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魔女先輩を紹介します  作者: NES
Fragment.3 あなたがみている
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あなたがみている(1)

 風が渡っていく。ざざ、ざざ、と木々が揺らめく。一面落ち葉に覆われた地面の上に、木漏れ日が市松模様を描き出す。

 日差しが暖かい。知らない間に春がきていた。季節が巡ったのに気が付くのは、いつも忘れた頃だった。やしろの屋根の上に、キクリはごろんと横になった。ああ、心地よい。なんとうららかなことか。

 世はべてこともなし。平和であることは素晴らしい。こんな穏やかな時間が流れるようになってから、もうどれだけの年月としつきが過ぎたのだろうか。思い出すことですら困難だ。

 山の中、うっそうと茂ったこの森の奥にまで足を踏み入れる者はもうとんといない。どこかの家の者がやしろの清掃に訪れていたようだが、それも絶えて久しい気がする。今では蜘蛛どもがすっかりお気に入りの場所としてしまっている。まあいい。それが何であれ、何かの役に立つ方がマシというものだろう。

 あとしばらくもすれば、わらし共が賑やかにこの辺りにまで乗り込んでくる。その姿を見ることぐらいしか楽しみはない。それも、この先どれだけの間続くことやら。再開発に取り残され、少子化で子供も増えぬとなれば、後はただただ、細く短くとなっていくのみだ。

 神無月にも、顔を出さなくなってどのくらいになるか。出雲の方から、わざわざ安否の確認に寄越されるもののことを思えば哀れだ。便りぐらいは出した方が良いのかとも思うが、ふみを預けられるようなものも、近隣からは姿を消してしまった。そのために川向こうの大きな神社にまで足を延ばすのは流石に億劫おっくうだ。

 何より、もう力がない。

 キクリは、恐らくこのまま消えていく。それは当然のことであり。

 むしろ、キクリにとっては喜ばしいことだった。

 世がキクリを必要としないのであれば、それで十分だ。それこそ、キクリの望んだ世の中になったということなのだから。

 医療技術は進んだ。治らない病はまだ無数にあるが、それでも昔と比べれば格段に少なくなった。人はそう簡単には病で命を落とすことはない。これは、人がその願いをもって手に入れた世界。

 ――自分など、必要ない。

 暖かい陽の光の下で、役目を果たしたと満足して消えていけるのなら。これ以上に嬉しいことはない。

 キクリは自分の姿を見下ろした。小さな手。麻の着物。わらを編んでこしらえた草履ぞうり

 良かったな。もう、お主のような子はおらんのだ。

 ふふ、と微笑んだところで。

 がさがさ、とやぶをかき分ける音がした。

 この時分じぶんに珍しい。さて、誰かが道にでも迷うたか。そう思って、キクリがそちらを見やると。

 大きな雉虎きじとらの猫が、にゅう、と顔を出してきたところだった。良い面構えをしている。見るからに、どこかのまとめ役でもしている風格だ。キクリを前にして全く動じないところから、さてはどこかの神格に仕えているものか。

「猫、何用じゃ。ここは儂の神域じゃ。力はだいぶ弱っておるが、粗相そそうだけは勘弁してくれよ」

 キクリに語りかけられると、猫はその場に座り込み。

 深々と一礼した。

「お初にお目にかかります。不躾ぶしつけにこの場に足を踏み入れたこと、深くお詫び申し上げます。この山のぬし殿であるとお見受けいたしますが」

「そうじゃ。キクリと申す。キクリヒメノミコト・・・とは言うても元祖ではない。この土地の小さなものじゃ」

 ひらり、とやしろの上から飛び降りて、キクリは猫と対峙した。変わり種だ。久々に退屈を紛らわせられるかもしれない。最後の時を、猫とたわむれて終わるのも一興か。

 どれ、と猫に歩み寄ろうとしたところで。


「サキチさーん、どこー?」


 ばきばきと、先ほどよりも更に大きな物音と共に、何者かが姿を現した。




 身体中が、まだ悲鳴を上げている。国文一年の榊田さかきだシンは、痛む手足に鞭打ちながら、クラブハウス棟の脇を通り抜けた。約束の時間はとっくに過ぎてしまった。携帯が何度となく振動を繰り返しているが、いちいち受け答えするよりもさっさと歩いた方が早いだろう。

 大学の敷地内の最奥、ゴミ集積場の手前のところに、数棟の古臭いプレハブが建てられている。その中でも一番山側の、一番古いもの。そこがシンの所属する魔法研究会の部室だった。

 歴史があると言えば聞こえがいいが、長いだけで別に威厳も何もあったものではない。プレハブ棟にいる理由も、クラブハウス棟が新設された際に、くじ引きで負けて取り残されただけなのだという。それも二十年も前の話だ。もし次にクラブハウスの建て替えがあるのなら、優先的に使わせてもらわなければ割に合わない。

