あなたがみている(2)
こういう日もあるのか。はるか頭上にまで伸びる木々の隙間から射す陽の光を見上げて、シンは呆然とそう考えた。
「じゃあ、榊田君は借りていきますから」
「はいよ。男の子だし、ちょっとぐらい無茶させても平気でしょう」
にこやかなやり取りを経て、シンの大学の裏山登山が決定した。本人の意志に関しては、一応ユイの手伝いをすると宣言してしまっていた以上、同意とみなされざるを得ない。ならばせめてコトハを道連れに、と思ったが。
「メンドイ」
四文字で却下された。未来の配偶者はあくまで未来のものであって、今現在の段階では実に冷たい。いや、結婚しようが何をしようが、コトハのものぐさ加減が変わることはそうそうあり得ないだろう。シンは自分の将来に絶望した。
「大丈夫、榊田君? 疲れた?」
ジャージ姿のユイが、振り返って心配そうに声をかけてきた。その横には、尻尾を立てたサキチが並んでいる。もうちょっと格好がしっかりしていたのならば、美人山ガールなのに。やはりあのジャージはダメだ。いまいち目の保養にもならず、シンの疲労感もあっさりとピークを迎えていた。
「ちょっと疲れました」
「そう。もう少しだから頑張ってね」
ユイは前を向いてさっさと歩き始めた。魔法研究会の女子は、全員そろって情け容赦なしだ。シンは観念して、ロクに整備もされていない山道を踏みしめた。
ユイの頼みというのは、大学の裏山に一緒にきてほしい、というものだった。センスを疑うジャージ姿は、そのための準備だ。シンの方も、動きやすい服装でとは聞いていたので、ジョギング用のトレーニングウェアを着こんできていた。
「どこへいくんです?」
「それはナイショの方が面白いだろう」
ついてくるつもりもないのに、コトハは余計な口だけは出してくる。それでは到着してからのお楽しみ、ということにされて。
ハイキングコースと呼ぶには若干ワイルドすぎる山林の中を、シンはかれこれ一時間近くも登っていた。
「大学の裏山って、結構すごいんですね」
「二百メートル級だから、大したことないわよ」
そう言われても、シンには山の規模感がいまいちよく判らない。
「デカい丘みたいなもんだ。『裏山』なんて通称だろう」
ユイの横を歩くサキチは、人間二人のスピードに合わせて退屈そうだった。シンにとっては、ユイのペースでも十分に早いくらいだ。自身の運動不足を痛感して、シンは今着ているウェアを無駄にしないようにと心に誓った。
「橘先輩は、こういう山道とか得意なんですか?」
「ぜんぜーん。慣れてきたのは最近かな」
そう言いながらも、ユイは軽い身のこなしでひょいひょいと進んでいく。外見に捕らわれてふわふわした女の子だと思っていたら、相当に痛い目を見ることになる。そうでなければ、あの曲者ぞろいの魔法研究会にはいられない、ということか。
シンは頑張ってユイについていこうとしたが、どうにも足が持ち上がらなくなってきた。ここに来る前に、キョウスケの手伝いで一仕事終えてきた後だからだろうか。だとしても情けない。そこまで傾斜がきついわけでもないのに、シンは急に斜面が苦しく感じられてきた。
「榊田君、そこを動かないでね」
突然、ユイがシンの方に引き返してきた。軽やかに斜面を下って、シンの横に立つ。
「座って良いよ」
ユイの言葉に従って膝を曲げると、あっという間に腰から力が抜けた。どすん、と音を立ててその場に尻餅をつく。不格好に座り込んで、シンは、はぁふぅと荒い呼吸を漏らした。
「ここで休憩ですか。確かに今、もう足が動かなくなって――」
「んー、そうじゃなくて、悪さする子がいるから」
その場にしゃがむと、ユイはシンの足首の辺りに掌をかざした。
「よく目を凝らして、視てみて」
何を言われているのかよく判らなかったが、シンはじっと自分の脚を見つめた。特に変わったところはない。ただ、痺れたみたいになって、感覚がぼやけている。そう思ったところで。
「あっ」
「視えた?」
ユイが小さく微笑んで、シンはうなずいた。シンの脚に、太い蛇が絡みついている。両足にまたがって、複雑にまとわりつくような格好だ。尻尾の先と頭がどこにあるかは判らなかったが、鱗に覆われたまだら模様の背中が、ぬめぬめとした光沢を放っていた。
「頭とか尻尾は探さないでね。余計に絡まって、ほどけなくなるから」
「そうなんですか?」
「ないのよ、そんなもの。これは足をからめ捕るだけのものだから」
ユイの指示に従って、シンは蛇の塊から足を引き抜こうと試みた。たまに、ぐいっと締め付けるみたいに蠢くことはあったが、蛇は大人しいものだった。無事に両足が解放されると、蛇玉はそのまま空気に溶けるようにして消えてしまった。
「怖いものじゃないけどね。対応を間違えるとしばらく動けなくなっちゃうから」
