はんぶんのきもち(3)
子供の泣き声が聞こえる。
赤子ではない。物心のついた年頃、身体の中にある悲しみを、一心に吐き出す声だ。
それはいつも、自分の中にあったものと同じかもしれない。
シンは、ゆっくりと周りの世界が認識できるようになってきた。短い期間で、それなりの回数を重ねてきたつもりだったが、どうにもまだ慣れない。コトハに言われたことを思い出して、シンは掌を開いて目線をそこに合わせた。
自分の手。そこを中心にして、自分が形作られていく。本来ここにはシンの肉体は存在しない。しかし、人間は意識だけで自己の存在を確定できるほど、強固なものではない。仮初でも良いから、実体を持つ自分をそこに『視る』必要がある。
様々な感覚が戻ってきた。指先、腕、足。部室の中にいた時の服装。靴の下に、固い感触がある。コンクリートのブロックだ。立ち上がって息を吐くと、真っ白な気体になる。寒い。考えるのと同時に寒気がやって来て、シンはぶるっと身震いした。
灰色の空。冬の、曇った日だ。シンがいるのは、タイル状にコンクリートブロックが敷き詰められた、広い道路の上だった。左右に葉の落ち切った銀杏並木がある。パッと見た感じは、どこかの公園の中のように思えた。
泣き声は、ずっと続いている。声のする方向を見ると、人影が二つあった。
灰色のコートを着た女性が、小さな女の子の手を引いている。女の子の手首を強く握り、無理矢理引きずるようにして遠ざかっていく。
まだ五、六歳くらい、シキとそれほど歳の変わらない感じのする女の子は、大きく口を開けて慟哭していた。辺り一面に、その声が響き渡っている。シンの中で、ちくり、と胸が痛んだ。
母親に掴まれたのとは逆の手で、女の子は何かをきつく胸に抱いていた。意識を向けるまでも無く、シンの手にその感触が伝わってくる。冷たくて、固くて。
かち、かち、と規則的で確かな振動を伝えてくる。
「榊田君、お待たせ」
唐突に、シンの横にコトハが現れた。最後に部室で見た時と同じ、グリーンのセーターに濃い青のタックスカート。一つだけ違うのは、トレードマークのような黒くて大きなつば広の三角帽子が増えていた。心象世界に入った際、コトハは必ず記号として魔女の帽子を身に着けている。自分を見失わないための目印、ということだった。
「すまないね。どうも榊田君と同調しやすい代物だったようだ」
「そうみたいですね」
シンは改めて、自分の掌に意識を集中した。段ボール箱の底、指先に触れた何かが、シンを無理矢理ここに引きずり込んだのだ。その正体は、この手の中にある。
敵意、ではない。確かにつらくて悲しい記憶だが、根っこにあるのはもっと優しい想いだ。それが判っているので、シンはあまり恐怖は感じなかった。それに、コトハがすぐに駆けつけてくれた。これ以上に心強い援軍はない。
「これ、ですか?」
ちゃり、と金属の触れ合う音がした。シンの手に、丸い円盤状の金属と、細い鎖が現れた。掌に収まる大きさの、小さな細工物。懐中時計だった。
「うん、それだ」
コトハがうなずいた。シンは段ボール箱の中の古い懐中時計に触れて、そのまま意識を失った。恐らくは、そこに込められている想いに同調して、その心象世界に取り込まれてしまったのだ。
「厄介な能力ですよ」
シンが持つ魔法使いとしての素質は、大雑把にいうと『感応』だった。物や空間に強く残された記憶を、自らの五感に同調して読み取ることができる。「イマドキ風ににカッコよく表現すれば、サイコメトリーだ」と、コトハがやや興奮気味に解説してくれた。
自分の意思で完全に制御できるのであれば、確かに面白い力だとは思う。しかし、シン自身は魔法使いとしてまだまだ未熟だ。それもあって、シンの意思には関係なく、何かの記憶に引きずり込まれるということが頻繁にあった。
「今回の場合は、この時計に込められた記憶に、榊田君の方が勝手に吸い寄せられたパターンだね」
シンもまた、生きた人間であり、その内面には様々な想いがある。似たような記憶に刺激されて、意図せず自分からその心象世界に入り込んでいってしまうこともある。この時計の記憶、あの泣きじゃくる女の子の想いが、シンの心と強く響き合ってしまった結果がこれだった。
「詳しくは聞かないけど、思い当たる節はあるんだろう?」
「ええ、まあ」
そうか、と小さく応えると、コトハはそのまま押し黙った。
シンにはシンの想いがある。今までも何度かこんなことはあったが、その度、コトハは深く追求することをしなかった。
「もう少し、その時計について見えることはないかね?」
コトハに言われて、シンはじっと懐中時計を見つめた。ここには、まだ何かがある。誰かが、強い願いを込めている。それを感じて、シンの胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
「・・・変わったね」
シンとコトハは、今度はどこかの部屋の中にいた。本棚と、机のある、書斎のような場所。暗い室内で、誰かが机に向かって一心に何かをしていた。
