すべてはここから(5)
午前七時きっかりに、ブリジットがシンを起こしにやってきた。目を開けて最初に飛び込んできたのが金髪碧眼の美女の貌で。シンは起き抜けに、変な声が出そうになるくらい驚いた。
「おはようございます、榊田様。良くお休みになられたでしょうか?」
「ああ、えっと、その、おはようございます」
頭がぐらぐらとする。酒なんて一滴も飲んでいないのに、まるで悪酔いでもしているみたいだった。目が覚めてくるにつれて、昨夜の記憶が徐々に蘇ってきて。シンは軽く自己嫌悪に陥った。
いくら目立つからって、胸ばかり意識するのは大変失礼なことだ。
コトハはシンに、自分の中にある大切なものを見せてくれていた。それはコトハの、シンに対する信頼の証なのだと思う。
それなのに、あろうことか一番記憶に残っているのが、中学時代のコトハの部屋に脱ぎ捨てられていた下着とか。頭が悪いにもほどがある。シンは自分が情けなかった。
「昨夜はコトハ様が遅くまでちょっかいを出されていたようで、本当に申し訳ありません」
てきぱきとシンの着替えを準備しながら、ブリジットはちょこん、と頭を下げた。宮屋敷家に仕えている者なのだから、そういったことには当然気が付くのだろう。傍目には、ただの愉快な異国のお姉さんという感じなのだが。
「コトハ様がご自分の中に他人を招き入れるとか、とても珍しいことです。お赤飯を炊きましょうと提案したのですが、断られてしまいました。こちらも申し訳ありません」
訂正が必要なようだ。とても愉快な異国のお姉さんだった。
「あれ? 宮屋敷先輩ってもう起きてます?」
あの『超』が付くほどの低血圧モンスターが、午前七時に目を覚ましているとか。そんなことがあり得るのか。
「はい。既にダイニングで朝食を摂られております。本日はコトハ様のリクエストにより和食となっております。着替えと洗顔を済まされましたら、ダイニングにお越しください」
朝日の中で朝食を食べているコトハなんて、そう簡単に拝めるものではないだろう。シンはブリジットが退室するのと同時に、いそいそと準備された部屋着に着替えを始めた。
「おあよー、ああいあうん」
「おはようございます、宮屋敷先輩」
ある意味想定通りで、シンは安心して苦笑した。なまはげみたいなざんばらの髪型で、昨日と全く同じ服装のコトハが、腫れぼったい目で食卓についていた。おぼつかない手つきで味噌汁のお椀を持って、ずずっ、ずずっとちびちび啜っている。湯気で眼鏡が曇って、ズタボロさ加減が二割増しだった。
「コトハ様、しっかりしてください」
「うりー、えむくていからあない」
「眠くてもちゃんと食べてくださいませ。朝御飯は一日の活力ですよ」
ブリジットに言われて、コトハはぐい、と味噌汁を飲み干した。シンがコトハの向かいに着席すると、ブリジットがいそいそと茶碗にご飯をよそってくれた。白米に、しじみの味噌汁、鮭の切り身、だし巻き卵。シンプルだが美味しそうだ。「いただきます」シンは遠慮なくいただくことにした。
「宮屋敷先輩、朝はちゃんと起きてるんですね」
「まぁーね。ブリジットが毎朝必ず六時半には起こしにくるんだよ」
とりあえず普通に会話できるくらいには覚醒したらしい。しかし、目は半分閉じたままだ。意識がどの程度残っているのかは怪しいものだった。
「八時には追い出されちゃうからね。その後は大学の部室で二度寝だ。二時間ちょい頑張って起きてれば、また三時間以上寝ていられる。我慢我慢・・・」
なるほど。四年生で、ゼミ以外に授業らしい授業もないコトハが常に部室にいるのは、ブリジットが毎朝頑張っている成果だったのだ。もっとも、当の本人は大学に来ても部室で昼寝三昧の生活なのだが。
もにゅもにゅとしじみを噛んでいるコトハの方を、シンはちらりとうかがった。昨日ブリジットが言っていた通り、着の身着のままで眠って、そのまま朝食まで出てきたのだろう。寝る前の心象世界とも同じ服装、ゆったりとしたセーターにタックスカートだ。三角帽子がないと、魔女というより、単に寝起きが悪い暗い配色の服を着たお姉さんだった。
「なんだい、榊田君? どこかに何か付いてるかい? それともお好み焼きの匂いが残ってるかい?」
「いえ、そうじゃなくてですね」
シンは姿勢を正すと、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「昨日はすいませんでした。宮屋敷先輩は、俺に色々と自分の中を見せてくれていたのに、俺はその、変なことばっかり考えてしまって」
「ああー、そんなことか」
