あなたがみている(6)
梅雨の合間に、ほんのささやかな晴れ間が覗いた。微かに夏の匂いが感じられる湿った空気。ぬかるんだ足元に気を付けながら、シンは独りで大学の裏山を登ってみた。
前回は労働の後での登山だったので、必要以上に大変なことになってしまっていた。体調が万全な状態であれば、このぐらいの山道など大したことはない。むしろいい気分転換になりそうなぐらいだ。
鳥の鳴き声が響いて、シンはぐるり、と辺りを見回した。授業が終わった後にきたので、時刻はもう夕暮れが近い。オレンジ色が混ざり始めた森の中は、しんと静まり返っていて、がちゃがちゃとした大学の喧騒を忘れさせてくれるようだった。
ほっと気が抜けたところで。
シンは、突然背筋が凍りつくような冷たさを感じた。魔法使いとしての第六感が、何かの危険を察知している。驚いて改めて視線を巡らせたが、シンの眼にはうっそうと茂る緑が映るだけだった。
ユイのように、何かがいれば確実にその姿を捉えられるわけではない。ユイの話では、キクリの聖域であるこの山には、そこまで悪さをするモノはいないだろうとのことだった。
シンを守る者であるシキは、シンの生命に直接の影響がない限り、過剰な防衛反応はおこなわない。絶妙な力加減をしてくれていることになる。しかし、それが却って扱いにくいという側面も持っていた。軽い悪戯程度のちょっかいや、精神的な攻撃には何の反応も返さないのだ。以前のようにまた足でも絡め取られれば、シン一人では対処が難しいだろう。
横に立つシキの様子を見ると、どこかあさっての方向をじっと凝視していた。どうやら何かがいたのは間違いなさそうだ。たまたま通り抜けただけなのかもしれない。ユイがいればはっきりとしたのかもしれないが。
シンは、今日はどうしても一人でキクリと話をしたかった。
「ようきたのう、榊田シン」
人気のない社の前までくると、キクリが出迎えてくれた。麻の薄汚れた着物に身を包んだ、幼い女の子の姿。間違いない、これはキクだ。シンはキクリに向かって両掌を合わせると、丁寧に一礼した。
「キクリ様、俺は――」
「先日はすまなかった。お主の『感応』が思いのほか強くてな。魔法使い相手というのは加減が難しい。許してたもれ」
シンの言葉を遮って、キクリは小さく頭を下げた。「はぁ」と曖昧な返事をしたところで、シンの後ろからシキが、ととと、とキクリの前に駆け寄った。
「おう、娘御も元気そうで何よりだ。前よりも存在がしっかりとしておる。夫婦仲睦まじくて良いことだ」
まだ夫婦ではない、という言葉をシンは飲み込んだ。シキはキクリに頭を撫でられて嬉しそうにしている。コトハと触れ合うことに『理由』がいらなくなったというのは、進展と言っても良いのだろう。今更、なのか何なのか。どうにももどかしい感じだ。
「恋なぞというのは、そんなものであろう。お主は『ひとおもい』ゆえ、色々と難しく考えすぎておるだけだ」
『人を想い流れる涙』、通称『ひとおもい』はシンの魔法使いとしての二つ名だ。二つ名は魔法使いの性格や生き様を表す言葉で、その精神に刻み込まれている。シンは自分の二つ名『ひとおもい』を初めて聞いた時、何故かとてもしっくりときたことを覚えていた。
キクリはシキから手を離すと。
「のう、榊田シン」
シキの姿を見つめたまま、静かに語り出した。
「お主は幸せそうだ。お主の伴侶となる宮屋敷コトハも、産まれくるこの娘御も、幸せで光り輝いておる。悲しみの海から生まれ出でた儂には、正直眩しすぎるくらいだ」
シンはうつむいた。キクリの持つもっとも古い記憶。キクという幼い娘と、その兄。キクリは、そのむごたらしい歴史が繰り返されることのないように、という願いからその存在を得た。
「世の中にはまだ無数の病がある。だがそれはもう、神様によって扱われるものではない。人が、医術を用いて克服するべきものになった。人は自らの力だけで、悲しみをなくし、幸せを紡いでいけるようになった」
世界がまだ人間の手に余った時代、神様はその願いを聞き届け、人々をゆくべき道へと誘ってくれた。しかし、それはもう昔の話だ。人間は神話の理からは手を切り、自らの足で歩みゆく道を選び取った。
「神様は・・・願いをかなえるための神様というものは、もう必要のないものだ。儂はここで、ただじっと自分が無用となることを身に染みて理解しながら」
