見つめていた。
いつだってそうだ。大切なことは、すぎてしまってからそうだったと思い知らされる。
あの時は、それがそんなに大事なことだとは判っていなかった。何度となく繰り返される毎日の、いつもと同じ小さな出来事の一つ。その程度のことだと思っていた。
――いや、それは違う。本当は判っていた。
その一つ一つが、取り返しのつかないことばかりだって。
勇気を持って向き合わなければいけなかったって。
自分の中の、弱い心。本当にしなければいけないことが何なのか、知っていながらに動くことができなかった。
そこにいるのは、どうしようもなく愚かな自分。
廊下の窓から、オレンジ色の夕日が見えていた。そのことを良く覚えている。夕焼けで、学校の中は暗い橙色に染まっていて。黒くて細長い影が、そこかしこににょきにょきと伸びていた。
授業が終わって、もう部活動の時間だった。吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。学校中、そこかしこに散らばって練習しているせいだ。トランペットが、ドヴォルザークを奏でていた。ハマりすぎていて、ちょっと笑える。
人の少ない廊下を、ミズカは自分の教室に向かっていた。部活動が終わる頃になって、自分の机の中に宿題のプリントを忘れてきたことを思い出したのだ。そろそろ陽が落ちるし、用のない生徒はみんな帰ってしまっただろう。
高校の間は、ミズカはずっとバトミントン部の活動に注力していた。物凄く上手いというわけではないが、試合で勝てると嬉しかったし、勝つための工夫をするのは面白かった。元々身体を動かすのは好きだし、部活動を通して友人ができるのも楽しかった。
さっさとプリントを回収して、仲間たちのところに戻ろう。そう考えて教室の中に入ると。
「・・・ミズカ」
ミズカの席の横に、一人の女子生徒が立っていた。
洒落っ気の少ない、無造作な肩までの細い髪。おどおどとして、いつも誰かの顔色を窺っている小さな目。身体の前で組んだ掌で、芋虫みたいに丸い指がもぞもぞと動いている。
紺谷リサコ。ミズカのクラスメイトだった。
「リサコ、どうしたの?」
何を言っているのだろう。
判っていたはずなのだ。リサコは、ミズカに会いにきた。ミズカと話がしたかった。そんなことは、当たり前だったのに。
「宿題のプリント忘れちゃってさ、もう、とんだドジだよね」
つかつかと机に歩み寄って、ミズカはその中をまさぐった。目的のプリントはすぐに見つかった。これで用事は終わり。
「じゃあね、また明日」
そう言って笑顔で手を振ってみせた。いつまでも続く、同じような毎日の一つ。ミズカにとっては、立ち止まる必要のない退屈な日常の一コマだ。
「あ・・・」
リサコの手が上がった。何かを掴もうとして空を切って。
そのまま、また下げられた。
「ん? どうかした?」
何が、「どうかした?」だ。
自分で自分が嫌になる。全部知っていたはずなのに。何もかも判っていたはずなのに。
目を閉じて。
耳を塞いで。
気が付いていないふりをして。
一体、何を守ろうとしていたんだ。
「ううん、なんでもない」
なんでもないことなんて、なかった。
その時のリサコの顔を、ミズカはずっと忘れなかった。嫌でも記憶の中に残り続けた。
あれが、希望を失った人間の貌だ。
ミズカが裏切って、切り捨てた友人の姿だ。
廊下の方から、ミズカを呼ぶ声が聞こえた。バトミントン部の仲間が、ミズカのことを迎えにきたのだ。リサコと二人でいるところを見られるわけにはいかない。
――だから、どうしてそんなことを考えてしまったのか。
自分が、たまらなく嫌になる。思い出すたびに、吐き気がする。
ミズカは残酷だ。見せかけだけの友情に囚われて。本当に大切なこと、助けを求めている声、失くしていはいけないものを判っていない。
教室を出る時、リサコがどんな顔をしていたのかは記憶にない。後ろを振り返らなかったせいだ。
どうしてだろう。一瞬で良い、もう一度だけ、リサコの方を向くべきだった。友達だなんて言うのなら、その言葉に耳を貸すべきだった。きちんと正面から話をするべきだった。
最低で、最悪だ。
たった一人で教室に残されて。リサコは、どう思ったのだろう。たった一言を伝えることすら許されなかったリサコは。
影たちの踊る、夕闇に包まれた寂しい世界で。
今も、一人ぼっちでいるのだろうか。
翌朝、ミズカは机の中に一通の手紙が入っているのを見つけた。飾り気のない白い封筒、その中には一枚だけ、淡いクリーム色の便箋が包まれていた。
恐らく、これがリサコにできた精一杯だった。ミズカに言いたいこと、伝えたいことは沢山あったはずだ。
ミズカは卑怯者だった。いくらでもなじられるべきだし、そしられるべきだった。リサコにはその資格がある。ミズカがしてきたことを思えば、それは当然のことだ。
教室の中を見渡すと、リサコはきていないようだった。昨日、本当なら直接話したかった内容が、この手紙に凝縮されているのか。今までずっと、見ないようにしてきた事実。いよいよ覚悟を決めて、向かい合わなければならない。
ふぅ、と息を吐いて、ミズカは便箋を広げた。
――こうなってからでは遅いんだ。
手が。足が。
身体中が震えていた。
リサコからの手紙を読むのに、大して時間は必要なかった。何故なら、そこにはたった一行しか書かれていなかったのだから。
『ミズカちゃん、ありがとう。ごめんね、さようなら』
封筒と同じで、何も装飾されていない、たったそれだけの言葉。
ミズカはもう一度、リサコの席に目を向けた。そこには誰もいない、机と椅子。どんなことがあっても、何があっても。学校にいけば、そこにはリサコがいて。見ていないつもりなんてなくて。話を聞かないつもりもなくて。
いや、それは嘘だ。
目を逸らして。聞こえないふりをして。
なくなってからそれを惜しんでみせるなんて。
ミズカは、どこまでも卑怯者だ。
リサコが学校をやめたことを、ミズカはその日のホームルームで担任から知らされた。クラスの全員が、誰とも目を合わせようとはしなかった。
誰かに責任があるのだとすれば、それはミズカだ。リサコのためにできることなんていくらでもあったのに。
ミズカは、何もしなかった。きっと大丈夫。そんな根拠のない言い逃ればかりだった。
――リサコを訪ねよう。今からでも、お互いにどんなことでも話し合おう。
その日一日、ミズカはそのことだけを考えていた。




