あなたがみている(4)
キクリの社を後にして、シンとユイは大学の裏山から降りてきた。ハイキングコースの入口は、大学の裏門の脇にある。生い茂った薮に隠れていて、こんなところからどこにつながっているのか不安になるほどだ。
「じゃあ、私は直接帰るから」
部室に荷物を置いたままのシンは、そこでユイと別れた。サキチもユイに従って去っていく。数歩足を運んだところで、シンははたと気が付いた。ユイは、あのジャージ姿で大学に来て、そのまま帰宅するのだろうか。
振り返ると、足取りも軽やかなユイの後姿が見えた。度胸が据わっているのか、天然なのか。やはりユイも魔法研究会の一員、変わり者の一人だった。
やや陽が傾き始めている。シンはもうクタクタだった。カバンを取ったら、今日はさっさと帰ろうかと思いながら部室のドアを開けると。
「やあ、榊田君おかえり」
コトハが一人、ソファに仰向けに寝っころがって漫画を読んでいた。テーブルの上には、食べかけのスナック菓子が散乱している。シンの中に、言葉にならない感情がふつふつと込み上げてきた。
未来から来たネコ型ナントカとか、お化けのキューナントカとか。実際にいればこういう感じなのだろうか。シンは『これ』と、幸せな家庭を築くことになるらしい。未来の自分は、きっと忍耐のパラメータを振り切っているに違いない。魂まで漏れ出してきそうな勢いで、シンは深く溜め息を吐いた。
「なにやらお疲れの様子だね」
「まあ、疲れましたよ」
大量の本の運搬作業をして、その後すぐに山登り。普段からスポーツの類をしていないシンにしてみれば、明日筋肉痛になってもおかしくないくらいの運動量だ。キクリの社の冷たい湧水のお陰で、少しは疲れが取れていたのだが。コトハのだらけた姿を見たせいで、どっとぶり返してきた。
コトハは「よいしょ」と起き上がると、ソファの片側に腰かけた。シンの方をじっと見て、ぽんぽん、と太腿の上を軽く叩く。赤いフレームの眼鏡の向こうで、コトハの目は優しく細められていた。
「・・・ええっと、なんです、それ?」
「疲れてるみたいだからさ、労おうかな、と」
コトハはしれっと応えた。
「今日は魔力を消費するようなことはしてないですよ?」
まだ魔力の扱いに不慣れなシンが極端に消耗した場合は、コトハが直接接触――膝枕で補充をおこなってくれている。しかし、今日のところはいくつか驚くような出来事はあったものの、それだけだ。『感応』の力は使い込んでいない。
「榊田君は、まだそういう理由が必要かい?」
コトハの言葉に、シンは心臓がどきっ、と跳ね上がった。
「今日は色々と大変そうだと思っていたから、こうして待っていたんだよ。お詫び、だと思ってくれてもいい。何なら、私からお願いしようか?」
「・・・それはやめてください」
色々と観念して、シンは部室の中をずかずかと進んだ。コトハの隣に腰かけて、身体を横に倒す。何度もしてもらっているのだから、慣れたものだ。コトハは柔らかくて、温かくて。ふわり、と甘い香りがする。悔しいが、とても心地よい。
「榊田君、そういうところは妙に男らしいよね」
「意地張ってて、ガキっぽいだけです」
自分でも判っている。シンはコトハに対して、今一つ感情に素直になりきれなかった。なまじ未来が見えているからこそ、それに踊らされまいとして意固地になっている自分がいるのだ。
「ううん、そんなことはないよ。私は好きだな」
シンはコトハの顔を見上げた。
「前にも言ったかもしれないけど、感情は押し殺しても余計なストレスになるだけだ。吐き出してしまった方が楽だよ」
コトハの掌がシンの頬に触れて。
するりと、くすぐるみたいにして撫で下ろした。
通り過ぎた跡にも、コトハの体温が残っている。身体のあちこちに、コトハを感じる。シンは自分の境界線がなくなって、そのままコトハの中に溶け込んでしまうような錯覚に陥った。
「多分、この気持ちを育てていけば、私たちは幸せになれるのだと思う。少なくとも、私はそのくらいの感情は榊田君に対して持つようになったよ」
コトハの顔から視線を外して、シンは部室の中に目を向けた。そこには、やはりシキがいた。父親になるシンと、母親になるコトハが親しくしている様子を見て、嬉しそうに微笑んでいる。
シキのことは愛しく思うし、シンのために訪れてきてくれたことを鑑みれば、執着も沸いてくる。その未来は眩しいほどに魅力的で、手に入れることを悩む必要なんて何もないのかもしれない。
それなのに。お膳立てをされて、こっちにいけと指示されている方向に進むことは、シンの意志を無視しているとも考えてしまう。その道をいくとして、それは果たして、シンが自分で選び抜いて得た結果だと言い切れるものなのだろうか。
「シキが来なくても、俺は宮屋敷先輩と出会っていたでしょうか?」
二人を引き合わせたのは、シキだった。もしシキがいなかったとして。
「そうだねぇ。榊田君に魔法使いとしての素質があることに変わりがないのなら、何らかの形で魔法研究会は勧誘にいったと思うし、知り合った確率はかなり高いと思うよ」