キクリは空を見上げた。茜色に染まりゆく中に、薄紫の雲がたなびいている。薄暮。沈みゆく世界。
「これで良かった、と思うておったのだ」
病の苦しみからの解放を願う人々の声。自らの姿の礎となったキクという少女。キクリという存在は、流された多くの涙で象られている。
「儂の存在は、悲劇の記憶でしかない。このようなものは、おらん方が良い。儂などいなくても良い世界。それが訪れたというのであれば――」
「いいえ、キクリ様は必要です。いてくれないと困ります」
キクリは正面に向き直った。きつく口を一文字に結んで、シンは真っ直ぐにキクリのことを見据えていた。
「・・・この期に及んで、儂に何をしろというのだ、魔法使い?」
「そこにいて、俺たちのことを見守っていてください。キクリ様の言う、平和で幸せな世界が続くことを、しっかりと見届けてください」
シンの右手を、シキが握った。身体などなくても、シンにはその温もりが感じられた。シキが、真に幸せで満たされた魂であるというのなら。
「キクが求めた世界、望んだ世界を、キクリ様はその眼で見て、その身で感じてください。そうでなければ、それこそ何も報われない。他の誰でもない、キクリ様に幸せになってもらわなければ、俺は納得できない」
春を夢視て――兄と二人で笑い合えることを望んだキク。「兄ちゃ」どこかからキクの声が聞こえた気がして、キクリは胸の奥がずきりと痛んだ。
「儂の幸せか。それは、お主ら人の子が笑って、幸せに生きることだ」
「それなら」
シンは再び両掌を合わせた。その横で、シキも同じように合掌する。その姿を見たキクリの中に。
熱い炎が灯った。
「俺が、宮屋敷先輩と幸せになれますように、娘と一緒に笑って暮らしていけますように。キクリ様にお願い申し上げます」
キクリは、自分の内に光り輝く何かが生じたことを知った。
今までのキクリを支えてきたのは、悲しみを繰り返させない、という願いだった。
それが、シンの願いを受けて変わりつつある。苦しみや、痛みではない。
ここにある幸せを、可能な限り長く続けていきたいという想い。
そのあまりに眩しくて、正視に堪えない光を。
キクリは自分のもっとも深いところ、心の底にそっと仕舞い込んだ。
「・・・榊田シン、儂の力はだいぶ衰えておってな」
かつてのキクリであれば、この山のみならず辺り一帯に対してまで、十分な影響力を与えることができた。しかし、尖央大学のキャンパスができて以降は、せいぜい社の周りが精いっぱいだった。
「お主が初めてここを訪れた際、よく判らぬモノに絡まれたであろう。あのようなモノをはびこらせてしまう程度に、儂の力は弱まってしまっておるのだ」
道ゆく者を困らせるだけの、迷惑千万な悪意のあるモノ。キクリが全盛の力を誇っていた頃であれば、そんなモノは存在すら許さなかった。
「そういえば、さっきも何かに見られたような気がします」
シンはここに来る途中に感じた、冷たい気配のことを思い出した。自嘲するように、キクリは小さく鼻を鳴らした。
「儂の力が弱くなれば、この山を棲家にしてどうこうしたいというモノは多かれ少なかれおるのだろう。なんとも迷惑な話だ」
キクリの社には、近隣の子供たちが遊びに訪れることがある。キクリがいるうちはいいが、それもいつまでもつのかは判らない。そのこともあって、ユイは子供たちの姿を見かけると追い返すようにしていた。
「力ない神とあざけるやもしれぬが」
そんなささやかな平和も、自分がいなくなればそれまでのものだと思っていた。仕方がないと諦めていた。キクリは自らの小さな掌を握りしめた。身体はなくとも、強い心はここにある。
キクリを支える、新しい力。かつては、かろうじて自分がここにいることだけを保ってきたものが。
今この瞬間は、焼けるような熱さを持ってたぎっている。キクリにはそれがはっきりと自覚できた。
「儂に力を貸してくれるか、魔法使いよ?」
キクリの身の裡で。
キクが、笑っている。
「はい、喜んで」
世界は変わった。もうその悲しみは、ここにはない。
ならば、得られた幸せを、喜びを。
キクリは、守っていかなければならない。見届けなければいけない。
