あなたがみている(3)
尖央大学に入学して、ユイはすぐにキクリの気配を感じた。幼い頃から、身近に神様が存在していたからかもしれない。稲荷神社で審神者として修業を積んできた成果でもあるのか。ユイは大学の裏山を散策してみることにした。
「その時に、キクリ様にお会いしたの」
ユイと同じ神様に仕えていたサキチと共に、山の中を探して歩いて。ユイは、この古びた社のある広場に辿り着いた。訪れる者などほとんどいないこの場所は、去年辺りはもっと荒れ放題のひどい惨状であったらしい。
「橘ユイが色々と面倒を見てくれてね。今ではご覧の通り往時の面影を取り戻しつつある」
シンは古く変色した木造の社を見上げた。そんなに大きなものではない。中に人ひとり入れれば良い程度の、祠のようなものだ。現在でも十分にオンボロなのだが、これよりひどいとは一体どんな状態だったのだろうか。
「足の方はどうだね。少しは疲れが取れるだろう」
キクリに勧められて、シンは素足になって裏の池に浸していた。火照ってむくんでいた足の裏が、ひんやりと冷やされて心地が良い。
「ありがとうございます。すごく気持ちいいです」
「天然の湧水だからな。生水ゆえ、いまどきの者には飲むのには適さぬかもしれぬ。渇きを癒すなら腹を壊さぬようにな」
かかっ、とキクリは笑った。
シンの脇から、シキが顔を覗かせてその様子をうかがっている。それに気が付いて、キクリは「ほう」と目を丸くした。
「これは珍奇。お主、変わったモノを連れているな」
「娘のシキです。近い将来に産まれてくるらしいです」
この紹介の仕方で合っているのだろうか。言われてみればまさしく珍奇だ。キクリは楽しそうに目尻を下げた。
「未来が因果を辿ってくるなど、なかなかあることではない。決して失いたくないと強く願うくらいに、余程愛されることになるのだな。幸せそうでなによりだ」
そうなのだろうか。ぼんやりとしているシンの前で、キクリがシキの頭を撫でていた。一瞬ぎょっとしたが、キクリは神様だ。実体のないシキに触れるくらいは、造作もないことなのかもしれない。
「ははは、なんと、母親はあの宮屋敷コトハか。あのぐうたら魔法使い、所帯なんぞ持つとは思わなんだ。まああの乳袋が無駄にならんで済むのは良いことだ」
「そんなことまで判るんですか?」
驚いて目を見張るシンに向かって、キクリはふん、と鼻を鳴らしてみせた。
「お主らの因果のつながりは極めて強い。この娘御の魂を見れば色々と知れるよ。両親からとても愛され、温かく満たされるからこそ、その未来を失いたくないのだ。お主らそういう関係か?」
キクリにじっと見入られて、シンは思わずそっぽを向いた。
「いや、まだそんなんじゃないです」
「なら些か訪れるのが早すぎたかもしれんのう。大方、寂しがりな父親のために慰めに参ったのであろう。いずれにせよ、大儀なことだ」
何もかもがお見通しだ。これが神様というものか。すっかり舌を巻いたシンを見て、ユイはくすくすと笑った。
「今日の目的って、キクリ様に会うことだったんですか?」
シンに訊かれて、ユイは少し考える素振りをした。
「うーん、まあ、そうと言えばそうなんだけど」
ユイはキクリの方に、ちらりと視線を投げた。キクリは微動だにせず、黙って目を閉じていた。
「じゃあ、まずはキクリ様についてのお話を聞いてもらえるかな」
梢が風に揺れる音の中。そろそろ夏を感じさせる暖かい日の光を受けて。
長い時をそこで過ごしてきた社の周りを、ユイの優しい語り口調が緩やかに満たし始めた。
「今、尖央大学のある辺りにはね、昔は小さな集落があったのよ」
図書館や郷土資料館に足を運んで、ユイはそのことを調べ上げた。尖央大学のキャンパスができたのは四十年ほど昔。その頃この土地には数えるくらいの人間しか住んでおらず、大きなトラブルもないまま建設作業は完了した。
「その集落ではね、山の上にある小さな神社を大切に祀っていたんですって」
村の神様。そういった小さな信仰は、日本の各地にある。とりたてて珍しいものではない。ユイの実家が世話をしている稲荷神社も、そういった地方の土着神信仰に基づくものだ。
「尖央大学のキャンパスができる時に、集落は消えてしまったけど、山の神社は残されたのね。それがここ、キクリ様の社なの」
シンはキクリの方を振り返った。キクリは相変わらず、じっとそこに立っている。その姿が何故か――