シンが魔法使いになることは、シキの存在に因らず決まっていたことなのか。それは些細なことなのかもしれないが。シンにとっては、とても大事なことだ。シンの中でわだかまっていた想いは、ほんの少し晴れた気がした。
そんなシンの心境の変化を察したのか、シキが軽く首をかしげてみせた。言葉を発することはなくても、シンには何となくシキの言いたいことが理解できた。
『いいんだよ』シキの想いは、いつも曇りのない一直線だ。
「入り口は確かに普通じゃなかった。でも、現状私はちゃんと榊田君のことを好きになり始めてるし、こうやって身体を触れ合わせることも嫌じゃない。私の気持ちはそうなっているから、後は榊田君にお任せするよ。榊田君の未来は、誰にも強制されるものじゃない。ただ――」
コトハが言葉を詰まらせたので、シンは目線を戻した。はにかんだような笑顔は、初めて見る表情だった。
「好きになった人からは、やっぱり好かれた方が嬉しいかな」
宮屋敷コトハは、榊田シンの魔法使いの師匠であり、魔法研究会の先輩。近い将来に結ばれて、娘ができて、幸せな家庭を築くことになる相手。
「宮屋敷先輩」
そして今は。
「なんだい、榊田君?」
「眼鏡、似合ってます」
とても素敵な、可愛い魔女先輩だ。
「ありがとう。ちょっと派手かな、とも思ったんだけど」
コトハは意味もなく眼鏡の位置を整えた。判り難かったり、判りやすかったり。
恐らく、ずっとこのままだ。シンはコトハに振り回される人生を送ることになる。
とりあえずその覚悟だけは決めておこう。コトハの柔らかさと暖かさ。そして、好きという気持ち。それがあれば、シキのいる未来はすぐにやってくる。
『安産祈願』という言葉が脳裏に浮かんで。シンは軽く咳払いしてその妄想を振り払った。
「このあと文化会の予算会議があるから、六限が終わる頃にヒロエがくることになってる。申し訳ないけど、それまでだからね」
富岡ヒロエは経済三年、魔法研究会の会計担当だ。だとすると、残りはあと一時間弱くらいか。コトハは膝枕しながら、シンの身体をいたわるようにそうっと撫でてくれた。ほどよく疲労していることもあって、シンはうっかりすると眠ってしまいそうだった。
「今日はお疲れ様だったね。ご苦労様」
「宮屋敷先輩の意図は判ってますし、いいですよ」
ふむ、とコトハは顎に掌を当てた。
「榊田君をカッコよく鍛え上げようという私の意図を察してくれたのかい? じゃあ次はプロテインだな」
「そっちじゃないですよ!」
シンに突っ込まれて、コトハは愉快そうにくつくつと笑った。
「その話はやめよう。秘するが花、だ」
口許で人差し指を立てる。やはりそうなのだ。コトハは、魔法研究会の活動に時間が取られることによって、シンのバイトが減り、収入が落ちることを気にかけていた。その気持ちは素直に受け取っておこう。シンは心の中でコトハに礼を述べた。
「いっそのこと、宮屋敷の家に入っちゃう?」
コトハの提案は、ある意味素晴らしく魅力的な提案ではあったが。
「それこそ今はやめておきましょう」
まだ焦る必要はない。シンは、自分の人生はなるべく自分の手で作り上げていきたかったし。何より、今はこうやってコトハと過ごす時間が、とても愛おしかった。
「榊田君はいけずだなぁ。年上にここまで言わせておいて」
「真面目に考えさせてくださいってば」
コトハの気持ちがシンの方を向いているのなら、いつかその答えは出せるだろう。シキが望む、優しい未来。それはシンにとって悪くない選択肢だ。
「はいはい。じゃあ、待っているから。いつでもおいで」
不思議そうにコトハのことを見つめて、身体を起こしかけたシンに向かって。
コトハは満面に意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「お父様が、今度こそ父親の威厳を示してやると息を巻いているのでな。宮屋敷家に魔法使いの門下生として入ってきたのなら、血ヘドを吐くような修業が待っていることだろう」
「ちょ」
向こうが勝手に罠を仕掛けて、暴発して、コトハに叱られた、というだけなのに。とんだとばっちりだ。逆恨みも甚だしい。
「心配はいらないよ、榊田君。ウチのモットーは生かさず殺さずだ。命を落とすこと『だけ』は絶対にない。保証しよう」
「すいません、ホントに真面目に考えさせてください」
だらだらと脂汗が噴き出してくる。魔女先輩は、結局のところ魔女先輩だった。物騒な会話の内容が判っているのかいないのか。
ソファの上に肘をついて、シキがにこにこと二人の顔を眺めていた。
身体が重い。熱い。
ぼんやりとして、何も考えることができない。
ここはどこだろう。目を開けて、周囲の様子をうかがおうとした。
ゆらゆらと、橙色の光が揺れている。古い木壁。隙間から、ぴゅうぴゅうと風が吹き込んでくる。冷たくて、気持ちいい。おかしい。
おんぼろの梁が見える。天井板の隙間から、星の明かりが覗いている。ああ、綺麗だ。今日は月が出ていない。外は真っ暗なんだろうな。
この前雨漏りしていたところはあそこか。だったら、今の内に教えてあげれば、直してくれるかもしれないな。
教える。直してくれる。
誰のこと?
