はんぶんのきもち(2)
ユイの淹れたインスタントコーヒーを飲んで、コトハはようやく目が覚めてきた。ずり落ちた眼鏡を押し上げて、長い脚を組む。三角帽子こそかぶっていないが、持っている雰囲気はまさしく『魔女先輩』だ。
「さて、榊田君は相変わらず。シキの方もいつも通りという感じだね」
コトハによると、最初、シンにシキの姿が見えていなかった頃、シキの姿は今にも消えてしまいそうな不確かなものであったらしい。それが、シンの能力の『栓』を外した途端に鮮やかに色付き、今のようなくっきりとした女の子の外観を得たのだという。
「この子は間違いなく『魔法使い』榊田シンの娘なのだよ」
掌を広げると、コトハはシキのおでこの辺りに近付けた。シキが察して、自分の頭をコトハの手にこすり付けた。コトハがシキを撫でることはできないが、シキが撫でられることはできる。シキのそんな様子を、コトハはうっとりと眺めた。
「宮屋敷先輩の娘、でもあるわけですよね?」
「そうだね。この子は君と私の子供として産まれたがっている。その組み合わせが、恐らく強力な魔術存在を作りだすための、良い配合なのだろうな」
あっさりとそう応えると、コトハはシンの方を向いた。
「産まれる前から押し掛けてこれるほどの強い力を持っているんだ。私としてはシキにとても興味があるし、正直、是非産んでみたいとまで思ってしまうのだが・・・」
コトハにじっと見つめられて、シンは思わず目を逸らした。コトハと子供を作る。どう転んでもそういう方向に考えが進んでしまう。横に座っているユイがどんな顔をしているのか。シンは針のむしろに座らされている気分だった。
「まあ、それは榊田君の意思次第かな。未来っていうのは可能性でしかない。そういうこともあり得る、っていう程度の話だ」
コトハは小さく笑って、コーヒーを一口すすった。
「可能性、ですか?」
それまで黙って聞いていたユイが、コトハに問いかけた。
「そうだよ。未来は決まっていない。シキの場合は、産まれる際にかなり強い力を授かるんだろうね。こうやって因果を辿って自分の発生を促すことができるくらいに」
シキはコトハの横にじっと立っている。名付けたのがコトハだから、ということもあるのだろうか。シキ、という名前はすぐに認識し、自分のことだと判るようになった。しかし、他の言葉についてはわかっているのかいないのか、イマイチ判然としない。シキに関しては、まだはっきりとしないことばかりだった。
「じゃあ、俺が宮屋敷先輩と結ばれなかったら?」
「その時は、シキは消えるだろう。可能性の消滅と同時に、ね」
ぞっとして、シンはシキの顔を見た。つい最近になって自分の前に現れ、姿が見えるようになった女の子。この子は、自分がこの世界に生れ落ちるために、正に命を懸けてシンの下を訪れてきた、ということになるのだろうか。
「こうやって姿が見えると情も移るし、その気になってきちゃうかい?」
他人事のようなコトハの物言いに、シンはまたむっとした。コトハにとっては、シキは『純粋な魂』という、せいぜい物珍しい存在程度でしかなく。シンはその発生のために必要な触媒、ぐらいの扱いなのか。
「なんだか薄情な言い草ですね」
「おいおい、しっかりしてくれ榊田君。君の方が情に流され過ぎだ」
マグカップをテーブルに置くと、コトハはソファの背もたれに体重を預けた。ぐい、と胸が持ち上がる。大きい。意識していなくても、つい視線がそちらに向いて赤面してしまう。反則だ、とシンは目を泳がせた。
「シキは生きている存在ではない。産まれてくるかもしれない可能性の一つというだけだ。それに感情移入してしまって、好きでもない相手とそういう関係になることを、君は望むのかね?」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
こんな子供が産まれてくるんだから、一緒になりましょう――というのは変な話だ。シキは産まれたがってはいるが、シンやコトハの意思を無視してまで産まなければならない、なんて道理はない。
「私と榊田君は、出会ってまだ一ヶ月も経っていないんだぞ? そこで結婚というか、出産を前提にお付き合いをするというのはかなり問題があるだろう」
というより、問題しかない。
「なぁに、今すぐである必要はない。シキの様子を見ていると、あれから大きな変化はないし、ゆっくりと考えればいい話だ。私も、榊田君もね」
コトハに言われて、シンはようやく落ち着いてきた。難しく考えていた。というよりも、目の前のコトハとシキに振り回されて、焦り過ぎていたのか。
「まあ、榊田君には榊田君の女性の好みってものもあるだろう。私みたいな年増より、例えばユイとか」
「なっ」
「えっ」