ごくん、とコトハはしじみを飲み込んだ。
「私の方こそすまなかったね。あの当時は部屋の片付けなんて二の次だったからさ。まさか他人に見せる日がくるとは夢にも思っていなかったよ。榊田君だって男の子だからね、目がいってしまうのは解る。お互い様だ」
「あの当時、に限った話ではないでしょう」
どん、とコトハの前にお茶の入った湯呑を置いて。ブリジットがじろり、とコトハを睨みつけた。
「榊田様からもおっしゃって下さい。コトハ様はご自分の部屋にだけは私に清掃立ち入りの許可をなさらないのに、散らかし放題のぐっちゃぐっちゃで困っているんですよ。昨日だって急に榊田様をお連れするものですから、せっかくのお二人の初夜が別々の部屋なんていう事態に――」
「待てコラ、初夜ってなんだ! そういうのじゃないって言ってるだろう!」
「いーえ、言わせていただきます。お部屋が使えるのでしたなら、私は榊田様をコトハ様のお部屋にお通しするつもりでおりましたのに。昨日は床の上に下着まで放り出してある始末で――」
それに似た状況なら、実はもう見てしまっていた。大学での堕落っぷりから鑑みるに、恐らくはそんなものなのであろうとは予測済だ。二人の言い争いを聞きながら、シンは一口味噌汁を飲んで。
インスタントと違って素晴らしく美味しいことに感動した。
ブリジットの用意した朝食は、見事なものだった。シンはもう少しゆっくりと味わって食べたかったのだが、そんな暇は残念ながらなかった。今日は一限から講義が入っていて、しかも教科書やノートは自宅に置いてあるのだ。まず一度自分のアパートに戻り、講義に必要な荷物を持って、それから大学に向かわなければならない。
「じゃあブリジット、見送りその他よろしく。私はシャワーを浴びて着替えるよ」
ふわぁ、とコトハは大きなあくびをした。朝御飯をしっかり食べて、シャワーまで浴びて。その後、結局大学の部室で寝ているのだから、優雅なものだ。一日に一体何時間眠っているのだろうか。ひょっとすると猫よりも睡眠時間が長いかもしれない。
「榊田君、後で部室で会おう」
コトハはひらひらと手を振ってダイニングを出ていった。
シンも一度あてがわれた部屋に戻ると、忘れ物などがないことを確認し、ぱりっと綺麗にクリーニングされた自分の服を着て玄関に向かった。
「榊田様、本日は大したおもてなしもできずに申し訳ございませんでした」
玄関先で待ち構えていたブリジットが、またもや深々と頭を下げてきた。
「いや、とんでもないです。朝御飯ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
シンの返事を聞いて、ブリジットは更にかしこまった。
「本来ならコトハ様の手料理などをお出しするのが筋な気もするのですが、なにぶん準備が必要でございまして」
コトハは料理などするのだろうか。大鍋をかき混ぜる以外のイメージがどうにも沸きにくい。そう言えば、お好み焼きをひっくり返すのは上手だった。
「ブフ・ブルギニヨンなどは絶品でございます。まだいくらでも機会はございますでしょうから、是非お楽しみにしておいてくださいませ」
それは食べ物の名前なのだろうか。氷結系魔法の間違いではないのか。シンには全くピンとこなかった。
扉を抜けて外に出ると、シンは自分がどこにいたのかを思い出してきた。外なのに外じゃない。ここは高層マンションの三十五階なのだ。普通の高級な住宅の中にいた気になっていたので、脳の処理が追いついてこなかった。
天井のある庭。朝だからか、きた時よりも明るくなっている。鳥のさえずりが聞こえてくるが、これはさすがに録音されているものだろう。だとすれば、昨日の虫の声も天然のものではなかったに違いない。
日中の照明の下で眺めてみると、実に立派な庭園だった。屋内であることを、つい忘れさせてしまうくらいだ。地面にどの程度の深さがあるのかは判らないが、ツツジなどの植え込みは、作り物ではなくて本物だった。流水の中にいるコイも生きているし、維持するだけでも相当な手間だと思われた。
「すごい庭ですね」
「恐れ入ります」
さらりと応えたが、他にスタッフがいないのなら、これらは全てブリジットが面倒を見ていることになる。愉快な異国のお姉さんどころではない。宮屋敷家はまったくもって底が知れなかった。
もはやそちらの方が不自然に思えてくるエレベーターのドアに向かって、シンは歩き始めた。唯一青空が見えないこと以外には、何の違和感もない。緑に囲まれて、シンは清々しい気分になってきた。大きく息を吸い込もうとしたところで。
空気が揺れた。
