きみのとなりなら(1)
縁側に腰掛けて、丸川アユムはぼんやりと空を見上げていた。先ほどまでは、バケツをひっくり返したような激しい夕立が降っていた。今はもう全てが赤く染まっていて、セミの声がやかましいくらいに響き渡っている
掌を開いて、見下ろす。そこにはまだ色々な感触が残されていた。ついさっき、この手の中にあったもの。力任せに奪い去ったもの。自分の中に、暗い澱が溜まっていくのが判る。アユムは目を閉じると。
何度か、鼻をすすった。
「よーっす、シャワー空いたぞー」
小さく丸まったアユムの背中に向かって、富岡ヒロエが声をかけてきた。アユムは何も応えずに、その場でじっとしていた。今は、ヒロエの姿を見たくない。そんなことをしたら、絶対におかしくなる。
アユムが、ヒロエをおかしくしてしまう。
「なんだよ、暗いなぁ」
ふわっ、と優しい匂いがした。あの時もそうだった。ヒロエはガサツで、やることなすこと適当で。いつもその辺で走り回っていて。汗とホコリの臭い以外してきそうもないのに。
どうしてあんなに柔らかくて。
あんなに甘いのだろう。
「ほい、アユムの分。ホントは風呂上がりの方が美味いんだけど」
ヒロエが、アユムの横にコーラのボトルを置いた。そのまま、ボトルを挟んでアユムの隣に腰かける。視界の隅に、黄色いTシャツが見えた。膝丈のパンツに半袖のシャツ。いつもの、見慣れたヒロエの姿だ。
ぐい、っとヒロエはコーラを呷った。のどを鳴らして、「くぁー」っと奇声を発する。本当にいつも通りだ。悔しいくらいに、何も変わらない。アユムは歯を食いしばった。
「・・・アユムさぁ、これ、反応が普通と逆じゃねぇ?」
後ろに手をついて、ヒロエがだらんと仰向けに反り返った。生乾きの髪が、だらしなく垂れ下がる。黒くてモジャモジャで、よく「ワカメの味噌汁」と揶揄されている髪の毛だ。アユムはヒロエの髪が嫌いではない。ひっつかんで、ぐしゃぐしゃにしてやるのが面白かった。「やめろコラァ」とじゃれ合いになるのが楽しかった。
でもきっと、それはもうできないことだ。
「こういう時ってさぁ、女の方がこう、しくしく泣いてさぁ。男は横で煙草とかふかしてるモンじゃねぇ?」
男らしくない。それはもうずっと言われ続けてきたことだ。小さな身体、細くて白い手足。薄い体毛。すっきりとして、整った顔立ち。
女みたい。自分でもそう思う。好きでそうなったわけじゃない。だからといってどうすればいいのか。アユム自身にも判らなかった。
「あー、ひょっとして想像してたよりも良くなかった? いや、それをあたしに言われても困るなぁ。あたしも初めてだし、そんなに上手くできるってわけでもないからさぁ」
いひひ、とヒロエが変な笑い声をあげて。
アユムは、とうとう耐え切れなくなって、ヒロエに対して怒りの眼差しを向けた。
「お前、そんなんで良いのかよ!」
涙ぐんだアユムが睨むその先で。
ヒロエはコーラのボトルを片手に、優しい表情でアユムのことを見つめていた。
いつも傍にいて、いつも隣にいて。
アユムの一番近くにいてくれるヒロエ。
その穏やかな目線を正面から受け止めて。
アユムは言葉を失った。
「やっとこっち見た」
ヒロエが、ふわり、と微笑む。
やめてくれ。アユムは、ヒロエのそんな顔なんて見たくなかった。自分が、取り返しのつかない過ちを犯したことを理解して。
アユムは強く後悔した。
「良いか悪いかって言われると、まあ、別に良い、かな。そもそもここにアユムと二人でいる時点で、こういう可能性は考えておくべきなんじゃないかなぁ」
ヒロエの口から、そんな言葉は聞きたくなかった。シャツの下に、身体のラインがうっすらと浮かび上がっている。様々な感触が蘇ってきて、アユムは思わず目を逸らした。
ここは、ヒロエの実家の離れだ。離れとはいっても、庭付き二階建て4LDKという普通の住宅物件だった。ヒロエの一族は古くからこの土地に住んでいる農家で、ぽつぽつとこんな感じの別宅を持っている。今では農業はほとんどやっていなくて、富岡酒店という酒屋が家業だということだ。現在は大通り沿いにある、『富岡酒店』の店舗が入っている三階建てのビルが、ヒロエの家族の本宅になっている。
この離れは、ヒロエの勉強部屋という名目だった。家一つが高校生に与えられるとか、とんでもなく贅沢な話だ。しかし、掃除やら片付けやらがからきしなヒロエは、せっかくの空間を汚し放題の散らかし放題にしていた。アユムがここに入り浸る前は、ゴミ屋敷の一歩手前の様相だった。
学校に通うのに便利。そんな理由を付けて、アユムはこの離れで寝泊まりまでするようになった。自宅に帰る日など、週に数日あるかないかだ。家族には友人の家だと言ってある。嘘ではない。いや。