 ふうふうと息を切らしながら、シンは部室の前までやってきた。大学の裏山にある木から枝がせり出していて、一歩間違えば廃屋のようにも思えた。

 遠目でも見えていたが、魔法研究会のドアの前には、大きな雉虎の猫が丸くなっている。シンはその正面に歩み寄ると、よっこいしょとかがみこんだ。

「サキチさん、こんにちは」

 シンが声をかけると、猫はぴくん、と髭を動かして目を開けた。立ち上がって大きく伸びをする。平均サイズよりもやや大きめで、毛皮の下の体つきはがっしりとしている。宝石のように透き通った緑色の瞳が、シンを力強くめ付けた。

「遅いぞ、シン」

「すいません、バイトが思ったよりも大変で」

 ふん、と猫――サキチは鼻を鳴らした。

 はたから見れば、今のシンは猫と話をする怪しげな人物だ。しかし実際には、猫との会話はそれを認識できる者にしか知ることができないのだという。難しい話はよく判らなかったが、コトハによれば人間は自身に理解できることしか知覚しない。認知不能の出来事に対しては、自分の中で勝手に辻褄つじつまを合わせてしまうとか。

 理屈はとにかくとして、サキチとは気兼ねなく会話しておけば良い、ぐらいにシンは理解していた。

 サキチは魔法研究会の先輩である教育二年(たちばな)ユイの使い魔、ということになっている。ユイとは尖央大学に入る前、ユイが幼い頃からの付き合いなのだそうだ。猫としてはもうかなりの高齢、老猫であるというのに、サキチは少しの衰えも見せなかった。

「ユイが中で待っている。しかしそんな様子じゃあ、今日はやめておいた方が良いかもしれんな」

 ふい、ときびすを返すと、サキチは悠然と歩いてどこかに姿を消してしまった。普段からこんな調子だ。とりあえず部室に入ろうと、シンは痛む腰を持ち上げて、古びたスチールのドアをノックした。

「どうぞー」

 間の抜けた返事がする。ドアを開けて中に入ると、女性二人がシンの方に顔を向けた。

「やー、榊田君、遅かったじゃないか」

 そこそこの広さのある部室のスペースの半分近くが、この場に不釣り合いなほどに大きくて立派なソファに占拠されている。その上に寝そべっているのは、魔法研究会部長、心理四年の宮屋敷みややしきコトハだ。いつも通りの黒いタックスカートに、そろそろ暑くなってきたからか白のカットソーを着ている。

 長くて綺麗な黒髪に、目のやり場に困る抜群のスタイル。そして、赤いフレームの眼鏡がきらりと光る。その向こうにある挑戦的な吊り目を見て、シンは体のきしみが増してくる気がした。

「誰のせいだと思ってるんですか」

「バイト、だったんだよね?」

 部室の中には、安物のテーブルと丸椅子が数脚置かれている。その椅子に腰かけているのは、サキチの主人であるところの魔法研究会書記、ユイだった。

「そうなんですよ、大変だったんですよ」

 そう応えてユイの方を向いて。

 シンは思わず硬直してしまった。

 明るい栗色の髪が、光の絶対量が足りなくて薄暗い部室の中でもきらきらと輝いている。大きな茶色い瞳に、繊細で、真面目なお嬢様といった感じの顔つき。清楚な女子大生のおもむきなのだが。

「ほら、ユイ、榊田君もそれはないって思ってる顔だよ」

「ええーっ、そう言われても」

 心外、という表情で、ユイは自分の姿を見下ろした。

 普段のユイのファッションは、スリムなスラックスかタイトスカートに、淡い色合いのブラウスという組み合わせが多かった。いかにも『女教師』というイメージで、教師志望のユイにはそれが実にしっくりときていたのに。

 何がどうしてこうなってしまったのか。その日のユイは濃い緑一色、ほとんど無地のジャージ上下という、あまりにも地味で野暮ったい服装だった。その強烈なギャップと絶妙なダサさ加減に、シンはどんな反応をするべきか判断に困り、身体ごと思考が完全に停止してしまった。

「体育科教育の時とか、このジャージですよ? 授業で着るのにそんな華美でも困るじゃないですか」

「いやぁ、物事には限度ってものがある気がするよ」

 コトハはにやにやと笑いながらそう評した。確かに、小学校の体育の授業とかでは、学校の先生はこんなジャージ姿だったように記憶している。シンは腕を組んで、改めてユイの姿を眺め回した。

 『体育』というよりも、このままゴムサンダルでコンビニまで買い物、といった方がピッタリだ。昔、田舎の中学生がこんな格好で、ヘルメットをかぶって自転車に乗って登下校していたのを見たことがある。中身が正統派美人のユイだから、尚更違和感が強いというか。

「・・・ナシ、ですね」

「ええーっ、榊田君までヒドイ」

 似合うと言った方がひどいのではないだろうか。

 ぷりぷりと腹を立てながらも、電気ケトルでシンの分のコーヒーを淹れようとしてくれているユイを見て。

 シンは、高校の時の文化祭の準備を思い出した。多分それが一番ぴったりだと感じたが、口にしたところでユイの機嫌は直りそうもない。シンは黙っておくことにした。



 椅子に座って、熱いインスタントコーヒーを飲んで。

 一息ついたところで、シンはようやく疲労が抜けてきた気がした。こんなにひどい目に遭うと判っていれば、最初から承諾などしなかったものを。シンにバイトの話を持ってきた張本人は、ソファの上で他人事のような顔をしていた。