シンの中に、どろり、とした何かが生じた。初めての感覚だ。シンは驚いて足を止めた。
「榊田様、少々お待ちください」
ブリジットが、急に険しい顔つきになってシンの前に立った。警戒するように、左右に視線を巡らせる。その間にも、シンの中には粘性の強い熱い何かが込み上げてきて、暴れ出そうとしていた。
我慢ができなくなって、シンはその場にしゃがみ込んだ。ふわり、と甘い香りがする。なんだろう、これは確かシャンプーの匂いだ。昨日の夜、風呂を借りた時に使った、コトハの匂いがするシャンプー。
それが今、何故。
「榊田様!」
突然のことに、シンは反応できなかった。すぐ近くの茂みの中から、赤黒い何かが飛び出してきた。形状がうまく認識できない。見たことがあるようにも、ないようにも思える。そのせいもあって、シンの動きは完全にマヒしてしまった。
シンの眼前に、ばんっ、と勢いよく何かが姿を現した。虫。シンの掌よりも大きな、節足動物の腹。わしゃわしゃと蠢く無数の肢が、今にもシンに襲いかかろうともがいていた。
ごくり、とシンは唾を飲んだ。その奇怪な生き物は、シンの顔に届かず、その場でただ身をよじっている。視線を動かすと、ダンゴ虫に似た蛇腹の背中を、小さな白い掌がむんずとつかんでいた。
「シキ!」
シンは思わず声を上げた。いつの間にか、シキがシンの隣に現れていた。その顔には、今までに見せたことのない、怒りと嫌悪が入り混じった感情が浮かんでいる。シキは巨大な赤黒い虫を、そのまま片手で放り投げて捨てた。
「榊田様、立てますか?」
ブリジットに声をかけられて、シンは脚に力を入れてみた。立てる。問題なく動けるようだ。
しかし、未だに自分の中に何かが流し込まれているのは判った。これは何らかの悪意、シンを傷付けようとする害意の塊だった。
「玄関までお戻りください。バックアップいたします」
ブリジットはシンの背中を守るように身構えた。庭の雰囲気は一変していた。先ほどまでの爽やかな空気が消え失せて。
あるのは、ねっとりとまとわりついてくるような、重圧だった。
ブリジットと離れるのはうまくないかもしれない。シンがゆっくりと歩き出すと、その横にシキが従った。シキはシンへの攻撃に対して、反射的に防御行動に出る。それがこんな形で役に立つとは思わなかった。
シキは純粋な魂であり、記憶の一切を持たない。シンを庇おうとするのは、魂に刻まれた本能に近い行動なのだという。かつてコトハがその力を読み取り、魔法使いとしての二つ名が存在することを知って驚いていた。
シキの二つ名は『うつろわざるかぎろい』、通称は『うつろぎ』。産まれる前の者に、生き様など存在するはずはない。これは『在り様』であって、生後には変化するものと考えられたが。
いずれにせよ、シキは、生れ落ちる以前から魔法使いであった。
「走ってください、榊田様!」
ブリジットの叫びを受けて、シンは駆け出した。途端に、周囲に立ち込めていた圧が、一斉に押し寄せてきた。
見えないが、明らかにそこにいる。シンめがけて殺到してくる。
シキが大きく腕を振った。ぎらり、とその眼が光る。無数の何かが空間に衝突し、ぼとぼとと落ちる音がした。そちらを見ている余裕などない。シンは足を止めずに走り続けた。
玄関のドアに辿り着くと、シンはノブをつかんで開けようとした。だがドアは重く、びくともしない。
「しまった、指紋認証です」
ブリジットが急いで追いついてきた。玄関のドアノブには指紋認証システムが組み込まれており、未登録の人間では開けることができない。強固なセキュリティが仇となった形だ。
シンが脇に退いて、ブリジットがドアノブを握った時。
ばつん。
いっぱいに伸ばしたゴム紐が、耐えきれなくなって、引きちぎれるような。
そんな音がして。
ブリジットの身体が、ぐらり、と崩れ落ちた。
シンの前で、白いワイシャツが鮮血に染まった。
膝をついたブリジットの目線の先には。
ドアノブを握ったままの、白い右手の肘から先が残されていた。
「ブリジットさん!」
「指紋認証はクリアできてます! ドアを開けて!」
シンは体当たりするようにドアに貼りつくと、素早く開け放って。
ブリジットの身体を引きずり、家の中に押しやった。
自分も飛び込もうとするその背後で、シキが群がる無数の虫どもを弾き返した。
「手を処分して!」
ブリジットの言葉に反応したのか、シキはぐるり、と視線を巡らせると。
ノブを残された白い腕をつかんだ。淡い光の玉が浮かんで、腕は跡形もなく消え失せた。
激しい音と共にドアが閉じられて。
恐ろしいほどの静寂が、家の中を包み込んだ。