シンとユイは同時に声を上げた。慌ててユイが両手を前に出して振り回した。
「ええっと、ごめんなさい! じゃなくて、その、年下は、ちょっとないかな、って・・・」
「榊田君、どうするよ。何も言う前にフラれたぞ?」
「宮屋敷先輩がおかしなことを言い出すからですよ」
そう応えつつ、シンは密かにショックだった。真面目でお嬢様という感じのするユイは、コトハとは違って正統派の美人だ。そんなユイに真っ向からお断りをされると、思ったよりもダメージが大きかった。
「人生は長い。きっといい出会いもあるさ」
「俺、なんで慰められてるんですか・・・」
あっはっは、とコトハは愉快そうに声を上げて笑った。自分も当事者だということをすっかり棚に上げている。
「宮屋敷先輩はどうなんですか?」
「私か? そうだなぁ、私もできることなら年上で、もう少し背が高くて、たくましい人が良かったかなぁ」
シンの身長は、低くはないくらいで、高い部類では決してない。中学までは部活でサッカーをしていたが、高校に入ってからは本の虫で運動らしい運動はまるでしてこなかった。痩せ型で、人からはよく不健康そうだと評される。
「少なくとも、榊田君は白馬の王子様ってガラじゃないね」
言われたい放題だった。
なんだかどっと疲れてうなだれたシンの頭を、シキが優しく撫でてくれた。いい娘だ。その母親は、くつくつと意地の悪い笑い声をこぼしながら、ソファの上でふんぞり返っていた。
「ほら、時間はあるんだからさ。これからお互いの良いところを見つけていけば、それをきっかけにして愛が芽生えるかもしれないじゃないか」
恐ろしく可能性が薄そうだ。シンは心の中で独りごちた。
コトハのエンジンが良い感じにかかってきたところで、部室のドアがノックされた。
「おーい、宮屋敷」
ドアを開けて入ってきたのは、ぼろぼろの白衣を身にまとった、背の高い男だった。適当に短く切った感じのする髪に、無精ヒゲ。体格はそれなりにしっかりしていそうだが、猫背なせいで今一つ覇気が感じられない。
「佐次本先生、おはようございます」
突然何かのスイッチが入ったように、コトハはソファから跳ね起きた。いそいそとパンプスを履いて、先ほどとはまるで違った、温かみのある愛想笑いを浮かべてみせる。シンはユイと顔を見合わせると、やれやれ、と呆れかえった。
佐次本キョウスケは、この魔法研究会の顧問で准教授、コトハの心理学のゼミを担当している。三十八歳の中年男性で、キョウスケ自身もそれなりの力を持つ魔法使いだ。
コトハの生家である宮屋敷家が、その界隈では有名な魔法使いの一族であり、キョウスケも宮屋敷家に厄介になったことがあるのだという。そういった繋がりもあって、キョウスケは大学内でコトハの面倒を見たり、世話を焼いたりする立場にあった。
「今日はどうかされたんですか?」
コトハは身体の前で掌を組んで、小首をかしげてみせた。あまりにもあざとい。もう見慣れたものとはいえ、あまりいい気分のするものでもない。シンはキョウスケにぺこん、と頭を下げてから、自分の横に立っているシキの方に目線を移した。
「次のバザーの商品なんだけど、またちょっと妙なものが紛れ込んでいたんでな」
コトハの様子になど全く目もくれず、キョウスケは持ってきた大きめの段ボール箱をテーブルの上に置いた。どすっ、と結構な重さを感じさせる音がする。シンが中を覗き込んでみると、大小のガラクタが詰め込まれていた。
「頼まれてくれるか?」
「はい。もちろん、よろこんで」
あどけない少女のような笑顔で応えたコトハに、キョウスケは軽く片手を振って部室を出ていった。しばらく閉じたドアの方を無言で見送ってから、コトハはくるり、と室内に向き直った。
「・・・久しぶりにゼミ以外で佐次本先生とお話ししちゃった」
二十二歳の大人の女性が、目をキラキラとさせて、頬まで染めている。
「何で恋する乙女みたいなことを言ってるんですか」
「別にいいだろう。私が誰のことを好きだって」
むう、と唇を尖らせて、コトハはソファの方に戻っていった。パンプスを乱暴に脱ぎ捨てて、どすん、とお尻を落とす。ばいん、と色々なものが揺れ動いた。
「宮屋敷先輩の場合は、俺なんかよりも佐次本先生が相手の方が良かったんじゃないですか?」
「バカ言うな。佐次本先生は既婚者だ」
はぁー、とコトハは長い溜め息を吐いた。
「そんなことをしたら大迷惑をかけることになるだろうが」
魔法研究会に入部してすぐに、シンはコトハがキョウスケに好意を抱いていると察した。なにしろコトハには、キョウスケに対する自分の気持ちを隠すつもりなど、さらさらなかった。シンが最初に二人が会話しているところを見たのは、キョウスケの研究室に入部届を出しに行った時だ。高々事務的なやり取りを二言三言交わせばいいだけなのに、コトハはすっかり舞い上がってしまっていて、見ているシンの方が気疲れするほどだった。