大人の男性だ。工具を使って、かちゃかちゃと作業をしている。その手の中にあるのは、さっきの懐中時計だった。
何かを終えて裏蓋を戻すと、男は机の上に懐中時計を置いて。
大きく、溜め息を吐いた。
「この男はさっきの女の子の父親だね」
部屋の中を見回していたコトハが、本棚にフォトフレームがあるのを見つけた。父と母と、三人で笑顔で映った写真が飾られている。そこにいるのは、紛れもなくあの場所で泣き叫んでいた女の子だ。
「手を引いていたのは母親か」
女の子の意思を無視して、力任せに連れて行こうとしてた女性は、母親だった。
では、この父親はあの時、どうしていたのだろう。
シンは机の方に歩み寄ると、懐中時計に触れようとした。ここにいる男は、ただの心象風景だ。実際に誰かがいる訳ではない。その存在を意識せずに、シンは黙って懐中時計を持ち上げた。
この時計だけが、手に取ることができる。つまり、これが中心なのだ。この男も、この部屋も。さっきの並木道も、母親も、女の子も。何もかもは、ここから生み出されている。
かち、かち、と規則正しい音がする。この時計は、動いていた。女の子の手の中にあった時も、正確に時間を刻んでいた。
そんなに高級そうなものではない。恐らく、裏蓋を外せば電池が入っているだろう。シンがそっと裏蓋を撫でると、小さな金属の円盤が音も無く外れ落ちた。
時計の中は、真っ暗だった。
「そっちじゃない」
コトハがシンの横でしゃがみ込んで、床に落ちた円盤を拾い上げた。銀色に光る時計の裏蓋を、コトハはそのままシンに差し出した。
「私が見ていいものかどうか、判らないからさ」
「今更ですよ」
シンは微笑んだ。
この心象風景は、懐中時計の記憶を受けて、シンの中に作られているものだ。シンよりもずっと優れた魔法使いであるコトハが、これだけのものを見て、何も悟らないはずがない。魔法使いとしての自分を受け入れた時から、シンはコトハのことを絶対的に信用していた。隠しておきたいことなど何もないし、ましてや隠し通すことなど到底できやしないだろう。
コトハにも見えるように、シンは裏蓋の内側を上に向けた。そこには、小さく引っかいたようなキズがある。いや。
「メッセージ、か」
短い英文。言われなければ気が付かないような、本当に小さな文字列。
それは恐らく、希望なのだ。
見過ごされることもあるかもしれない。気付かれないままかもしれない。
しかしそれでも、ひょっとしたら目に留まるかもしれない。
そんな、ほんのわずかな希望。
シンがそれを見つけたからなのか。
ふ、っと再びシンの意識は遠のいた。柔らかくて暖かい何かが、そっとシンの身体を包み込んだ。
目を覚まして最初に飛び込んできたのは、緑の山脈だった。この角度から見ると、ものすごい迫力だ。慌てて目線を横に向けると、シキがすぐ近くで覗き込んでいた。
「うわっ」
「やあ、榊田君、おかえり」
驚いて声が出るのと同時に、コトハが話しかけてきた。山の間から、コトハの顔がぐいっと姿を現す。黒髪が頬の辺りを這って、ひどくくすぐったかった。
シンはソファの上に横になって、コトハの太腿に頭を乗せていた。俗に言う、膝枕だ。
「気が付きました?」
ユイがシンを見下ろしてくる。急いで身体を起こそうとしたところで、シンはぐいっと押さえつけられた。
「こら、消耗した状態ですぐに動くなと教えただろう」
頭の後ろに、むにゅ、とした感触がある。更に、コトハが前かがみの姿勢になったことで、顔の上にものしかかってくる。これは、新手の拷問なのだろうか。
「いいからじっとしていたまえ。君は魔法使いとしてしっかりと成長してきている。これはそのご褒美だとでも思っておけばいい」
「ご、ご褒美って」
「なんだ、私じゃ不満か? ユイに頼もうか?」
ユイが、ぼっと顔を赤くして後ずさった。ひどい誤解だ。誰が、という意味ではなく、この状態が問題だと言っているのに。シキだけが嬉しそうににこにことしている。シキにとっては結果が全てなのか。ある意味潔い。
観念して、シンはコトハに身を任せることにした。実際柔らかくて心地が良い。ふんわりと甘い香りがする。コトハは優しくシンの頭を撫でた。
「色々と気にすることはない。榊田君は意識し過ぎだ。私が君の好みではないというのならとにかく、『膝枕ラッキー』くらいに考えてくれて全然かまわないのに」
「そうは言われても、嫌でも意識しますよ」
ちらり、とシンはシキの様子をうかがった。シンとコトハがくっついているのを見て、シキは心なしかいつもよりも楽しそうだった。
「そんなに意識されてしまうと、私の方が恥ずかしくなってしまう」
コトハはふふっ、と破顔した。
正直に言えば、シンも役得であるとは思っている。コトハは美人だし、そのコトハにこうして気にかけてもらえるのは嬉しい。
