きみのとなりなら(7)
誰かの子供を産むのなら、アユムが相手になるだろう。
うっすらと、ヒロエにはそんな予感がしていた。というよりも、他の相手など想像もつかなった。自分が女として誰かに愛されるとか。天変地異のレベルであり得ない話だ。
離れにアユムを泊めていると両親に報告した時も、大して心配はされなかった。むしろ「そいつなかなか度胸があるな」と、妙な感心をされたぐらいだった。ヒドイ話だ。そんなんだから、さっくりと娘の貞操は奪われてしまったのだ。
自分には、女としての魅力なんて何もない。判りきっていることで、ヒロエは気にもしていなかった。ぶりぶりとした服を着て、可愛く自分を見せようなどとはこれっぽっちも思わない。金と時間の無駄だ。ヒロエはそんなことよりも、身体を動かして遊んでいる方がずっと楽しかった。
アユムが自分を組み敷いた時。本気で跳ね飛ばせば、難なく退けることはことはできていただろう。力の差は歴然としていた。それをしなかったのは、アユムが苦悶の表情を浮かべていたからだ。
どうすればいいのか判らない――アユムからは、そんな気持ちが伝わってきた。
しばらく、ヒロエの離れにやってきても、アユムは口数が少なかった。何かを思い悩んでいるのは察していた。妹のこと、家族のこと。そして、進路のこと。はっきりとは言わないが、アユムが苦しんでいるのは理解できていた。
だから、自分が『女』としてアユムを慰められるのなら。
多分それは、ヒロエにとっては唯一、アユムに対してしかできないことだ。それでいい。ヒロエはアユムを受け入れた。ただ。
そのせいで、アユムは深く傷ついてしまった。
アユムがヒロエに望んでいたのは、『女』ではない。仲の良い、何一つ隠すことなく話し合える友人。親友。そうであってほしかったのだ。
一時の気の迷いに任せて、アユムはヒロエとの一線を越えてしまった。取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
アユムが、ヒロエのことをそう想ってくれるのなら。
ヒロエは、アユムのためにそうであろうとするだけだ
「おーっす、おはよっす」
尖央大学付属高校で、アユムとヒロエは同じクラスだった。あの後アユムは逃げるようにヒロエの離れから出ていって、ヒロエのメールに返事も寄越さなかった。やることだけしっかりやっておいて無視とか、あんまりだろう。
「ヒロエ・・・おはよう」
アユムは力ない声で返事をしてきた。賑やかな朝の教室の中で、アユムの席の周りだけどんよりと沈んだ感じだった。
「んだよ元気ねーなー。そんなに良くなかったかよ、悪かったな」
「んばっ!」
「馬鹿」と叫ぼうとして、アユムは目を白黒させた。大声を出せば余計に目立つ。きしし、とヒロエは意地悪く笑った。
「昨日のことは気にすんな。あたしも気にしない。アユムはいつも通りが良いんだろう? オーケー、それでいこうぜ」
アユムが男で。ヒロエが女。
そんなことを意識していたら、きっとつまらない。二人は、そのまんまが良い。僕とあたし。それが、アユムとヒロエだ。
「でも、もしものことがあったら・・・」
衝動的な行為だった。準備があったわけではない。ああ、ちゃんと考えてくれていたんだ。ヒロエにはそれだけで満足だった。
「その時はその時考えよーぜ。ウチなんか、むしろ後継ぎができたって大喜びしそうだ」
ヒロエの兄も姉も、家を飛び出して勘当状態だ。富岡酒店の未来はヒロエにかかっている。将来的にはどうせ旦那をもらって、子供の一人や二人はこさえなければならないのだ。
それが数年早まったとして、大した問題ではあるまい。
「アユムは学校の先生になるんだろ? 応援してるからさ、そっちのことだけを考えな」
アユムは、教師に向いている。ヒロエはそう思っていた。こんなヒロエを相手に、話題を合わせて友人にまでなってくれたのだ。頭の回転も早いし、語り口調も上手だ。本人がどう考えているのかはとにかくとして。
ヒロエが、アユムが教師になることを応援しているのは、本当のことだった。
「ヒロエ」
「ん?」
アユムが、ヒロエのことを見つめてくる。そういう顔をされると、僅かに後悔の念も湧いてきた。しかし、ヒロエは決めてしまったのだ。少なくとも、アユムが教師になるまでは、ヒロエはヒロエであり続けなければならない。
「ありがとう」
富岡ヒロエ、魔法使いとしての二つ名は、貫きたがえぬ信念。通称『つらたん』。
決めたからには、ヒロエはその意志を覆すことはしない。例えそれが、どんなにつらい道のりになるのだとしても。