「ついでに休憩にしましょう」とユイはそのまま腰を下ろした。サキチがひらり、とユイの脇に控える。こういうところを見せつけられると、シンはユイの魔法使いとしての力に圧倒される思いだった。
ユイの持つ力は、『魔眼』『邪視』『見鬼』など様々な言われ方をする。要は、目に見えないものを『視る』ことができるというものだ。
ユイは、生まれつきその力を当たり前のものとして持っていた。宮司のいない稲荷神社の世話をする家に産まれて、その神社の神様に力の手ほどきを受けてきた。そう聞くと何やら特別な力を持つ一族の印象があるが、その力は家族の中ではユイにしか現れなかった。
「私なんてまだまだだよ。視えるだけなんだから」
ユイの話によれば、ユイの他にもう一人、強い力を持った人間、幼馴染がいるらしい。その人物はユイの一つ下、シンと同い年なのだそうだ。尖央大学には入学していないが、神学科のある大学に通い、今でもその稲荷神社の神様のところで修業をおこなっているとのことだった。
「まあ、神様の旦那様だからね」
「旦那?」
「その神様と結婚しちゃったのよ」
「結婚? 神様と?」
その男は女の子の姿をした神様のところに婿入りして、将来的には眷属として神様の世界に入っていくらしい。話がすごすぎて、シンには想像もつかなかった。それに比べれば、シンとコトハの境遇なんて全然スケールが小さいだろう。
ふと気が付くと、シンの隣にシキが立っていた。五、六歳くらいの、綺麗な長い黒髪が似合う女の子。いつもと同じ白いノースリーブのワンピースで、足元は裸足で小さな指がむき出しになっている。
シキは、実体のない魂だけの存在だ。普通の人間には姿を見ることができない。魔法研究会の面々にはもうすっかりお馴染みで、シンとコトハの娘――正確には、未来において産まれることになっている娘の魂だった。
「シキ、なんか機嫌悪い?」
ぱっちりとしたシキの黒目が、今日は半目になっている。何か物言いたげだが、シキは言葉を発することができない。学習をつかさどる機能が存在しないためだろう、とコトハは分析していた。
シキの様子を見て、ユイはくすくすと笑った。
「そうか、ごめんね。榊田君が私と二人きりだから、心配してるのね」
なるほど、とシンは得心した。
シキは、未来の可能性の一つにすぎない。今はシンとコトハが結ばれて、シキが産まれてくることが確定的であるから、ここにこうして存在していられる。
これが何かの間違いで、シンとコトハが破局するような未来が選択されてしまうことになったとしたら。
シキはここから消えてしまうことになる。そうなることがないように、自分の産まれる未来を絶対的なものとするため。シキはわざわざ、父親になるシンのところにまで出向いてきているのだ。
「大丈夫よ、シキちゃん。榊田君は、宮屋敷先輩を悲しませるようなことはしないから」
「なんですかそれは」
ちらり、とユイは上目づかいでシンの方を見た。今はダサいジャージ姿で魅力半減中だが、ユイも十分に可愛い女の子だ。年もコトハよりもずっとシンに近い。あんまり『安全な男』扱いされるのは、それはそれでシンには面白くなかった。
「この前の公演の打ち上げ、私が出れなかった飲み会の後で、宮屋敷先輩と何かあったでしょ?」
ピンポイントに指摘されて、シンはぐっ、と言葉に詰まった。
「宮屋敷先輩もあんまり話してくれないんだよねー。でも、榊田君も気付いてるよね? 宮屋敷先輩、眼鏡替えたの」
シンが魔法研究会に入部した当初、コトハは縁なしの眼鏡をかけていた。それが今は、赤いフレームのちょっとおしゃれなものを使用している。確かにシンはそれに気付いていたし。
その理由にも、思い当たる節があった。
「前言ってたんだよね。フレームがあると視界が悪い、不便だって。それが突然あれなんだから。理由を訊いても『まあ色々ね』としか教えてくれないし」
あの眼鏡は、恐らくコトハが中学時代に使用していたものだ。シンはこの前、中学生の頃のコトハの姿を見て――「可愛かった」と感想を述べた。タイミング的にも、まずそれで間違いないだろう。
「ねぇ、飲み会の後何があったの? 丸川先輩は富岡先輩を送っていったんでしょ? 榊田君と宮屋敷先輩は、何をしてたの?」
大人しくて真面目そうな顔をして、ユイはこういった噂話の類が大好物だ。やれやれ、とシンは肩を落とした。
「あの日は、宮屋敷先輩の家にいったんですよ」
「おお」
「で、お風呂を借りて、一晩泊りました」
「おおお」
「宮屋敷先輩の昔の話をちょっと聞いて、朝御飯も一緒に食べて」
「おおおお」
「それから、宮屋敷先輩のお父さんに土下座されました」
「お・・・おおーっ?」
