すべてはここから(6)
「ブリジットさん!」
シンはうずくまったブリジットの背中に触れた。腕がなくなったのだ。こういう場合、どうすればいいのか。まずは止血、いや、コトハを呼んできた方が良いのかもしれない。
色々な考えがシンの頭の中をぐるぐると駆け廻ったところで。
「あー、びっくりした」
ひょこ、とブリジットが顔を上げた。そのままむっくりと立ち上がる。痛みに苦しんでいる様子も、意識が混濁している素振りもない。つい先ほどまでと何も変わらない、かしこまっているようで、どこかとぼけた感じのする調子だった。
「榊田様、お怪我はありませんか?」
「俺は大丈夫です。それより、ブリジットさんの方が・・・」
シンが「右手」と言おうとしたところで、ブリジットはひょい、と右手を持ち上げてみせた。
「はい、ひどい目に遭いました」
肘から先には、白くて艶めかしい、ほっそりとした腕が存在していた。指も五本、しっかりとそろっている。シンは息を飲んだ。おかしい。ドアノブをつかんだところで、確かにブリジットは右腕を失っていたはずだ。
その証拠に、ワイシャツの右手部分は無残に半分に引きちぎれている。血の染みも至る所に飛び散っていて、玄関の床にもべったりと血痕が残されていた。
「もう、これ、掃除するの私じゃないですか。本当にひどい」
周囲の惨状を見渡すと、ブリジットは腰に手を当てて、憤懣やるかたないという表情を浮かべた。シンにとってはそんなことよりも、ブリジットの右手が生えていることの方が大問題だ。軽く握られた、剥き卵のようにつるんとした白い拳を、シンは呆然と見つめた。
「ブリジットさん、右手、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ?」
右掌を顔の横に持ってくると、ブリジットは二、三回軽くグッパーしてみせた。なるほど、大丈夫なようだ。
「再生するのに他の部分の構成素材を流用したので、総質量が数パーセント減少してしまいました。こういう強制ダイエットは嬉しくないですね。身体がスカスカになったみたいで――」
そこまでしゃべって、ブリジットはようやく自分を見るシンの視線に気が付いた。この目は、説明を求めている。
「ああっと、失礼いたしました。てっきりコトハ様からご説明済みだとばかり」
ブリジットはシンの方に向き直ると、改まって一礼した。
「ブリジット・ダルレー、宮屋敷コトハ様にお仕えしている人造人間でございます」
「人造人間?」
「そうなんですよー」
えへへ、とブリジットは照れ臭そうに微笑んだ。話し方から何からあまりにも自然なので、全く判らなかったが。
ブリジットは、人間ではなかった。魔法によって作られた、人間の姿をしているだけのものだった。
「宮屋敷家に伝わる秘儀によって制作されております。非常に精巧であることが特徴であり、自慢でもあります。一人で外にお使いに出たとしても、誰にも人造人間であるとは悟られません」
確かにどこからどう見ても人間だ。会話をしていても不自然さがまるでない。コトハと一緒にいたところなどは、仲の良い友達のようにすら思えた。
しかしまさか、人間でないということがあるのだろうか。シンはブリジットの姿を眺め回した。
「榊田様、私に興味を持たれるのは構わないのですが、今は優先するべき事項がございます」
そうだ、とシンが我に返ったところで。
「ありゃ、何をしているんだい榊田君」
廊下の奥から、コトハがやってきた。
「あ、宮屋敷せんぱ――」
コトハに声をかけようとして、シンは慌てて顔を横に背けた。
「なんだい、忘れ物かい? まさかラッキースケベをやり残してきたのを思い出した、とか言うんじゃないだろうね」
シャワーを浴びて出てきたばかりのコトハは、白いバスローブ姿だった。濡れた髪の毛から、ぽたぽたとお湯が滴っている。ほんのりと桜色に染まったコトハの肌、そして胸の谷間に、シンは危うく意識を持っていかれるところだった。
「コトハ様、大変です。襲撃を受けました」
「はぁ?」
ブリジットの報告に、コトハは怪訝な顔をした。
「襲撃って、ブリジットはこの家のセキュリティについては良く知っているだろう。物理的であろうが魔術的であろうが、このフロアへの部外者の侵入は容易なことじゃない。害意を持った者が近付くことができないように、何重ものトラップが仕掛けられている」
ふぅ、と息を吐くと、コトハは持っていたタオルで髪の毛を乱暴にかき回した。それに合わせて色々なものが、ぶるん、と震えて。シンは、視界の隅にそれを捉えて赤面した。
「それに、宮屋敷の家に襲撃とか、そんなことを考えるバカはそうそういないよ。メリットがなさすぎる。ウチは『話せばわかる』の部類だからな。問答無用で喧嘩を売ったところで、お互いに何も得はせんだろう」
「しかし、現に攻撃を受けました」