すぐ隣にいて、アユムのことを見ている。アユムの一番の友達であり続ける。アユムが、自分で自分のことを一人前だと認められる、その日が来るまで。
ヒロエは、ヒロエだ。
結局、あの時ヒロエが新しい命を身籠ることはなかったが。
それとは異なる意味で、ヒロエは、アユムだけのものになった。
全てが終わった団地の部屋は、寒々しいだけだった。窓ガラスは割れて枠だけが残され。壁には重機による大穴が開いて。かつてここに一人の女性の悲しみが刷り込まれていたことなど、微塵も感じさせない。
跡形もなく死霊を消し飛ばした後、シキもまたそのまま姿が見えなくなった。魔力を消耗したせいだろう。膝をついたまま、フサコのいた空間を無言で凝視するシンに。
「榊田君!」
コトハが力いっぱい抱き着いてきた。
「み、宮屋敷先輩?」
「良かった。無事だった。榊田君がこっちに飲み込まれた気配があって、ずっと心配してたんだ」
柔らかい膨らみが、ぎゅうぎゅうと押し付けられてくる。どうしたものかと慌てふためくシンの前に、ヒロエがにゅうっと掌を突き出してきた。
「シンちゃん、車の鍵」
「え、あ、はい」
コトハに締め付けられながら、シンは何とかポケットから車のキーを取り出した。ヒロエは「うん」とそれを受け取ると、さっさと踵を返してしまった。
「じゃ、車で待ってるから。遅くならないようにね」
「え、ちょ」
シンは立ち上がって追い縋ろうとしたが、コトハがちっとも力を緩めてくれない。困り果てたところで、今度はけたたましく携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
あたふたと手に持ったところで、アユムがひょい、とそれを取り上げた。液晶表示を見ると、電話をかけてきたのはユイだった。
「はいはい、橘か。ああ、僕だ。全員無事だ。榊田? 今頃お楽しみの真っ最中なんじゃないか?」
ユイと通話したまま、アユムもその場から立ち去っていく。視界から消える際にひらひら、とヒロエが手を振って。
後には、シンとコトハだけが残された。
「ちょっと、宮屋敷先輩――」
シンはコトハの手を振りほどこうとして。
コトハの眼が真っ赤に充血して。
ぽろぽろと涙がこぼれていることに気が付いた。
「うううー、見るなぁー」
「す、すいません」
コトハは眼鏡を外すと、シンの身体に顔を押し当てた。ぐすっ、という鼻をすする声が漏れ聞こえる。コトハがこんな風に泣きじゃくる姿なんて。
珍しいどころの話ではない。激レアだ。今までにないことだ。
「私にもよく判らないんだ。ただ、榊田君に何かあったらって思って、こうやって無事でいてくれて・・・とにかく色んな感情が溢れてきて、自分でもどうしようもないんだ」
ぎゅう、とコトハの腕がシンの身体を抱き締めてきた。コトハの涙が温かい。生きている人間の感触だ。シンもコトハも、こうしてここに生きている。
「すまないが、榊田君。もう少しで良いから、このままでいさせてくれ。お願いだ」
いつもは頼もしい魔女先輩の背中が、この時だけは小さく感じられて。
シンは、そっと手を伸ばして触れてみた。コトハは何も言わない。じっと、シンの胸元に顔を埋めている。
「宮屋敷先輩」
「・・・榊田君」
お互いに名前を呼び合ってから、シンは思い切って腕に力を入れた。ぐいっと、コトハを引き寄せる。
その日、シンは初めて、コトハの身体を抱き締めた。
とても柔らかくて、思っていたよりもずっと華奢で、折れてしまいそうで。
それから、気持ち良かった。ああ、この人のことを好きになるのだ。そんな想いで満たされてきて。
しばらく、時間が経つのを忘れてしまうくらいだった。
建物の外に出ると、ヒロエは煙草を取り出して火を点けた。ふぅ、と煙を吐き出して燻らせる。ユイの話では、煙草を嫌うモノもいるという話だ。それなら、魔除けの効果ぐらいはあるだろう。
「ヒロエ、お前また吸ってんのか」
アユムが不機嫌な顔になった。酒屋の配達をしていると、付き合いで煙草ぐらいは吸うようになる。仕事上必要なことなのだ。これぐらいは認めてもらいたい。
「まー、勘弁してよ。今夜はこれが初めてなんだからさ」
一応、最近は加減している方なのだ。酒も煙草もやるけれど、どれもほどほどに。こんなんでも嫁入り前の娘、ということにはなっている。酒屋の跡取りも楽ではなかった。
「ヤニ臭くて酒臭い女子って、最低だぞ」
「ははは、今更こりゃもう諦めてもらうしかないからね」
――そう言えば、キスってしたっけ?