そう考えたところで、がらり、と引き戸を開ける音がした。帰ってきた。良かった。ほっとして、顔がほころぶ。一人でいるととても不安になる。どんな時でも、いつでも一緒だったから。
「キク、大丈夫か?」
すぐ横に座り込んで、顔を覗き込んでくる。ぼやけていてよく判らない。やっぱり何かおかしい。
「兄ちゃ、どこいっとったん?」
そうだ、兄だ。キクには兄がいた。いや、そうではなくて。
キクには、兄しかいなかった。
産まれた時から、キクには兄しかいなかった。兄がキクを育ててくれた。いつも傍にいてくれた。今だって、このあばら家にキクと兄の二人で暮らしている。
小さな畑を耕して、集落のみんなと分け合って、ほそぼそと生きている。取り立てて良いこともないけど、悪いこともない。キクは、兄がいてくれればそれでいい。兄妹でここに住んで、並んで座って、笑っていられればそれでいい。
「薬になる草探してきた。だが、今の時期はなかなか」
ああ、そうだった。
キクは熱を出して寝込んでいた。今までにないくらい、高い熱だ。山の上にある冷たい湧水を兄が汲んできて、手ぬぐいを絞ってキクの額に乗せてくれた。いつもの風邪なら、これですぐに治ってしまっていた。
だが、今度の熱病はひどかった。しつこかった。流行病かもしれない。この辺りに医者などいない。兄はずっとつきっきりで、キクの看病をしてくれた。
「兄ちゃ、お腹すいた」
「根っこがある。今煮てやるけぇ」
冬の間は、食べるものがほとんどない。根っこはごちそうだ。キクの病を少しでも早く治すために、兄は奮発してくれた。凍り付いて固い地面を掘り起こし、柔らかくて滋養のある木の根を採ってきてくれた。
今はお腹が空いていて、寒くて苦しいことばかりだが。冬が終われば春がくる。キクは春が好きだった。お日様が暖かく照らしてくれる。山にはいっぱいの草花が芽吹いてくる。
早く春になればいいのに。
そうしたら、きっとキクのこの病も治って。
兄と一緒に、畑に出て。
また一生懸命働くことができる。くたびれたくたびれたってぼやいて。あははって笑って。
飽きるほどに繰り返した毎日を、また飽きるほど繰り返すことができる。
こん、こん。
乾いた音がする。
目を開けると、兄の背中が見えた。囲炉裏の火に照らされて、大きくなったり、小さくなったり。
こん、こん。
音は兄の方からする。なんだろう。兄の向こうに、何かが見える。
「兄ちゃ、なにをしてるだ?」
「キク、起きただか」
兄が振り向いて、優しく声をかけてくれた。その後ろには、腰かけみたいな太い木の塊が置いてある。辺りには木くずが散らばって、兄の小刀と木槌が転がっていた。
「兄ちゃはな、今神様にお願いしとってん」
「神様?」
昔、兄が良くキクに話して聞かせてくれた。神様は、天から地上に暮らしているみんなを見守って、助けてくれるのだそうだ。兄はキクに見えるように身体をずらすと、不格好な木の塊を示した。
「神様の姿を彫ってな、お願いするだ。キクの病気を治してくれって。そうしたら、神様はきっと願いを聞いてくれる」
キクの熱は、いつまでも下がらなかった。布団の中で臥せって、もう何日になるのかも覚えていない。ぼんやりとして、考えることもろくにできない。
神様にお願いすれば、病は治るのだろうか。
神様にお願いすれば、春はくるのだろうか。
それなら神様、お願いします。
兄ちゃと二人で、ずっと笑って暮らしていきたいです。
こん、こん。
その音は、ずっと家の中に響いていた。
こん、こん。
いつ果てるともなく、延々と。
こん、こん。
この音が終われば、神様が願いをきいてくれる。
こん、こん。
キクの病が治って、春がきて。
こん、こん。
また笑って暮らせる。
――そう、信じていた。