ブリジットはコトハに向かって両手を広げてみせた。ワイシャツの右の袖が肘の辺りでなくなっていて、全体がべったりと赤黒く汚れている。玄関の床もブリジットの流した血でどろどろで、シンの服にも跡が残っていた。
コトハは「ふむ」と鼻を鳴らすと、顎に手を当てて考える素振りをした。
「やり方が特徴的だな。こういう魔法カッコ物理、みたいな手段は、実のところあまりスマートじゃない。嫌がらせ的というか、これではまるで・・・」
しばらく黙って、それからコトハはパチンと指を鳴らした。
「榊田君、ちょっとこっちにおいで」
なるべく湯上り姿のコトハを見ないようにしていたシンは、ぴくんと身体を痙攣させた。呼ばれたからには仕方がない。あさっての方向を見つめたまま、シンはコトハの前まで歩み寄った。
「いいよ、このくらい。私は榊田君のことは紳士だと思ってるからさ」
コトハがそう言うのなら、構わないのだろう。以前にも、意識し過ぎると逆に恥ずかしい、と語っていた。覚悟を決めて、コトハの方に首を動かすと。
コトハが、ぐいっと顔を近付けてきたところだった。
「わっ」
「こら、じっとしてる」
シンに触れるか触れないかというところにまで、コトハの唇が接近して。
コトハはそっと目を閉じると。
くんくん、と匂いを嗅いだ。
「榊田君、私のシャンプーを使ったね?」
「え、は、はい」
昨夜風呂を借りた時に、シンはその場にあったボディソープとシャンプーを使った。特に注意も何もされていなかったと思うのだが。
何か問題があったのだろうか。
「マズかったですか?」
シンの問いかけに、コトハは何ともいえない微妙な表情をした。
「いやあ、これは榊田君は悪くないね」
つい、とシンから離れると、コトハはブリジットの方に顔を向けた。
「張本人を呼び出して解除させるから、それまで玄関から外には出ないように。急ぐところ迷惑をかけるが、榊田君も一旦リビングででもくつろいでいてくれたまえ」
それだけ言い残して、コトハはどすどすと足音を立てて奥に引っ込んでいった。何やら少し腹を立てていたようにも見える。
きょとんとして、シンとブリジットは顔を見合わせた。
「では、そうですね、ロシアンティーでもお淹れいたしましょうか」
現在の周りの状況から、こういうことが言える宮屋敷家の人造人間は大したものだ。シンは舌を巻いた。
それから五分ほど経って、インターホンが鳴らされた。ブリジットに髪を乾かしてもらっている最中だったコトハは、それに気付きながらも、優に十分以上放置した後で。
「はーい、ウチはNHK観てませーん」
驚くほどぞんざいな応答を返した。
「コトハ、悪かった。今すぐ術は解くから、中に入れてくれ」
リビングのテレビには、エントランスのカメラの映像が大写しになっている。そこには、立派な紺のスーツに身を包んだ、すらりとした初老の男性が立っていた。
髪の毛の半分は白くなっているが、びしっと切りそろえられていて弱々しさの欠片もない。背筋も真っ直ぐで、どことなくエネルギッシュな印象だ。それを画面越しにソファでふんぞり返って眺めているコトハの方は、なんだか悪の女幹部という感じだった。
「私だけではなく、カタギの人間にまで迷惑をかけているんです。それなりの誠意というものを見せていただかないと」
言っていることも、ヤクザそのものだ。
「解っている。まだそこにいるんだよな? 直接謝罪するから、とりあえず中に入れてくれ」
コトハは手元のリモコンで何かを操作した。これで下の自動ドアが開くのだろう。画面の中で、男性がほっと肩を落とす様子が見て取れた。
「では、早急にこちらまでいらしてください」
シンの方をちらり、と一瞥して。
コトハは、意地の悪い笑みを浮かべた。
「お父様」
口に含んだロシアンティーが気管に入って、シンは激しくむせた。
コトハが高校に進学してすぐに、宮屋敷の家には多数の縁談が持ち込まれるようになった。いよいよ十六歳になるということで、暗黙的に申込みが解禁された格好だった。魔法使いの一族としても高名であり、資産家でもある宮屋敷の家とつながりを持ちたいと願う者はいくらでもいた。
中学で告白だなんだという騒ぎに疲れてしまったコトハは、女子高に進学していた。しばらく男子は顔も見たくないと思っていたところに、今度は見合いが次々とセッティングされていく。正直うんざりだった。
高校三年のある日、コトハは父である宮屋敷リュウゴに呼び出された。事業家であり、普段から仕事だなんだと飛び回っているリュウゴは、あまりコトハと顔を合わせることはない。珍しく家にいるということで、コトハは学校から帰るとリュウゴの待つ書斎に向かった。
「お父様、コトハです」
「おう、入れ入れ」
ドアをノックして声をかけると、気さくな返事が戻ってきた。中に入ると、三方の壁がみっしりと詰め込まれた本棚で覆われた空間になっていた。広いんだか狭いんだかよく判らないが、本棚の圧迫感があるだけで、実際には結構なスペースがある。