それも、嘘になってしまうかもしれないのか。
「だって結構今更じゃない? アユム、あたしとここで何泊してるよ?」
高校生の男女が、同じ屋根の下、二人きりで寝泊まりしている。冷静になって考えてみれば、それは世間一般では『同棲』と呼ばれる状態にあたるのだろう。相手がヒロエであるからとして、アユムは今までその事実に気が付かないフリをしていた。
「いいじゃん。アユムは男で、あたしは女だったってことだ」
そんなことで、ヒロエに男だと認められて。
アユムが望んでいたことは、そういうことなのだろうか。
コーラのボトルを手に取り、ぐっと握る。沢山の水滴が付いて、ひんやりと冷えている。アユムは栓を捻って開けると、中身を一息に口の中に流し込んだ。
むせそうになるくらい、炭酸の泡が弾けて膨らむ。甘い。歯が溶けるだなんだと文句を言われて、子供の頃には飲めなかった味。胃の中から逆流してくる感覚に顔をしかめて。
アユムは、はっきりと宣言した。
「そんなのは、嫌だ」
はるか遠くを見据えるアユムの横顔を眺めて。
ヒロエは、小さな声で応えた。
「そう。判った」
太陽が地平線の下に消えて。
ヒグラシの声が、辺り一面からざわめき立った。
夏が来る前に、定期試験がある。尖央大学でも他の大学と同じで、七月になると前期試験期間に入る。シンの周りもにわかに慌ただしさが増して、図書館や購買部のコピー機に行列ができるようになった。大学の前にある喫茶店に、何故コピー機が設置されているのか。シンはその理由を身をもって知ることになった。
大学の試験の大部分は資料の持ち込みが可能だ。試験の問題は毎年毎年、ビデオに録画してあったみたいに全く変化のない教授の講義の内容から出題される。板書を写したノートが手に入るかどうか、単位の取得はそこにかかっていた。
自分で授業に出て、ノートを取っていれば慌てる必要はない――そんな正論はどうでも良かった。試験本番までにノートの写しを手に入れること。ノートの内容を素早く書き写すこと。「直筆のみ持ち込み可」などという、今のデジタル世代の言い分など知ったことではない老教授のわがままに対応すること。それこそが求められている全てだった。
国文一年の榊田シンも、ご多分に漏れずノート争奪戦を繰り返す毎日だった。とはいえ、シンの場合は魔法研究会に優秀な先輩たちがいた。
教育二年の橘ユイは、見るからに優等生という感じだ。去年受けた一般教養科目のノートは、このまま出版しても申し分ないくらいに美しくまとめられていた。同じく教育専攻、三年の丸川アユムも、理路整然とびっしり書き込まれたノートを作成していた。またシンの予想に反して、経済三年の富岡ヒロエまでが、しっかりと自前の講義ノートを作成、管理していた。
そしてこちらは、やはりと言うべきか、意外と言うべきか。心理四年、宮屋敷コトハのノートは、もはや象形文字の解読スキルが必要なレベルでひどかった。
コトハ自身は「本人が読めればいい」と、ありがちな理屈、というか言い逃れを述べていたのだが。試しにシンが数ページ分の解読を依頼してみたところ、数行もいかずに撃沈した。こうして地上に新たな解読不能な怪文書、第二のヴォイニッチ手稿が創出されたことになる。シンは丁重にコトハのノートを辞退した。コトハの場合は、これで成績は上位の方だというのだから解せない。
そんなこんなで、駆け抜けるような二週間が経過して。今はようやく、前期の単位取得の見込みが立ったところだった。
シンは、魔法研究会の活動のため、ヒロエの家にやってきていた。
当初「離れ」と聞いていたので、シンは魔法研究会の部室のようなプレハブを想像していた。ヒロエはそこで寝泊まりしているという話だし、流石にあそこまでのズタボロではないだろう。広さとしては部室に毛が生えたくらいか、あっても今シンが生活しているマンションの部屋程度ではなかろうか。シンはそんな腹積もりでいた。
それが、ごく普通の一戸建て住宅であるから驚いた。コトハのマンションの時は、色々とスケールが大きすぎて感覚が麻痺してしまっていたが。今回は、シンと地続きの範囲内での驚きだ。娘一人に、離れと称して家一つ与えるとか。実はシンが知らないだけで、魔法研究会というのは金持ちたちの巣窟なのだろうか。
離れの家の中は、全体的にがらん、としていた。家具の類がほとんど置かれていない。普段ヒロエが一人で住んでいるというのなら、そういうものなのかもしれない。
「荷物置いてくるから、適当にしてて」
そう言い残して、ヒロエとアユムはさっさと二階に上がっていってしまった。アユムの方は完全に勝手知ったる振る舞いだ。コトハの話では、ここはすっかりアユムの第二の自宅になっているということだった。
「これ、普通に同棲だよね」