とても頼りなく、はかないものに感じられて。シンは思わず目を細めた。
「集落の住民の方は近くに移住しただけで、この社のお世話も数年前まではされていたらしいのだけど」
ユイはそこで言葉を切ると、キクリを一瞥した。キクリは何も言わない。覚悟を決めて、ユイは口を開いた。
「今はもう、残念ながら誰もキクリ様の面倒を見てくれる人はいないのね」
「仕方のないことだ。儂の役割は終わったのだ。今の時代に、儂の存在は必要ない。それが自然の摂理というものだ」
キクリの声は静かで、何の感情も込められていなかった。当たり前のことが、ただ当たり前に起きた。キクリの口調はそう語っていた。
「榊田君、神様っていうのはね、自分だけでは存在できないんだよ」
人間には身体がある。生き物は、その実体を持って、存在を示すことができる。
では、実体のないものは、どうやってその存在を確固たるものとしているのか。
「私も神様から教わったんだけど、『見えないモノ』っていうのは、エネルギーなんだって。エネルギーがひと塊になって、存在を形作っている。そうやって、エネルギーをまとめあげているものが、『見えないモノ』の本質なんだって」
シンもコトハから聞いたことがあった。コトハはそれを『指向性のある力』であると説明していた。
風を直接目で見ることはできない。しかし、風が物質に吹き付ける様は観察することができる。そのため、たとえ見ることができなくても、『風』というものが『存在する』、ということは知ることができる。そして風は、『吹く』という『動き』をもって初めて『風』という存在を形作ることができる。
風の本質は、空気の動きだ。エネルギーがそういった形を取ることで、見えない存在、『風』が認知される。
「じゃあ、神様の本質って、何だと思う?」
ユイの問いかけに、シンは考え込んだ。神様を、神様たらしめているもの。それは。
「信仰、ですか?」
ユイはうなずいた。人間の神様を作り出したのは、結局のところ人間だ。その名前も、姿も。元々は人間が考え出したものにすぎない。人間が信じるから、神様はそこにいて、人間のための世界を護ってくれている。
「願ってくれる人、信じてくれる人がいるから、神様は神様でいられるのよ。だから」
ざあっ、と強い風が吹き抜けた。力がまとめあげられて形を持ち、そして。
そのまま、大気の中に霧散して消えていく。
「誰にも存在を認められなければ、神様は消えてしまうの」
「お主らは一つことを深刻に考えすぎだ」
黙り込んだユイに向かって、キクリは呆れたように腕を組んで言い放った。
「儂は必要とされた時にこの土地におり、不要とされたから消えていくという、ただそれだけの存在だ。今の時代、お主らそうそう真面目に神頼みなんかせんだろう。日々の守護を感謝したりなんかせんだろう。せいぜいお賽銭を投げて、おみくじを買って、吉だ凶だとはしゃぎよるくらいのものだろうが」
確かにその通りかもしれない。真剣に神様のことを信じている人間は、そんなに多くはいない。神社にいくことに、信仰はあまり関係がない。お祭りや初詣などは形骸化したイベントに過ぎなくて、神様の存在とは直接的には結び付かないものばかりだ。
「祭りだなんだは活気づけになるし、実のところあれはあれで大事なものなのだがな。まあしかし、儂のところとは無縁な話。願をかけられることもない些末な神など、いるだけ無駄というものだ。川向こうに大きな神社があるだろう。そういうのはあそこで面倒を見てくれる。それで十分だ」
「あそこの神様、『端末』じゃないですか」
ユイがそう言って頬を膨らませた。
「端末?」
「本人がおらんということだ。それでもちゃんと願いは届くよ。神社も盛っておるし、きちんと回っておるのならそれで良い。今の時代の在り方にうまく合致しておるのだろう」
よいしょ、とキクリは社の脇にある大きな石の上に腰を下ろした。
「なまじ姿が見えるからこそ、お主らは儂のことを気にかけておるだけだ。こんなことは珍しくもない」
「判っています。私も、消えていく神様を目の前で見たことがあります」
ユイは審神者だ。今までも、多種多様な神様と言葉を交わしたことがあるとのことだ。その中には、既に存在をなくしてしまった神様もいるのだろう。
「そやつらは、どうであった? この世に未練たらたらであったか? 消えたくないと無様にあがいておったか?」
キクリに問われて――
