すべてはここから(4)
白いカーテンが、風にあおられて揺れている。その向こうには、やはり真っ白なシーツで覆われたベッドがある。微かな消毒液の匂いと、規則的な機械音。リノリウムの床に、蛍光灯の光が反射している。
ベッドの上にいる人影が、シンの方を向いて微笑んだ。いや、正確にはそうではない。
これは記憶だ。ここを訪れた誰かに、彼女は微笑みかけたのだ。優しくて、慈愛に満ちていて。
それでいて、どこか悲しげで――
今にも消えてしまいそうな、はかない笑顔。
細い人だった。手足も、身体も。髪の毛でさえも繊細だった。
透けて向こう側が見えてしまいそうなほどに弱々しいのに、不思議と存在感だけはしっかりとしている。それは彼女の中にある強い意志がそう感じさせるのだろう。頬がこけ、首元は筋が浮き出て、鎖骨が掴めそうなほどにくっきりと飛び出ているのに。
その女性は、とても凛々しくて、美しかった。
「私の母だ」
コトハの言葉が、シンの胸に突き刺さった。
ここはどこかの病院だ。一人部屋のベッドの上で、コトハの母は上半身を起こしてこちらを見ていた。大きな点滴の袋から、チューブが伸びて骨ばった腕につながっている。ピッ、ピッという規則正しい電子音が、部屋の中で耳障りに響いていた。
「母は、優れた魔法使いであったが、生まれつき身体が丈夫でなくてね。強すぎる魔力の反動とも言われていたよ」
並んで立つシンとコトハの後ろから、セーラー服を着た少女が現れた。
背中まで届く綺麗な長い黒髪。サイドの部分が丁寧に編み込んである。赤い縁の眼鏡は、シンが初めて見るものだった。
「当時私は中学生だった。高校受験も近かったが、どうしても母のことが気になってね」
中学生のコトハは、母の傍に近寄ると、二言三言言葉を交わした。母の顔が、優しく、明るくほぐれる。中学生のコトハの表情は、どこか暗いままだった。
「母の病状は思わしくなかった。いつその時がきてもおかしくないと、医者にはそう言われていた。私はそれが嫌で、毎日のように病室に通ったよ」
今のコトハが、ぎゅっと帽子をかぶり直した。シンはコトハの顔を視界の外に追いやった。魔女先輩が悲しむ顔なんて。
見たくなかった。
「魔法使いが、病気のひとつも治せないなんて、当時の私は認められなかった。宮屋敷の家は、相当長い間続いてきた魔法使いの家系だ。それが、たった一人の命も救えないとか、そんな馬鹿な話があるか、とな」
コトハは、なんとしても母の命を助けたかった。既に魔法使いとしては一人前の能力を手にしている。できないことなどあるものか。その時のコトハは自分に絶対の自信を持っていた。
「母の病を治す魔術を、私は完成させていた。だが、その魔術には大きな代償が必要だった」
コトハの母は元々生命を支える力が不足していた。本人で足りない分を補うには、他人の命からそれを持ってくる必要がある。それで母の命が救われるのなら、それでもいいとコトハは考えた。魔法使いとして、やるべきこと。コトハはその覚悟を決めていたが。
「母は、私を叱りつけた。決してそんな魔術をおこなってはいけない。『現理』を取り違えるな、と」
シンの目の前で、中学生のコトハが母に叱責されていた。あの身体のどこにそれだけの力が秘められていたのか。猛烈な勢いで責め立てられて。
中学生のコトハは、憤然として早足に病室から出て行った。その目元に涙が浮かんでいたのを、シンは見逃さなかった。
「これが、生きている母を見た最後だった」
途端に、辺りは真っ暗闇に包まれた。光も、音も。何もかもが消え失せた。暗黒の中に、シンとコトハだけが忘れ去られたように取り残された。
シンの横で、コトハがしっかりと手を握ってくる。その力が強くなって。
「榊田君」
コトハの悲しみが、シンの中に流れ込んできた。
コトハは、母のことが大好きだった。いつも優しくて、温かくて、柔らかくて。魔法使いとして強く、気高く。母親として聡明で、慈しみの心を持っていた。コトハの憧れであり、最も身近にいてくれる、最も尊敬する人物だった。
「榊田君とは、少々事情は異なっているのだけど」
コトハが、シンの方を向く気配がした。そちらを見ると、シンの予想に反して、コトハは泣いてはいなかった。
はにかんだような笑顔。シンは恐らく今までで一番、コトハに対して胸がときめいた。コトハの心が開いているのを感じる。いや――
ここは既に、コトハの心の中なのか。
「私もね、榊田君。『片親』なのだよ」
シンには父親がいない。
シンが幼い頃に両親は離婚して、シンを引き取った母親は違う男性と再婚した。新しい夫との間に娘ができて、シンの居場所はどこにもなくなった。
自分は『片親』だった。その想いは、コトハにも見られている。別にそのことはそこまで気にしてはいなかったが。
コトハもまた、母親をなくした『片親』だった。
「宮屋敷先輩、俺は――」
「ああ、勘違いしないでくれたまえ。私は別に、傷の舐め合いがしたいとかじゃないんだ」
コトハはシンの方に向き直ると、つないだ手を胸の前まで持ち上げた。
「まあなんだ、私には、榊田君の苦しみは、ちょっとは理解できるつもりだってことだ。この記憶は、君の中を見てしまった私が、君のことをどう考えているのか、ということの参考にしておいてもらいたい」
暗闇の中で、コトハの姿だけがぼんやりと光を放つように浮かび上がっている。シンは、コトハのことを綺麗だと思った。今までもそう思っていたし、これからもそう思う。魔女先輩は、とても綺麗で。
