きみのとなりなら(2)
出発するのは、夜が更けてからということだった。ヒロエが本宅の方から車を回してきた。いつもの、富岡酒店の名前の入った軽ワゴンだ。車が駐車スペースに停まると、助手席からきらきらとした輝きが降り立った。
「これは榊田様、お久しぶりでございます」
ヒロエの離れの外まで出てきていたシンは、あんぐりと口を開けた。きらめく金髪に、透き通った青い瞳を持つ異国風の美女。以前と同じ黒いスキニーパンツに、真っ白いワイシャツ姿で、腰にはシンプルなエプロンを巻いている。コトハの家の召使い、ブリジット・ダルレーだった。
「ええっと、荷物があるから取りにきてって話だったんですけど」
「はい、こちらでございます」
ブリジットは車のスライドドアを開けた。中から幾つかの保温用のボックスを引っ張り出す。結構な大きさのものが、合計で四つ降ろされた。試しにシンがその内の一つを持ち上げてみると、かなりの重量があった。
「これは?」
「皆様の晩御飯でございます。今回は私の方でご用意させていただきました」
相変わらずの流暢な日本語でブリジットは応えた。それだけでも十分に違和感の塊なのだが、ブリジットは実は人間ではない。宮屋敷家の秘術で造られたという、命なきもの――人造人間だった。
コトハの説明によれば、大学入学時にコトハの身の回りの世話をするために準備されたのだという。その話が本当なら、ブリジットの実年齢は現在三歳程度というところか。見た目はコトハと同じくらい、二十歳くらいの若い女性だというのに。宮屋敷家がらみの話では、驚かないことの方が少なかった。
「それでは、本日は大学生らしく、深夜まで心置きなくウェーイなさってください」
ただ、どうにも言葉選びのセンスがおかしい。ブリジットの教育をおこなったのは、コトハの父リュウゴだという。リュウゴには大学生に対する、多大なる誤解があるような気がしてならない。それはコトハも感じていて、共に生活をしながらブリジットには少しずつ補正をかけている、ということだった。
「じゃあブリちゃん送ってくるんで」
荷物を下ろすと、ヒロエはブリジットを乗せて再び車を発進させた。シンはアユムと協力して、ボックスをリビングまで運んだ。コトハはその中身を覗き込むと、うーむ、と腕を組んで唸った。
「あいつ、やっぱり何か勘違いしているな」
夕食のメニューは、焼きそば、鳥の唐揚げ、山盛りのポテトフライ、ソーセージ盛り合わせ、枝豆の塩茹で、食パン一斤まるごとを使用したハニートースト・・・
「カラオケボックスみたいですね」
「それな」
恐らくブリジットなりに『若者らしい』メニューを考えた結果なのだろう。大学生が夜に集まって食事をすれば、こういう宴会になる、という判断なのか。
「飲み物が欲しくなりますね、これ」
全体的に濃い味付けのものばかりだ。食事、というよりもおつまみの詰め合わせという感じか。
「今日は車移動なんだ、ヒロエに酒を飲ませるわけにはいかない。ジュースで我慢してもらおう」
良く調べてみると、ご丁寧にノンアルコールビールの缶まで詰め込まれていた。「帰ったら説教だな」とコトハは大変おかんむりだった。
ブリジットが用意した料理は、これまた腹が立つくらいに美味しかった。そのせいで、コトハとヒロエは酒が飲めなくてどんどん機嫌が悪くなっていった。
「空気が読めないってところが、まだまだ人間的じゃないな」
「人間でないものが、人間の空気を読むようになったら末期でしょうよ」
コトハのぼやきに、アユムが突っ込んだ。確かにそうかもしれないが、ブリジットはもう十分すぎるくらいに人間に近い。この程度のことなら『天然』で済ますこともできるだろう。
これを超えるものが出てきたのなら。いよいよ人間との区別がつかなくなってしまう。それがブリジット一人ならいいが、街中に普通に存在するようになったとしたら、どうなるのか。
いやそれよりも、ブリジットが複数いる方が問題かもしれない。あの愉快なお姉さんが大量にいるところを想像して。シンは恐れるべきなのか笑うべきなのか、判断がつかなかった。
食事が終わると、ヒロエはごろん、とリビングで横になった。リモコンでテレビのスイッチを入れて、野球中継を選局する。その間、キッチンではアユムが後片付けを進めていた。
「アユムー、お茶ー」
「ちょっと待てや、まだお湯も沸かしとらんわ」
「冷たいのでいいよ。冷蔵庫に麦茶なかったっけ?」
「判ってんのなら自分でいれろや」
食卓の椅子に座ったまま、シンはヒロエとアユムのやり取りを聞いていた。男女逆転夫婦、という表現がぴったりだ。これでこの二人は「付き合っていない」と公言している。信じろという方が無茶だろう。
「人には色々あるってことさ」