「・・・いいえ」
ユイは強く歯を食いしばった。
かつては力強く、雄々しく大地を統べていた大自然の神。
それが時代の移り変わりと共に、そのあり方を変えられて。
最後には、全ての寄る辺をなくして。
長い時間を共に過ごした眷属と、互いに寄り添い合って、その存在を失った時。
「とても満足しておられるようでした」
神様は、花の香りだけを残して消えた。夢視るように、幸せな笑顔を浮かべて。
「そうであろう」
ユイの悲しむ姿を見たくなかったのか、キクリはそっと目を伏せた。シンも顔を背けて、足を浸けている冷たい水面を見つめた。
「神様というのは、目的を持った存在だ。それを果たし終えたのであれば、さぞや満足であったろうな。儂ももう自分の役割は終えた。どれ、あとはこのまま消えていこうかと思っていた矢先」
ぽん、とキクリは膝を打った。シンとユイがそちらを向くと。
キクリは、にこやかに笑っていた。
「どこぞのおせっかいめが、儂に向かって消えてほしくないなどとぬかしよる」
『大いなる世界の善意』、通称『おせっかい』は、ユイの魔法使いとしての二つ名だ。どこまでも善良で、その意志を周囲にまでまき散らす。その二つ名にはユイの生き様、そして性格が良く表されていた。
「まったくもって迷惑な話だが」
キクリは天を仰いだ。神様として気の遠くなるような年月を経ても。
空だけは、変わらない。
「誰かに必要とされるというのは、神様冥利に尽きる。そのおせっかいのお陰で、儂は今ここにこうしておられるのだ」
キクリの社のことを知り、実際にキクリと話をして。ユイは、キクリの存在を支えようと決心した。
しかし、それは簡単な話ではない。一人二人の人間が信仰したとして、その程度では神様の力をまとめ上げるには遠く及ばない。ただ、世の中には例外的に強い力を持っている人間たちがいる。
「魔法使いなら、その魔力で強く神様の存在を支えることができると思ったの」
ユイ一人ではできないことも、魔法研究会の力を借りればなんとかなるかもしれない。当時まだ一年生だったユイの訴えを聞いて、コトハは宮屋敷家のコネを使って、数多くの魔法使いに声をかけてくれたのだという。
「宮屋敷先輩も、わざわざこの社まで足を運んでくれたのよ」
「本当ですか?」
ついさっき、「メンドイ」という理由でここまでくることをパスしていたのに。ユイの魔法使いとしての二つ名のために、コトハはそこまで協力を惜しまなかったのか。
「面倒臭いからもっと低いところに分社を作りましょう、とかのたもうておったのう。どこまで本気なのか判らん奴だった」
冗談だとは思うが、なまじ財力があるだけに洒落になっていない。そんなことを口にしなければ良い話だったのに。実にコトハらしいと、シンは苦笑した。
「ところで、俺は具体的に何をすればいいんですか?」
期待に目を輝かせているシンに向かって、ユイはすまなそうに説明した。
「ええっとね、実はもう十分なんだ。榊田君がキクリ様のことを認識して、ここにいるって思ってくれるだけで、とりあえずは支えになってくれてるの」
山を登って、キクリを見るだけで終わり。せっかくやる気が出てきたのに、拍子抜けも良いところだ。それではどうにも物足りない、中途半端な感じがする。お預けを食らった犬のような顔で、シンはキクリの方を見やった。
「そうだな、後は願いだな。儂に願をかけてくれるのなら、それもまた儂の意義として力強い支えとなる」
神様に願ってまでかなえたいこと。そんな何かがあるだろうか。シンはうーん、と考え込んだ。その顔を、ちらちらとシキが覗きこんでくる。『それ』は別にどうでもいい。シンがその考えを振り払おうとすると。
「恋愛成就系はあまり実績がないのう。まあ、お主らの場合は放っておいても大丈夫だ。子宝の方も確定しとるみたいだし、しかも今すぐにできてしまったら、逆に困ったことになるのではないか?」
シンはぐうの音も出なかった。ユイがまたもやくすくすと笑っている。どうも、神様という存在は意地が悪いらしい。まるでどこかの魔女先輩みたいだ。
「じゃあ、世の中が平和でありますように」
無難だが、こんなところだろう。両掌を合わせて、シンは一礼した。
「ふむ、儂の目が届く範囲にはなってしまうがな。心得たよ、榊田シン。お主にとって平和な世が訪れるよう、儂にも協力させてもらおう」
キクリは穏やかな声でそう応えた。