人が自ら選んだ世界の理が揺り戻さぬように、優しく見つめる眼差しでなければならない。
あっという間に夜の帳が降りてきて、シンは携帯の明かりを頼りに下山した。陽が落ちると、街灯もない山道は完全な暗闇に覆われてしまう。次にくる時は、もう少し早い時間帯にした方が良さそうだ。
帰り道は、特別なことは何もなかった。ぬかるみ気味の地面に足を取られ、せり出した木の根につまずき、二、三度ほど尻餅をついただけだ。まだまだ運動不足が解消できたとは到底言うことはできない。週一程度でキクリの社に詣でるくらいの気概が必要だろう。コトハに「逞しい」と褒めてもらえる日はだいぶ遠そうだ。
がさり、と薮を抜けてハイキングコースから外に出ると、目もくらむような強い光がシンの顔を照らしてきた。懐中電灯だ。余りの眩しさに、シンは思わず両掌を顔の前にかざした。
「あれ、榊田君?」
光はすぐに下を向いた。シンの視界が慣れてくると、そこにはコトハとユイが立っていた。
「宮屋敷先輩と、橘先輩、こんばんは」
挨拶したシンに向かって、ユイがぐいっと距離を詰めてきた。
「榊田君、今、キクリ様の社にいってたんだよね?」
「え、ええ、そうですけど」
「誰か、他に誰か見なかった?」
シンは道中の記憶を振り返ってみた。山の中は静かだったし、誰かとすれ違うことも、人影を見ることもなかったように思う。
「誰も見てない、と思いますけど」
シンの返事を聞くと、ユイは「そう」とうつむいて黙り込んだ。何やら焦燥している。事情が呑み込めないシンに向かって、コトハが説明してくれた。
「近所の子供が一人行方不明なんだ。暗くなっても家に帰らないらしい。我々も協力して探しているところだ」
尖央大学のボランティア系サークルは、部室で近隣の子供たちを相手に簡単なワークショップを開いたりすることがある。そちらに顔を出していないかと、大学内のサークル全てに確認がきたということだ。
魔法研究会にも声が掛けられて、コトハの指示により部員全員で捜索の手伝いを開始したところだった。
「いなくなった子、アキヨシ君っていって、この前キクリ様の社のところにいた子の一人なのよ」
そう語るユイの顔は真っ青だった。
「久しぶりに雨が止んで、他の友達にも『山に行かないか』って声をかけていたらしいの」
大学の裏山は、以前ユイが言っていた通り、子供だけでの立ち入りが学校で禁止されている。しかし、駄目と言われればそれを破りたがる者というのはどこにでもいた。特に子供というのは天邪鬼だ。ユイはキクリの社の世話をするついでに、山に入ってくる子供たちに注意をするようにしていた。
アキヨシは低学年の子供たちのリーダー格的な存在で、頻繁にキクリの社の近くにやってきていた。何が気に入ったのか知らないが、何度追い返しても懲りずに現れるので、ユイもキクリも半ば呆れてそのままにしていたのだ。
「他の子たちはみんな家に帰ってた。ひょっとしたら、アキヨシ君は一人で山に入ったのかもしれない」
ユイは、ぎゅう、と自分の腕に爪を立てた。キクリの社の裏の池。そこは、かつてキクの兄が命を落とした場所だ。万が一の事故が起きたとなれば、最悪の事態が想定される。
「キクリ様の社には、俺以外誰もいませんでした。もしいたなら、キクリ様も気が付いたはずです」
シンは断言した。少なくとも、日没の寸前まではシンはその場所にいた。そんなことはまずあり得ない。
「そう・・・そうだよね・・・」
緊張の糸が切れたのか、ぐらり、とユイの身体が揺れる。コトハが素早くその肩を支えた。
「ユイ、悪い方向に考えすぎだ。今はとにかく心当たりを探してみよう。榊田君も、降りてきたばかりのところ悪いが、協力してくれるかね?」
「わかりました」
シンは力強くうなずいた。暗い中、周囲をあまり見ずに急いで下ってきたのだ。ひょっとしたら見落としがあったかもしれない。
黒々と口を開けた山道へと引き返そうとした時。
どう、と風が吹いた。
木々が揺れ、何かの気配が駆け抜けた。
ざざざ、と枝がこすれ、巻き上げられるようにしてトンネルを作り出し。
その中を、見えない何者かが山頂目がけて疾走した。
「キクリ様!」
ユイが声を上げて、シンは驚いて目を凝らしたが。
そこには、ひらりひらりと舞い落ちる木の葉だけが残されていた。




