すべてはここから(7)
同じ部活の美人の先輩と飲みにいって。
酔っぱらったのを送っていったら、泊っていけと誘われて。
超豪華なマンションでお風呂を借りて、朝ご飯までご馳走になって。
翌朝帰ろうと思ったら、金髪美女のお手伝いさんの腕が吹っ飛んで再生して。
そして今度は、その先輩のお父さんが目の前で土下座している。
昨夜から今朝にかけて、シンの身の回りは波乱に次ぐ波乱であった。この先も含めたシンの全人生において、イベントランキング総合トップテンに入ることは間違いない。
「さて、お父様、榊田君の前で説明していただきましょうか」
コトハはソファの背に足を組んで座っている。見下ろしているその先では、コトハの父、リュウゴが床に身体をぺったりと押し付けて土下座していた。
「いやその、まさかこんなことになるとは全く思ってなかったんだ。大体コトハが男をこの家に泊めるとか、そんな話はありえない――」
「余計なことは言わなくて結構です!」
コトハに一喝されて、リュウゴは更に小さくなった。コトハの横に並んで立っているシンも、そのあまりの勢いにぶるっと肩を震わせた。
ブリジットだけは少しも動じずに、鼻歌まじりでリュウゴの分のお茶を淹れていた。もう慣れっこなのか、それとも人造人間だからなのか。宮屋敷家の日常は果てしなく底知れなかった。
魔術的な罠を仕掛けていたのは、コトハの父リュウゴだった。リュウゴであれば、コトハの家のセキュリティは全てパスできる。その権限を利用して、リュウゴはコトハに知らせずに前庭の部分に独自の細工を施していた。
「ええっとだな、コトハはもう覚えていないかもしれないが、鳥居塚とか、お前との交際を断られた連中ってのは、結構根に持っているみたいでな」
しどろもどろにリュウゴが話を始めると、コトハはより一層表情を曇らせた。
「その話を榊田君の前でするんですか」
「いやだって、説明しろって言うから」
ちらり、とコトハはシンの方に目線を投げた。バツが悪そうというか、悪戯が見つかった子供みたいな顔だ。なかなかレアだな、とシンはちょっとだけ得をした気分だった。
「すまないね、榊田君。こんな話楽しくもないだろうけど、私は高校時代、家の都合もあって何人かの男性とお付き合いをしていたことがあるんだ。ただ、どれも何の進展もないままにお流れになっているものだから、あまり気にしないでほしい」
「はい。大丈夫ですよ」
美人で家柄も良いお嬢様のコトハに、そういった話がない方が不自然だろう。コトハも普通の女の子であったのかと、シンはむしろ安心したくらいだった。
「で、そのヤキトリ串だかが、何だって?」
一変して憤怒の形相に切り替わり、コトハはリュウゴをぎろり、と睨め付けた。
「鳥居塚だって。まあその、お前にフられた連中がだな、自分たちが選ばれなかったのに、誰か他の人間がコトハのことを出し抜いたとしたら、家の面子に関わると」
「そんなくだらない訴えに、お父様は乗ってしまわれたんですか?」
コトハは呆れかえって天を仰いだ。
かつてコトハに袖にされた男たちの家が、リュウゴに要請してきたということだった。どこの馬の骨とも判らない男にコトハが寝取られるようなことがあれば、選ばれなかった家の恥となる。そのような者が現れれば、見せしめとして始末するようにと。
「断りにくい空気ってのもあるんだよ。それに、コトハに限ってそういうことはないだろうとも思ってたしさ」
「お・お・き・な・お・世・話、ですっ!」
ふん、とコトハは鼻息を荒く噴き出した。そのままソファから飛び降りていって、リュウゴの背中を踏みつけでもしかねない勢いだ。シンがいなければ間違いなく実行していただろう。
「それに、シャンプーでその辺りの判別をするっていう発想がそもそも下劣です」
「我ながら良くできてると思ったんだけどなぁ」
そうぼやいたところをコトハに眼で威圧されて、リュウゴは再び床に額をこすり付けた。
罠が発動する引き金は、コトハの使っているシャンプーの匂いだった。コトハの家から、コトハのシャンプーの香りをさせている男が出てきたなら。
それは『そういう関係の男である』とみなして、攻撃の対象となるように仕掛けられていた。
「ブリジットにまで被害が及んでいるんですけど?」
「庇い立てする者にも容赦はしないように、ってな。相手が魔法使いである可能性は十分、というかそれ以外はないだろうから」
確かにシンは新米とはいえ、魔法使いではある。コトハと付き合って、コトハの家にまで招かれる関係までになるには、やはり「魔法使い」である必要があるのだろう。
シンがうつむくのを、コトハは鋭く察した。ぐっと下唇を噛む。あまりの怒りに、涙まで滲んできそうだった。