「宮屋敷先輩、大変だって判ってて押し付けましたね?」

「えー、榊田君が割の良いバイトが欲しいって言うからさー、協力してあげたんだよー」

 ごろごろとソファの上で寝転がりながら、コトハはすっとぼけた。魔法研究会の部室は、すっかりコトハの第二の自宅だ。

「おかしいと思ったんですよ。だって、佐次本さじもと先生が一緒にいるのに、そのバイトを俺に譲るなんて」

 佐次本キョウスケは心理学科の准教授で、コトハのゼミ担当、魔法研究会の顧問でもある。大学に入る前からコトハとキョウスケは面識があり、コトハが一方的に好意を寄せている関係だ。ちなみにキョウスケ自身は、既婚者で子供までいる。コトハにしてみれば、最初から報われるつもりのない片思いということだ。

「そうなんだよねぇ。佐次本先生の頼みを聞けないなんて心苦しいからさ、代わりに私が今最も信頼のおける榊田君に託したというわけなんだ」

「よく言いますよ」

 実入りの良いバイトがある。コトハにそう紹介されて、シンはすぐさま飛びついた。大学の外でも幾つかのバイトはおこなっているが、収入は常に足りていない。できることなら家賃も学費も全て自分でまかないたいと思っているところに、コトハの持ってきた話は確かにおいしかった。

 しかし。

「心理学研究室の学会誌年報棚卸って、ものすごい肉体労働じゃないですか」

 コトハの説明では、「雑誌とか片付けるだけだからさぁ」というものだった。

 だが現実は、山積みの本を全て書庫から取り出し、貸し出し状況の確認後、あったところに戻す、というものだった。

 次から次へと押し寄せてくる、ずっしりとした分厚い本の束。それを台車に積んで、わざわざ書庫から事務室にまで運んで、手続きを済ませた傍から、また書庫に戻していく。確か、穴を掘って埋めるとかいう拷問があったはずだ。それと一体どこが違うのか、シンにはさっぱり判らなかった。

「いやぁ、私、肉体労働は苦手で」

「俺だって得意じゃないですよ」

「少しは鍛えられて、榊田君もたくましくなるかなぁ、って」

 聞けば、元々はキョウスケのゼミ生が担当する作業であったのだという。それをコトハがボイコットし、報酬を支払うと言ってシンに代理でやらせたのだ。しかも本来は無償のものであって、アルバイトですらなかった。

「佐次本先生にはバラしましたからね。呆れてましたよ」

「ああー、ヒドイ、榊田君! そんなところでジェラシー炸裂させなくてもいいじゃないか!」

「そういうことじゃありません!」

 ぐぬぬ、とシンとコトハは睨み合った。どのような運命の巡り会わせか、シンとコトハは、近い将来に結ばれることになっている。正確には、その可能性がいちじるしく高い。二人の間には娘ができる、というところまでは見えていた。

 もっとも、だからといって「じゃあラブラブね」というほど単純な話ではない。出会って今のところ二ヶ月ちょい、二人はようやくお互いのことが判ってきたという程度だ。

 シンにとって、コトハは魔法使いの師匠であり、魔法研究会の部長であり、尖央大学の先輩である。

 生活態度がだらしなくて、超がつくほどの低血圧で。今回のように、面倒臭いことからすぐに逃げ出そうとするサボり癖がある。割とどうしようもない。

 ただし、外見は美人だし、スタイルは良い。あと、どうやら実家はお金持ちで、見た目通りのお嬢様であるらしい。

 それに、人物として見た場合、シンは別にコトハのことは嫌いではなかった。

 コトハはシンに対して、色々と気遣ってくれている。そのことは、シンにはよく判っていた。恐らくこのバイトの件に関しても、ただシンにお金を援助するとは言い出せないので、こういうやり方にしたのだ。

 ・・・それでも、騙されて腹が立つ、という気持ちに変わりはなかったが。


「ええっと、榊田君、それより、今日のことなんだけど」

 二人のいがみ合いがいつまで経っても終わりそうにないので、ユイが間に入ってきた。そういえば、今日はユイに頼まれて部室にやってきたのだった。バイト、というかキョウスケの手伝いが予想以上に時間がかかったので、少々遅れてしまっていた。

「あ、はい、なんでしょう、橘先輩」

 シンはユイの方に向き直って姿勢を正した。教員志望だからか、ユイに言われるとついそんな反応を返してしまう。教卓の前に呼びつけられた小学生の気分だ、

「お疲れのところ大変申し訳ないんだけど」

「いえ、大丈夫です」

 元気よく応えたシンの顔を見て。


「今日は、山に登ってほしいの」


 くつくつと、コトハは笑った。


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