ユイの顔が、大きなハテナマークになった。シンの方も、自分で話していてわけが判らなくなってきた。あの日のことを簡単に説明するのは難しい。盛り沢山で、大騒ぎで。
後はほんの少しだけ、嬉しかった。
「橘先輩、ブリジットさんって知ってます?」
「うん、知ってる。人造人間の人」
外見上は普通の人間と何一つ区別のつかない、実に精巧な人造人間であったのだが。流石にユイの眼を誤魔化すことはできなかったのか。
「私はそういうのは全部判っちゃうからね。先に言い当てられて物凄く悔しがってた」
その姿が目に浮かぶようだ。宮屋敷家の人間は規格外すぎて困ってしまう。シンとユイは声を出して笑い合った。
「おいお前ら、そろそろいくぞ」
サキチが痺れを切らしたように起き上がると、二人を置いて道を登り始めた。
「油売ってると陽が暮れちまう。こんな山の中で、夜目の利かないお前らの先導をするなんてまっぴらだからな」
慌てて、シンとユイは腰を上げた。本当にどちらが主なのか従なのか判らない。
シンは足が軽くなっているのを実感した。ユイ自身が何と言おうが、ユイの力は大したものだ。シンにとってユイは、尊敬に値する魔法使いの先輩だった。
「ほらやっぱり、シキちゃんが心配するようなことはなさそうじゃない」
ぐーっと伸びをして、ユイはシンの前に立った。だぼっとしたジャージ姿だが、ほっそりとして、とてもしなやかで。
恐れ多くて手なんて触れられないくらいに、ユイという女の子はきらきらと輝いて見えた。
「宮屋敷先輩がそこまで自分のテリトリーに入れてくれたのに、榊田君はそれを裏切ったりしないでしょう?」
残念ながら。
「そういうことにしておきます」
全くその通りだった。
休憩してから五分ほど登ったところで、ようやく目的地に到着した。下草や薮が生い茂る中、半ば獣道と化したハイキングコースを抜け出ると、一息に視界が開けた。
「ここですか」
「そう」
深い森の中に、ぽっかりと木々のない空間が存在していた。山の頂上より、少し下った位置にあたるだろうか。なだらかで、むしろえぐれているくらいの平らな広場ができていた。
昔はある程度整備されていたのであろう、木の柵や、まばらな石畳の跡が残されている。その奥にあるのは、かなり古びた感じのする木製の社だった。
「あー、こらー!」
シンが社に近付こうとすると、ユイが大声を上げた。何かまずかったのかと振り向くと、ユイはシンとは関係ない方向につかつかと歩き始めていた。
「隠れても無駄だよ。出てきなさい!」
ユイの剣幕に押されて、木陰からぞろぞろと数人の子供たちが姿を現した。小学生くらいの男の子の集団だ。みんな手に網やら釣竿やらを持っている。全員ユイの前に整列して、しゅーんと頭を垂れた。
「子供だけでここで遊ぶのは学校で禁止されてるでしょ? あそこの池はかなり深いんだから」
そう言って、ユイは社の方を指差した。さっきは気が付かなかったが、社の後ろにはそこそこの大きさの池があるようだった。穏やかな水面に、周囲の風景が鏡のように映し出されている。水音も一切しないので、そもそも捕る魚などいるのかどうかも疑問だった。
「ほら、もうすぐ夕方だから今日は帰りなさい」
子供たちの背中をぐいぐいと押すようにして、ユイはその場から全員を退散させた。腰に手を当てて怒っている姿を見て、シンは可笑しくなった。いかにも小学校の先生だ。ユイなら、立派な教師になるだろう。
「まあ、そう言うてやるな。儂も気を付けて見てやっている」
社の方から声がして、シンは驚いてそちらに顔を向けた。
「キクリ様のことは信じていますが、だからと言って野放しにはできませんから」
そう応えて、ユイは両掌を合わせて一礼した。くつくつという微かな笑い声をこぼして。
シンの前に、小さな女の子が立った。
年頃はシキと同じくらいか、あるいはそれよりも少し上くらいか。真っ黒い禿に、麻でできたぼろぼろの着物。靴ではなく草鞋を履いている。昔話の絵本にでも出てきそうな格好だ。
くりんとして、何もかもを見透かすかのような両眼がシンの方に向けられると。
シンは、自分の中に何かが入り込んでくるのを感じた。
「ほう、強いな。そうか『感応』ゆえ、儂を感じてしまうのだな。それは失礼」
その一瞬で、シンは相手のことを知ることができた。少し前、コトハがシンの『栓』を抜いて、魔法使いの力を目覚めさせた時に似ている。心が直接触れ合って、お互いのことを理解しあった。
女の子――キクリは、ふふん、と尊大な笑みを浮かべてみせた。
なるほど、神様と結婚する男というのもいるかもしれない。シンは納得した。キクリは見た目はみすぼらしく幼い少女だが、十分なほどに美しく、そして。
神々しかった。
「キクリヒメノミコトだ。ようきたのう、魔法使いよ」