可笑しくなってきて、ヒロエは思わず噴き出した。順番も何もあったものじゃない。やはり『好き』とか『恋』とか、そういうものは似合わなさすぎる。
「そうだ、ヒロエ」
改まったように、アユムがヒロエの方に向き直った。小さくて細くて。わざとやっているのかなんなのか、仕草までちょっと女の子っぽい。あてつけだろうか。
「んー、何?」
「僕、今度車の免許を取ろうと思うんだ」
「おー、そいつは助かる」
魔法研究会のメンバーで、運転免許を持っているのは顧問の佐次本キョウスケを除けばヒロエだけだ。車を使った活動は頻繁にあるので、交代要因がいないのはヒロエにとっては悩みの種だった。
「アユムが代わってくれるようになったら、魔女先輩が一人で酒飲んでるのを眺めなくて済むわ。去年はワイナリーまでいってヒドイお預けを食らったからな」
そもそも車でしかいけないような立地の場所に建てておいて、ワインの試飲コーナーがあるとか人を馬鹿にしている。その日の帰りの車内、ワインの匂いをプンプンさせているコトハを乗せて、ヒロエはずっと文句を垂れ流していた。
「ヒロエに酒を飲ませるために免許を取るわけじゃない」
呆れたように一つ息を吐いて。
それから、アユムはふっと視線を脇に逸らした。
「ただ、僕もそろそろあの車には慣れておいた方が良いだろうから」
くわえていた煙草を、ヒロエは口から離した。オレンジ色の火種を、じっと見つめる。なあ、ヒロエ、今はどうするべきだ。ヒロエは、ヒロエでなければいけないんだ。
そんなことは、判っている。
「なんだ、魔女先輩にあてられたのか? 勘弁してくれよ」
携帯灰皿を取り出すと、ヒロエは煙草の火をもみ消した。同時に、胸の中の熱も冷ます。今はまだ、そんなものは必要ない。
「そういうわけじゃないけど」
「アユムは学校の先生になるんだ。これから教育実習もあるんだから、しっかりしてくれ」
アユムのことを支える、アユムの一番の理解者で、親友。ヒロエはそうなると決めた。アユムがそれを望んだからだ。
楽な方向に流れることは簡単だ。ヒロエは、いつでもアユムの場所になることができる。しかし、それではあの夏の日の決断が、全て台無しになってしまう。
どんなにつらくても。気持ちとは裏腹であったとしても。
ヒロエが言うべきことは、決まっていた。
「アユム、頑張れ」
ヒロエの言葉に。
「判った」
アユムはしっかりとうなずいた。
過ちが、過ちでなくなるのなら。
隣にいる君が、君ではなくなる。
もしもいつか、二人の下にその時が訪れたとして。
また改めて、何と言えば良いのだろう。
君に、どうあってほしいと願うのだろう。
今はまだ、こうやって二つの心の狭間で揺れ動いている。
本当に――このザマだ。
時刻は、もうすぐ夜明けになろうとしていた。まだ車のまばらな幹線道路を、魔法研究会の面々を乗せた軽ワゴンは、帰路についていた。
「やっぱりこれが一番しっくりくるねぇ」
シンの頭を太腿の上に乗せて、コトハはすっかりご満悦だった。言いたいことは山ほどあったが、シンはとりあえず黙っておくことにした。コトハの掌が、優しくシンの身体を撫でている。その手つきが、いつもとは少し違う気がした。
「あのー、ウチの車でいちゃつくのは勘弁してもらえませんかね?」
「なんだ榊田、さっきやること済ませてきたんじゃなかったのか。根性ないなぁ」
ヒロエとアユムからも言われたい放題だった。それでもコトハだけはニコニコしている。それに、あともう一人。
シンの顔を覗き込んで、シキも微笑んでいた。シンを守る、冷徹な魂。その幸せのためなら、ためらうことなく全てを薙ぎ払う存在。
その無邪気な姿を、ヒロエはルームミラー越しにチラリと見やった。
愛する人と、子をなすということ。
――あの時、いっそのことそうなってしまっていれば。
そんな考えが浮かんできて、ヒロエは軽く笑い飛ばした。
助手席では、アユムが眠そうに瞼をこすっている。まずはこの場所で、見届けると決めたのだ。
未来は、きっとその先にある。辿り着くことができる。
そう、君の隣なら。
「Fragment.4 きみのとなりなら」は以上で終了となります。
ありがとうございました。