その中央に、やはり本に埋もれたデスクがある。脇に置かれた椅子の上にまでうず高く分厚い本が積まれていて。
コトハの父リュウゴは、その横、床の上にぺたんと座り込んでいた。
「久しぶりだな。なんか最近全く家に戻れなくてすまん」
「いいえ、大丈夫です。必要ならちゃんとご連絡して相談いたしますし」
「それに」という言葉を、コトハは飲み込んだ。リュウゴは確かに家を空けがちだが、コトハのことを気遣っていないわけではない。中学生の時、母を失ったコトハを心配して、リュウゴは何日も仕事を休んで家にいてくれた。
自分自身、妻を亡くしたことで十分に傷ついていたというのに。
必要であるなら、他の全てをなげうってでも、リュウゴはコトハの近くにいてくれる。それが判っているから、コトハは父、リュウゴのことをとても信頼していた。
「コトハ、お前、鳥居塚のところの御曹司、フッたんだって?」
「そのお話ですか」
はぁ、と溜め息を一つ吐くと、コトハはその場に正座した。リュウゴは首を傾けてこきっ、と鳴らした。
「そうですね。残念ですがこのお話はなかったことに」
「マジかー。あそこうるさいんだよなー。『なんでなんだ、どうしてなんだ』って細かく訊いてくるんだよなぁ」
面倒臭そうに言いながらも、リュウゴはどこか愉快そうににやにやと笑っていた。
「ぶっちゃけ何がダメだったん? 表向きは俺が適当に断っておくから、正直ベースの方」
「いつもと同じですよ。殿方の考えることはみんな同じです」
金か、名誉か、性欲か。コトハのところにくる男性の目当ては、大体この辺りに集約される。
宮屋敷の家にある財産や、魔法使いとしての力は確かに魅力的だろう。家名のためだけの縁談であるなら、コトハはそれを丁重にお断りすることにしていた。コトハにとっては、宮屋敷の名前などどうでも良いものだった。
『現理』を体現するのに、宮屋敷の家名は必須ではない。それはむしろ、コトハ自身が作り上げていくものだ。コトハがいるところに『現理』があるのであって、宮屋敷家が『現理』足り得るわけではない。そういったコトハの見解は、リュウゴも認めて尊重してくれていた。
そして残った目当てが。
「しょうがないよ。男はおっぱい好きだもん」
明け透けにリュウゴが言い放ち、コトハはむぅ、と顔をしかめた。
中学時代、声をかけてくる男性の目当ては決まってそこだった。コトハはそれを自分の魅力の一つであると認識はしているし、悪いものではないと思ってはいる。
しかし、そればっかりで言い寄られてくれば、いい加減ウンザリもしてこようというものだった。
「佐次本のおじさまが独身であってくれれば良かったのですが」
「無茶言うな。あいつ、ウチにきた時には既に結婚してただろうが」
佐次本キョウスケは、宮屋敷家が一時期面倒を見てやっていた魔法使いだ。リュウゴの弟子として、母親を亡くしたばかりのコトハの世話もしてくれていた。
「佐次本のおじさまは、私のことをそういう目で見ない、素晴らしい方でした」
「あいつの場合、いつも半分寝てるようなモンだったからじゃねぇ?」
キッ、とコトハはリュウゴを睨みつけた。リュウゴは涼しい顔でそれを無視すると、腕を組んでうーんと唸った。
「じゃあ、これで許嫁五人目撃沈、と。どうする? お前結婚するつもりある?」
「ありませんね」
コトハはさらりと言ってのけた。
「お父様の面子もありますし、お見合いの類はとりあえずは受けますけど、少なくとも宮屋敷の家名から紹介された方の中に、私が伴侶として選べる者が現れるとは思えません」
「お前が選ぶ基準ってのは、要は二つ名だろ?」
コトハの持つ、魔法使いとしての二つ名、生き様。『現存する原初よりの原理』、通称『現理』。
コトハはそれに従って生きると決めている。その理に反するような生き方、安易な結婚などは、端から考えの外だった。
「ご迷惑をおかけいたします」
「いいってことよ。そうやって二つ名を大事にして、この宮屋敷の家は続いてきたんだ」
それも、コトハの代で終わるかもしれない。ならばそれが運命であろうと、リュウゴは明るく笑い飛ばした。
「財産とか家名とか、死んだら意味のないものばかりだ。俺はコトハ、お前が何不自由なく暮らしてくれればそれでいい」
リュウゴには色々と苦労をかけている。コトハは十分に自覚していたが。
「申し訳ありません、お父様。私はどうしても『現理』にこだわりたいのです」
「ふふん、『現理』ね」
「はい」
コトハはリュウゴの目を正面から見据えた。そこに迷いは一切ない。母の死を偲び、世界の美しさを見たあの時から。
コトハの生き方は決まっていた。
「ただそこにあるだけの世界を、美しく光り輝かせるもの――『人を想う心』。私はそれを失くしたくないのです」
コトハの見つけた『現理』。もしも、コトハと同じ、それを持つ者が現れたのなら。
その時、コトハは恋に落ちるのかもしれない。