しかし、それはシキという存在があるからだ。二人の間に産まれるという子供。未来が見えてしまっていることが、シンには逆に大きな枷になっている気がしていた。
「宮屋敷先輩は、何とも思わないんですか?」
シンの問いに、コトハはきょとん、とした。
「だから、可能性に過ぎないんだってば。そういうこともあるんだなーって」
シンは顔を横に向けた。シキと目があったので、まぶたを閉じた。コトハの身体は暖かい。こうしていられるのは、果たしてどのような理由によるものなのだろう。
「俺は、なかなか割り切れないですよ」
シキとか、未来とか。魔法使いとか。
なんというか、余計な理由が多すぎる。
「榊田君は真面目だなぁ。その気持ちは嬉しいよ、ありがとう」
コトハはくつくつと笑った。
「大丈夫。こうやってお互いを理解していけば、ちゃんと納得した未来が手に入れられるさ」
何もかも知っているような口ぶりは、やはり『魔女先輩』だった。
「さて、じゃあこの懐中時計はどうしたものかね?」
学食のテーブルで、コトハは件の懐中時計の鎖をつまんでゆらゆらと揺らした。
お昼前までに、シンの体力は回復して、残りのバザー向け商品の確認も終了した。問題となりそうな物品は、シンが同調してしまった懐中時計だけだった。他は全て段ボール箱に戻して、次のチャリティバザー用に準備してある。
一通りの作業を終えて、三人はぞろぞろと学食へと移動していた。
「普通の人に対する影響はどうなんですか?」
ユイはきつねうどんをすすっていた。広くて綺麗で安い尖央大学の学食において、味を求めるなら麺類が安定だ。混んでくると調理の手間もあって、麺類のコーナーはあっさりと行列になってしまう。昼休み前の今なら、待ち時間も少なく済んでお得だった。
「やや強めなんだよね。引きずられてネガティブな感情に陥りやすくはなるかも」
コトハはカツカレーだった。シンは学食ではあまりカレーは食べないようにしていた。業務用を煮詰めすぎていて塩辛いし、なによりカレーは一人暮らしの基本食だ。せっかく外で食べるのなら、もっと凝ったものの方が良い。シンは日替わり定食、麻婆茄子だった。
「そのことについて、お願いがあるんですが」
シキはシンの横に立って、じっと三人の食事を眺めていた。シキは、シンの娘だ。たとえ今は可能性に過ぎないのだとしても、そうなる未来が訪れる確率は高いだろうし、そうなったからこそここにいる。
懐中時計が見せた心象風景の中で泣いていた女の子。シキが、あんな風に声を上げて泣き叫ぶ姿など。
シンは、見たくなかった。
「どうにかして、元の持ち主に返すことはできないでしょうか?」
「じゃあ佐次本先生経由でリサイクルショップに問い合わせだな」
「近隣だと良いんですが、念のため富岡先輩に車を出してもらえるように頼んでみましょう」
「まあ、焦っても仕方がないから週末目途かな」
「じゃあその辺りでお願いしてみます」
ぽかーんとしているシンの前で、ユイとコトハがあれよあれよと話を進めていく。シンには、二人の会話を眺めていることしかできなかった。
「ええっと、これはどういう・・・?」
「どうって、榊田君が言い出したことだろう」
コトハは呆れたような声を漏らすと、カレーをたっぷり吸わせたカツを口の中に放り込んだ。
「榊田君が望むようにしてください。魔法研究会は、そういう集まりなんですよ」
ユイがにっこりと笑った。
魔法研究会に入部した際、確かにコトハがそんなことを説明していた。有名な魔法使いの語った言葉に、「汝の意志することをおこなえ、それが法の全てとなろう」というものがある。その意味は様々に解釈されるが、コトハはそれを魔法使いの進むべき道を表していると捉えていた。
魔法使いの力には、必ず意味がある。
自らの意志に従い、その力を行使することで、魔法使いはそれぞれの正しくあるべき姿に到達できる。コトハはそう断言した。
「榊田君には素晴らしい二つ名がある。それに従った行動なのだから、魔法研究会としては是非とも協力させてもらうよ」
コトハはあっという間にカツカレーを食べ終えていた。シンはまだ麻婆茄子を半分も平らげていない。
「とか言って、『また佐次本先生とお話ができるラッキー』とか思ってるんじゃないんですか?」
「むう、ひどいな榊田君。君は私がそこまで自分の欲望に忠実な人間だと思うのかね?」
「汝の意志することをおこなえ、それが法の全てとなろう」
「なってくれそうにないんだな、これが。むしろ姦通罪で法を犯しそう」
「二人とも、シキちゃんの前で変なこと言わないでください」
シキはただ、そこに立って無垢な笑顔を浮かべていた。
魔法研究会で魔法使いの力を得た時、シンはコトハから魔法使いとしての二つ名を与えられた。これは魔法使いの師が弟子に対して贈る、その力のあり方を示したものだ。
二つ名とはその魔法使いの未来を示す予言であり、その本質でもある。魔法使いの生き様と、その意志を言葉に表したもの。
シンの二つ名は、『人を想い流れる涙』。通称『ひとおもい』だった。