「そんな考えだから『現理』に反すると言うのです! 後でこの頭の悪い計画に加担した連中のリストを渡してください。全員に、直々に、厳重に抗議します」
うへぇ、とリュウゴが土下座したまま飛び退いた。その様子をしばらく見やってから。
コトハはシンの手を両掌で握った。
「榊田君、今日は本当に申し訳ない。私はただ、親切心で君に泊まってもらいたかっただけなんだ。宮屋敷家とか、魔法使いとか、そういうことは一切関係なしに、私は、君に私のことをもっと知ってほしかったんだ」
ぎゅうっと掌に力が入るのを感じる。シンが、つないだ手に目線を落とすと。
シキが、そっと掌を重ねていた。
コトハに似た、真っ黒で大きな瞳でシンを見つめて。
シキは、にっこりと微笑んだ。
「本当に、大丈夫ですよ。心配しないでください」
シンはシキに笑顔を返した。大丈夫、判ってる。
別にこんなことで、コトハのことを嫌いになったりはしない。驚かされることばかりなのは、何も今に始まったことではないのだ。きっとこの先には、まだまだこれ以上の出来事が待っている。
それに。
今回の事態が起きたそもそもの原因は、コトハがシンに一線を越えることを許したからだ。ゲストルームではなく、自分の家にシンを招き入れたこと。浴室まで使用させて、同じ家の中で夜を過ごしたこと。ブリジットなどはやる気満々だった。
コトハにそこまでのつもりがなかったのだとしても。
コトハは、シンを信じて受け入れてくれたのだ。それはとても名誉なことだし。
とても嬉しいことだった。
「ありがとうございます、宮屋敷先輩」
その言葉は、コトハにとっては全く予想だにしていなかったもので。
恐らく、シンがコトハの心象世界を覗き込んでいれば、大きな『揺らぎ』を発見できていたであろう。
「ううん、こちらこそ、ありがとう。榊田君」
そう応えたコトハの頬は、ほんの少し赤く染まっていた。
時計を見て真っ青になったシンに向かって、コトハはリュウゴから取り上げた紙束を差し出した。
「これは現代魔術の傑作、タクシーチケットというものだ」
今度はリュウゴの方が顔を青くしたが、コトハは全くお構いなしだった。
「地下に専用のタクシーレーンがあって、待ち時間なしで乗れる。ブリジット、案内してあげてくれ」
慌ただしくシンとブリジットが玄関から飛び出していくのを見送ると。
「さて、どうしてくれますかね」
コトハはリビングに戻った。すっかりしょげかえったリュウゴが、ぽつねんとソファに座っている。コトハはリュウゴの向かいに立つと、じろり、と睥睨した。
「久しぶりにコトハの顔が見れたと思ったら、こんなんだもんなぁ」
「自業自得です。『現理』に反したおこないの報いでしょう」
どすっとソファに体重を預けて、コトハはブリジットが淹れておいてくれた紅茶を飲んだ。すっかり冷めてしまっている。今からタクシーでシンのアパートに向かって、それから大学に直行したとして。ギリギリ講義に間に合うかどうか、といったところだろうか。とんだ騒ぎになってしまった。
「榊田君にも多大なる迷惑をかけたのです。猛省してください」
「そうそう、それだよ」
リュウゴはぱっと頭を上げた。まじまじと、食い入るようにコトハの顔を見つめる。
「お前ら、いつの間にそんな関係にまでなってたの?」
シンのことは、リュウゴも話には聞いていた。将来、コトハがシンを相手に子供を授かるという。どういうことかとも思ったが、コトハ本人は淡々としており、いきなり深い仲になるわけでもなさそうなので様子を見ていたのだが。
「急にお泊りとかするからさ、それならそれで教えておいてくれれば、俺の方であらかじめあんな術は解除しておいたのに」
「この家に男性を泊めるということを、いちいちお父様に報告しろと?」
コトハはリュウゴに軽蔑の眼差しを送った。
「・・・それはないか」
年頃の娘に要求することではない。リュウゴは自分で過ちを認めた。
「榊田君は紳士ですよ。彼は私と普通の交際をすることを望んでいるのです。それならば、私はもっと私のことを榊田君に知ってもらいたかった。ありのままの宮屋敷コトハを見てもらいたかったのです」
軽く目を伏せたコトハの様子を見て。
「すまん」
リュウゴは心の底から詫びた。コトハは、シンのことを本気で考えているようだ。コトハと離れて暮らしていることで、その機微を察することが難しくなってきているのかもしれない。父親としてもう少し配慮が必要であったかなと、リュウゴは自らを省みた。
「とりあえず、シキの姿が見えているうちは大丈夫ですよ」
いつか、シンとコトハの間に産まれてくる娘の魂。二人の縁が未来までつながっている限り、シキはシンの傍らに存在し続けるはずだ。