一階に残されたシンの隣で、コトハが呆れたように独りごちた。
艶やかで長い黒髪を、暑いからという理由で最近は丁寧に編み込んであった。形の良い小ぶりの耳が姿を見せていて、そこに赤い下縁の眼鏡が乗せられている。きゅっと持ち上がった吊り目からは、才媛の雰囲気が感じられるが、中身の残念さは講義ノートで実証済みだ。それでも、コトハは見てくれだけなら理知的な美人、申し分のないお嬢様だった。
今日は部活動で外にいく前提だからか、いつものタックスカートではなくガウチョパンツに半袖のブラウス姿だった。それほど代わり映えする訳ではないが、ブラウスだとどうしても胸元に目がいってしまう。あの大きさを無理に収納したボタンが、いつか弾け飛ぶのではないかと、シンはどきどきした。
「奥にリビングがあるから、そっちで待っていよう」
「は、はい」
いかんいかん、とシンは妄想を振り払った。ここしばらく試験が忙しくて、あまり部室に顔を出していなかったせいか、コトハに対する耐性が低下している気がする。ただでさえ夏はみんな薄着になる。今日は所用で欠席しているユイも、半袖に巻きスカートという服装でいるところを大学内で見かけて、シンにとっては十分に目の保養になった、
「榊田君」
コトハがぐるん、と首を回してシンの方を向いた。
「女子の家にきて緊張するのは判るが、やや挙動不審だぞ」
一瞬、シンは自分が何を言われているのかまるで理解できなかった。
「ああ、なるほど。富岡先輩って女子でしたね」
「おい。それをヒロエの前で言うなよ?」
しかし、ヒロエだ。部室で煙草を吸って追い出されたり、飲み会でぐでんぐでんになるまで酒を飲んだり。児童館では男の子を率いてサッカーやバスケで走り回っているので、どうにも『女子』のイメージが連想しにくい。いつも一緒にいるアユムの方が、むしろずっと女の子っぽい印象がある。
「女子の家って、こんなヤニ臭いものですか?」
わざわざ嗅ぐまでもなく、屋内全体にニコチンの匂いが染みついている。どこであっても注意されるので、恐らくヒロエが気兼ねなく煙草を吸えるのは、この家の中くらいなのだろう。それにしても、限度というモノがありそうだが。
「言うな。榊田君の方こそ女子に対する幻想を捨てるべきだろう」
「現実は厳しいですね」
畳敷きのリビングには、大きな液晶テレビと、四角い小さなテーブルだけが置かれていた。テーブルの天板にはグリーンのマットが敷かれており、すぐ脇に麻雀牌のケースが放り出されている。この現実は、相当に厳しい部類に入るのではなかろうか。
コトハはそれを見ないフリをして、部屋の隅に積まれていた座布団をぽいぽい、と放り投げた。サッシの外には、芝も何も植えられていない殺風景な庭が広がっている。そろそろ夕方になろうという刻限だ。
「さて」
座布団の一つに腰を下ろすと、コトハはシンを見上げた。眼鏡のレンズがきらりと光って。
口元に、怪しい笑みが浮かんだ。
「膝枕の禁断症状とかは出ていないかね?」
シンは応答に困り、しばらくその場に固まった。コトハは愉快そうにシンの様子を観察している。相変わらずこういうことを言ってくる。魔女先輩には困ったものだった。
コトハは、近い将来にシンと結ばれる運命にある。その未来は不確定なものであって、絶対と言い切れるものではない。
それは可能性の一つに過ぎない――そう言われてはいるのだが、ここ最近はもうそれが決まりきったものに感じられつつあった。大学の裏山に棲む神様にまで、仲睦まじいと評されるくらいだ。
正直に言えば、コトハは美人だし、スタイルも良い。コトハと愛し合う関係になると言われれば、悪い気はしない。家が金持ちとか、お得感で考えればキリがないだろう。
しかし、そういった理由で「好きになる」というのはどうなのだろうかと、シンはいつも自分でブレーキを踏んでしまっていた。コトハには沢山の属性がある。シンがコトハのことを好きになるというのなら。
シンは、どんなコトハのことを好きになるべきなのか。
コトハの横に、小さな女の子が立つ姿が見えた。コトハに似た、長くて黒い髪。人形のような手足に、すらりとした体つき。白いワンピースが似合う季節になった。シンとコトハ、二人の間に産まれることになるという娘、シキと名付けた魂だ。
シキはコトハと並んで、じっとシンのことを見つめてきた。親子そろってシンのことを誘惑してくる。宮屋敷家の魔法使いとは、恐ろしいものだ。
「お陰様で、今のところは」
コトハはくつくつと笑った。
「それはそれは」
シキも同じように笑っている。これが、シンの妻と娘。いつか訪れる家族の姿だ。
これが手に入るというのならば、焦る必要など何もない。シンはやれやれ、と手近な座布団の上に胡坐をかいた。