コトハはそう言うと、コップに残ったノンアルコールビールを一口舐めて、うげっと舌を出した。苦いだけの代用品では、やはりどうにもならなかったらしい。親指と人差し指で缶をつまみあげて軽く振り、その重さを確かめてコトハは眉をしかめた。
「これなら未成年の榊田君でも飲めると思うのだが、どうかね?」
あんな顔をしておいて、今更何をかいわんや、だ。開封されたのは最初の二缶だけだった。ヒロエの方もほとんど口を付けていないのだから、味については推して知るべしだろう。
「遠慮しておきます」
「ええー、こういう時、夫婦は助け合うものだと思うよ?」
「こんな時だけ夫婦にならないでください」
「なんだよ、散々膝枕とか堪能しておいてさ」
「それはそれ、でしょう。そこで恩を着せないでくださいよ」
二人が言い合う様子を、アユムがちらり、と一瞥して。
ふん、と鼻を鳴らした。なるほど、他人から見れば自分も同じことか。シンは言葉を失うと、がっくりとうなだれた。
「ひまー。まだ時間あるんだから、桃鉄やろーぜぇ」
ヒロエがリビングで仰向けになって大声を出した。
「じゃあ罰ゲームはこれを飲むってことで」
傍若無人な女性陣の発言に、シンとアユムは顔を見合わせてから。
申し合わせたように、そろって深い溜め息を吐いた。
深夜をすぎて、ようやく活動開始の時刻となった。夏、とはいってもまだ夜は肌寒さを感じるくらいに涼しい。今年は冷夏だという話だ。コトハはブラウスの上にカーディガンを羽織った。
シンは運動用のトレーニングウェア、アユムもパーカーにスウェットパンツを着こんでいた。ヒロエはだぼだぼのカーゴパンツに薄手のジャンパー姿で、今にも車の整備でも始めそうな感じだった。
「そんじゃ、いきますよ」
ヒロエがワゴンの運転席につき、エンジンをスタートさせた。助手席にアユム、後部座席にコトハとシンが座ることになる。今日はユイが欠席なので、いつもの四人乗り軽ワゴンでの移動だった。
「ちょっと待って、悪酔いしそう」
まさかの連敗を喫していたコトハが、真っ青な顔で口をおさえた。
「酔わないっすよ、ノンアルコールなんだから」
「あれ四本飲んだら死ぬって。あんなもんがビールの代わりになるとか、頭おかしいだろう」
罰ゲーム提案者が罰ゲームを食らうのはお約束だ。コトハはぐらぐらしながら車に乗り込むと、シートベルトを締めてぐったりと背もたれに体重を預けた。
「宮屋敷先輩、大丈夫ですか? 膝枕でもします?」
「・・・榊田君、今の覚えておくからな」
「わはは」とヒロエが豪快に笑って、アクセルを踏み込んだ。ほとんど車の走っていない夜の幹線道路に、富岡酒店のワゴン車が軽快に滑り出していった。
「サキチさんの報告によると、ここの団地跡だそうだ」
まだどこか具合の悪そうな顔をしながら、コトハはタブレットの地図アプリで場所を示した。助手席にいるアユムがそれを受け取って、ルートの確認をおこなう。ヒロエは鼻歌まじりにハンドルを握っていた。
サキチはユイの使い魔の、雉虎の大猫だ。形式上『使い魔』ということになってはいるが、実際にはユイの実家が面倒を見ている神社の神様に仕えている。近隣の猫たちのまとめ役的存在であり、猫のネットワークを介して魔法研究会に様々な情報を提供してくれる。今回の活動に関しても、サキチの情報によるところが大きかった。
「解体工事がすでに始まっているので、何か起きる前に早めに対処が必要だろうということだ」
「だったら猫の方でなんとかしてくれって話ですよ」
アユムがケチを付けた。場所を見つけたのなら、その流れで処理までしてくれてもよさそうなものだ。
「猫だって忙しいんだ。人間の手でも借りたいんだろう」
猫たちには、人には見えない世界を感知する能力がある。独自の精神文明を築いている彼らは、目に見えないモノの世界が、目に見える世界に悪影響を及ぼすことがないように監視をおこなっている。各地にいる神様や魔法使いたちは、猫たちと連携を取ってことにあたっていた。
「あー、これ公社の社宅ですねー。ちょっと前に近くを通ったことありますけど、取り壊しちゃうんだ。出るってハナシはあったんですかい?」
ヒロエの質問に、コトハは首を横に振った。
「いや、単純に老朽化して壊すだけみたいだ。住民が立ち退いた後しばらく放置していた際に、何か棲み付いたんだろう」
人がいた場所には、その残滓が憑りつきやすい。特に生きていた人間の記憶の名残、死霊はその不確かな存在を支えるために、人の生活の痕に寄りついてくる。俗に浮遊霊などと呼称されるモノだ。
コトハの説明によると、死んだ人間の記憶――死霊というのは『染み』のようなものだという。その場に強く付着しているのが地縛霊、ホコリのように漂っているのが浮遊霊で、後者の方が存在をまとめ上げる力が弱い。