「ああ、あの幽体がそうか。確かに小っちゃい頃のコトハの面影があったな」
リュウゴにもシキの姿は見えていた。まるで二人の仲を取り持つように、優しく掌を重ねていた幼い少女。綺麗な黒髪が、きらきらと光を放っているみたいだった。
「おじいちゃん、とお呼びしましょうか?」
「よしてくれ、せめて四十代の間はその呼ばれ方はされたくない」
リュウゴは今四十八歳だ。髪はだいぶ白くはなっているが、年寄り扱いされるような年齢ではない。実業家として現役で世界中を飛び回っており、自分ではまだまだ若いつもりでいた。
「榊田君がシキを連れてきた時には笑いましたよ。なんと、私が誰かの子供を産むなんて。しかも連れてきたその男が相手だとか。どこまで出鱈目な話なんだって」
コトハが誰かのことを好きになって。結ばれて、子供まで作るなど。
その時のコトハには、想像もつかなかった。
「でも、榊田君の『栓』を外して魔法使いとしての力を呼び起こしたら、納得してしまいました。ああそうか、って」
シンを魔法使いとして覚醒させて、コトハはその二つ名を読み取った。榊田シンという人間の生き様、あり方、意志。
「『人を想い流れる涙』、まさか、私の探している『現理』を持つ人だなんて」
コトハはうっとりと目を細めた。
「運命の出会いとか、正直馬鹿馬鹿しくなりました。だって、私の探し人を、私の娘が引っ張ってきたんですよ? ほらよ、こいつを相手にして自分を産みなって。なんだこいつ、って思いません?」
「因果律を逆に辿ってきたわけか。簡単にできることじゃない」
自分の存在を確立させるため、自分の発生を促すように因果を操作する。常識ではありえないことだ。
それをやってのけたのは、魂にまで魔法使いとしての力が刻み込まれた、シキという無垢なる意志。
「あれが私の娘とか、今からはねっかえりの予感がして気が重くなりますよ」
楽しそうに話すコトハを見て、リュウゴは肩の力を抜いた。
「お前、すっかりその気なんだな」
「当たり前じゃないですか」
魔法使いの二つ名に従って生きる。
それは宮屋敷の家にずっと受け継がれてきたことであり。
そしてまた、コトハの母の願いでもあった。
「私は自分の二つ名に従います。私自身が『現理』となり、それを体現する。そして」
コトハは目を閉じると、シンの顔を思い浮かべた。
「同じく『現理』を抱く者と人生を共にします。それが正しいと、確信しています」
コトハを、ちゃんと見てくれる人。
コトハを、正しく愛してくれる人。
榊田シンは、間違いなくコトハのことを愛するようになる。シキがそこにいるのなら、その未来は必ずやってくる。それなら。
「数年も経たずに、二人そろってご挨拶にうかがうことになりますから。父親の威厳はその時に見せてくださいませ」
「先に土下座までさせられておいて、威厳もクソもあるかぁ」
リュウゴが仰向けにひっくり返り、コトハはくつくつと笑った。
世界に属性はない。それを美しいと感じるのも、残酷だと思うのも。
全ては、それを見ている人の心だ。
あの眩しい朝の光を見て、コトハはそう悟った。
人を想う心――人を愛し、慈しむ心は、何よりも世界を美しく輝かせる。心が歪めば、その目に映る世界も歪んでいく。
誰かを傷つけてまで何かを得ようとしても、その報いは自分自身へと却ってくる。もし世界を醜いと感じるのであれば、それは見る者の心が醜く変じている。
たとえその対象が自分自身であったとしても、誰かを犠牲にする力を用いてはいけない。それは、悲しみの連鎖を作り出す。人の心を憎しみが埋め尽くせば、自ずと世界は醜悪になる。
魔法使いは、人を愛する心を持ち、その力をもって世界を美しくたらしめよ。
それが、コトハの得た魔法使いの『原理』、現代を生きる魔法使いたちの『現理』だった。
「とは言っても、榊田君は私と普通の恋愛がしたいようなのです。遠回りなことですが、彼がそれを望むのなら、私はできる限り応えてあげたいと思うのですよ」
「普通の恋愛ねぇ。お前にそんなことできるのか?」
リュウゴの暴言を、コトハは笑顔でさらりと受け流した。
「できますよ、きっと」
シンが『人を想う心』を体現する者である限り。
コトハには、疑問を差し挟む余地など全くない。
何故ならば。
「私は榊田君のこと、好きですから」
さっきこっそりと替えておいた赤いフレームの眼鏡の位置を、コトハは指で押さえて整えた。
いつか誰よりも、どうしようもないくらいに、愛することになる人。
全ては、ここから。
「Fragment.2 すべてはここから」は以上で終了となります。
ありがとうございました。