キョウスケはコトハの言う通りすでに結婚していて、小学生の子供までいる。キョウスケ自身は、コトハのことは大して気にも留めていない、ということだった。学生を相手に授業をしていれば、こういうことはちょくちょくある話なのだそうだ。
それに、キョウスケにとってコトハは、自分が魔法使いとして世話になった宮屋敷家のお嬢様だ。迂闊に手を出すことなどは絶対にあり得ない。むしろ、キョウスケはコトハが間違いを犯すことがないかどうか、監視する側の立場だった。
「お互いに判ったうえでのことなんだから、別にいいだろう」
コトハに言わせれば、「好き」という感情は理屈で抑えられるものではない。素直に開放してあげた方が、鬱屈しておかしなことにならないで済むのだという。コトハがキョウスケへの好意をさらけ出し、キョウスケがそれをハイハイといなす。それが魔法研究会の日常であり、お約束であった。
「アイドルを好きになるようなものだと思ってくればいい」
「佐次本先生が、アイドルですか」
キョウスケは中年ではあるが、見た目が悪いということはない。年相応の魅力はあるし、文句なくイケメンの部類に入るだろう。ただ、アイドル、と言われるとシンにはピンとこなかった。そういえば、確か農業や土木作業を主に活動しているアイドルグループがいたか。年齢的にもそちらの方がイメージとしては近かった。
「島とか、海岸ですね」
「・・・榊田君は佐次本先生を何だと思っているんだ?」
「アイドルですよ。宮屋敷先輩が言ったんでしょう」
むむむ、とシンとコトハが睨み合った真ん中に、シキが割り込んできてきゃっきゃとはしゃいだ。楽しくおしゃべりしているようにでも見えたのか。それともそうやって仲直りさせようとでもしているのか。果たしてどちらなのだろうか。
シキの意図はどうあれ、シンは馬鹿馬鹿しくなってきて、キョウスケが持ってきた段ボール箱の方に身体を向けた。
「それより、これ、部活動ですよね?」
「結構な数がありますよ」
二人のやり取りを端から無視していたユイが、箱の中身を一つ一つ取り出してテーブルの上に並べ始めていた。ミニカーのような小さな玩具から、大きな犬のぬいぐるみまで。近所のリサイクルショップから引き取ってきた売れ残り――いわくつきの物品たちだった。
魔法研究会は、表向きには児童館などで活動するボランティアサークルということになっている。部活の名前通りのマジックショーを公演したり、他にはチャリティバザーに品物を提供したりしていた。
そのバザーの商品の仕入れが、リサイクルショップからの売れ残りの引き取りだった。
「数は多いけど、単純に売れないってだけのものばかりかな。先生が言うほどおかしいものは見当たらないか」
リサイクルショップでなかなか売れない商品の中には、奇妙な『いわく』がついているものがあったりする。平たく言ってしまえば、呪われている物だ。魔法研究会ではそういった品物を引き取って、まとわりついている負の力を綺麗に洗浄し、バザーに出品することを活動の一つとしていた。
「こういうのなんて言うんですかね、カースロンダリング?」
「『綺麗な呪いにする』っていう表現は、おかしくないかな?」
おしゃべりをしながらも、シンとユイはひょいひょいと段ボールから物品を拾い出して確認していった。お互いに魔法使いとして持っている能力のおかげで、何か変わったものがあればすぐに察知することができる。触って少し意識を集中する必要のあるシンよりも、見るだけで判別が付けられるユイの方が、こういう場合は適性があるといえた。
「どうだーい、なんかありそうかーい?」
この場にいる誰よりも強い力を持っているはずのコトハは、ソファの上で足をぶらぶらさせているだけだった。その横で、シキが一緒になってごろごろしている。あれは母親としては失格だ。シンは口に出かかった文句をぐっと飲み込んで、段ボール箱の底の方に手を突っ込んだ。
こつり。
冷たい、金属でできた何かに手が当たった。指先がぴり、と反応する。
まずい。
そう思った時には、後の祭りだった。やはり、直接触らないとその危険性が判断できないシンの能力は、イマイチ汎用性が低い。こういう状況に陥ると、全てが後手に回ることになる。
ふわり、とシンは身体が軽くなったような感覚に襲われた。実際には、その場にばったりと崩れ落ちている。思考がぼんやりとしたもやの中に包まれ、五感から得られる情報が次第に小さく、遠ざかっていく。
ああ、午後の講義どうしようか。
そんな考えが浮かんでから。
シンの意識は、ぷっつりと途絶えた。