一般に言う除霊という行為は、こびりついた死霊の染みの上にペンキを塗って覆い隠すことだと思えば良いらしい。それで十分に隠し通せる場合もあるし、無理矢理ペンキを剥がしてきたり、下から滲み出してきたりと、始末に負えない場合もある。力の強さに応じて性質が悪くなる、ということだった。
「ほとんどの死霊は、放っておけば消えちゃうんだけどね」
存在をまとめあげる力は、無限にあるわけではない。特に有象無象の浮遊霊などは、それほどの時間を要さずに跡形もなく消え失せてしまう。もし霊が永遠の存在などであるならば、今頃地上は都会の通勤ラッシュ以上の幽霊密度で溺れてしまうだろう。
しかし、憑代を得れば、長い時間存在を保ち続けることはあり得る。また、一つでは小さくて弱いモノでも、複数が寄り集まると厄介な悪影響を生じることもあった。それが極端な場合は、『霊障』などという言葉があてられる。そこまでいかなくても、小さな不運、不幸をまき散らす原因となるには十分だった。
「まあ、元は人間様のものなわけだし。人間が後始末をするっていうのは筋だろう」
今回の魔法研究会の活動、それは平たく言えば『幽霊退治』だった。
「幽霊退治って表現にはちょっと語弊があるかな。別にやっつけにいくわけじゃない」
霊とは、そもそも人間の記憶だ。死んだ人間の記憶が、何らかの執着をもって、しがみつくようにして現世にとどまっているものが死霊と呼ばれる。そこまでして残したい誰かの想いを、見も知らぬ赤の他人が、簡単に握りつぶしてしまっても良いものなのだろうか。
「そんなやり方、ユイなんかは猛反対するだろうね」
かといって、死霊の言葉に従い、願いをきき届けることは危険を伴う。結局のところ、残されているのはこの世にはいない人間による、身勝手な欲求でしかないのだ。生きている人間の世界に対して、死んだ人間の要求を通すわけにはいかない。彼らはもう異なる理に従う、別な世界の住人なのだから。
「ってことで、私たちがやるのはお掃除。流れ着いてきて溜まったホコリを、またパタパタって払い飛ばすだけだ。それは誰かに拾われるかもしれないし、そのまま消えてしまうかもしれない。ただ、生きている無関係な人間に、必要以上に迷惑をかけないようにしておく、という程度のことなのさ」
古い廃屋や廃墟、トンネルなどには死霊が憑りつきやすい。猫たちも監視の目を光らせてはいるが、隅々まで行き届いているとは言い難い。魔法研究会は、裏側の部活動の一環として幽霊『掃除』を実施していた。
「でもこれって、傍から見たら暇な大学生が心霊スポットを巡ってウェーイしてるだけですよね」
目立たないように深夜に、集団で車に乗って幽霊のいる場所に出向いていく。客観視してみればそういうことだ。
「やだなぁ、榊田君。実際にその程度のことだって」
コトハはナイナイ、と手を振ってみせた。
「目的があるにせよ、内容的にはそれと大差はないんだ。変に高い意識を持つ必要はない」
アユムがコトハに同調した。ぐるん、と身体を後ろに回して、シンの方を向く。まばらな街灯の光に照らされて、アユムの顔はストロボのように明滅して見えた。
「これは仕事じゃない、部活だからな。変に気張りすぎるなよ」
「そそ、こんな夜中に車走らされてさ、給料も深夜手当も出ないんだから。趣味じゃなきゃやってらんないよ」
運転席のヒロエも片手を挙げて応えた。確かにこれは、やらなければどうにかなってしまう、というような重たい責任を伴ったものではない。
魔法研究会は、ボランティアサークルだ。それは表向きのマジックショーだけではなく、裏向きの魔法使いたちに対しても同じことが言える。
やりたいと思ったから、やるべきだと思ったから実行する。早朝ゴミ拾いとレベルは変わらない。
「汝の意志することをおこなえ、それが法の全てとなろう」
かつて有名な魔法使いの残した言葉だ。魔法使いの意志が善意に基づいているのならば、それに従うだけ。
その先に、コトハの求める『現理』が存在している。魔法使いは、自らの二つ名を信じ、それに準じて行動していれば良いのだ。
「ウェーイ!」
突然、ヒロエが大声を出した。それに応じて、アユムも「ウェーイ」と両手を挙げる。コトハまで一緒になって「ウェーイ」とアユムとハイタッチした。
「ほら、榊田君も」
「ウ、ウェーイ?」
シンはコトハと掌を合わせた。コトハはげらげらと笑っている。大学生ノリとしては少々間違えている気がしたが。
車内はしばらく「ウェーイ」だけで会話がおこなわれる奇妙な雰囲気に包まれた。ブリジットには、決して会話サンプルとしては見せられたものではないし。ユイがいれば、小一時間は説教を食らっていただろう。
何やら騒々しい魔法研究会の一行を乗せた車は、一路死霊たちの待つ無人の団地跡へと疾走した。