とても、素敵だ。
「さて、君に見せたいものというのはこれではなくてね、この先のものなんだ」
コトハの言葉を受けて、周囲に別な景色が現れた。
ベッドに、勉強机に、本棚、衣装ケース。電気の消えた薄暗い室内は、誰かの部屋のようだ。片付いている、とはやや言い難い状態で、絨毯の上に本やら何やらが散乱している。壁に掛けられた制服に、シンは見覚えがあった。あのセーラー服は。
「あんまりあちこちは見ないでくれ。これは中学生の頃の私の部屋だ」
コトハが小さく咳払いした。コトハの部屋だと言われて、シンはむしろ興味が増した。ぐるり、と見回してみる。
夜明け前の時間なのか、暗くて細かいところはよく判らない。しかし、本棚にあるのは大部分が漫画なのと、勉強机の上がごちゃごちゃになっていて全く使えそうにないのは見て取れた。それから、床の絨毯の上に散らばっているものの中に、大きなブラジャー・・・
「榊田君、そういうところはいいから。君に見てほしいのはコッチだ」
シンの首を掴むと、コトハは無理矢理別の方向にぐきっ、と捻った。とはいっても、視界から消えたところで、そのインパクトはなかなかシンの中から消えてくれなかった。中学生であのサイズはどういうことだろう。反則というか、犯罪だ。
コトハが示した場所には、薄緑色のカーテンが引かれていた。その向こうに、ガラスの大きなサッシがある。夜明けが近付いていて、うっすらと空が白んでいるのが判った。
もそり、とベッドの上で何かが動いた。中学生のコトハだ。今まで眠っていたのか、焦点の定まらない眼でぼうっとサッシの方を眺めている。着崩れたパジャマの隙間に気を取られて、シンは慌てて目線を逸らした。
「榊田君がロリコンだとは思わなかった」
「待ってください、その批判はおかしい」
これには流石にシンは抗議した。「女子中学生が好き」と言えば、確かにロリコンのそしりを受けることは免れ得ないかもしれない。しかし、コトハに関しては何かが違う。中学の時からあの大きさとは、末恐ろしい。というか、あれがあっての今なのか。
「もう、そういうのは今度ゆっくりと見ていって良いからさ」
はぁ、とコトハは溜め息を吐いてから。
静かな声で語り出した。
「母が死んでから、私はしばらく何も手につかなくてね。ずっと部屋に引きこもっていた」
それがこの部屋の惨状なのだろう。良く見ると、中学生のコトハの目元は真っ赤に腫れていた。髪の毛がべったりと顔に貼りついて、ぐしゃぐしゃになっている。
「母を助けられなかった自分、そして魔法使いに絶望していた。こんな力があっても、肝心な時に何の役にも立たない。魔法使いなんて、何のためにいるのかさっぱり判らなかった」
何かを、自分の命ですらも犠牲にして、コトハは母を助けたかった。だが、その行為は母自身によって否定されてしまった。魔法使いの『原理』に、そして、コトハの持つ二つ名『現理』に反するとして。
「『現理』とは何なのか、私には判らなかった。もっと幼い頃の私は、それを理解していたと言われていたが、中学の私は見失っていたのだな」
母の命が救えるなら、『現理』なんてどうでもいいと思った。母には黙って、コトハは準備していた魔術の儀式をとりおこなおうとしていた。
「母に儀式のことを話したその日の内に、母は命を落としてしまった。結果として、私は『現理』に反することはなかった」
その代わり、コトハは悲嘆にくれた。自身の無力さを呪い、世界の残酷さを呪った。
「母のいない世界になんて、私は意味がないと思っていた。母は私にとって、それだけ大きな存在だったんだ」
コトハのことを、いつも明るく照らしてくれた母親。そんな母が死んで、いなくなってしまえば。
この世界には、何の価値もない。
何のためにあるのか判らない。
そこにある全てのものに、意味なんてない。
世界なんて、必要ない。
――その時。
カーテンの隙間から、一筋の光が射した。
眩しい。その光は真っ直ぐに、ベッドの上にいるコトハの顔にいき当たった。思わず目を細めて、中学生のコトハはその向こうにあるものを見据えようとした。
ベッドから降りて、カーテンに手をかける。一息に開け放つと、その先にあるものが姿を見せた。
夜明けだ。
窓の外、山肌を越えて、黄金の太陽が顔を覗かせている。無限の輝きに照らし出されて、雲が、稜線が。色鮮やかに世界を彩っていく。光が、全てを輝かせていく。夜を切り裂いて、闇を駆逐して。
世界を、美しく浮き彫りにしていく。
「どうだい、榊田君?」
コトハの問いに、シンはようやく我に返った。中学生のコトハも、その場で立ち尽くしている。シンは、恐らくその時のコトハと同じ心境だった。
「・・・綺麗です」
目の前で繰り広げられる光景を見て、シンはそれ以外の言葉が何も出てこなかった。太陽の光を受けた、人の住む世界の光景。繰り返される毎日の中の、ほんの一瞬、ほんの一握りの瞬間に過ぎないのに。
シンにはそれが、とても貴くて。限りなく美しいものに感じられた。
コトハは満足そうにうなずいた。
「そうだね、とても綺麗だ」
中学生のコトハの目から、涙が一筋こぼれた。
「私もそう思った。綺麗だって。世界は、なんて綺麗なんだろうって」
母を失って悲しんで流していた涙が消えて。
世界の美しさに心動かされた涙が取って代わった。
「母がいなくなっても、私の母への想いはなくならない。母を慕う気持ちは変わらない」
娘のコトハに、惜しみない愛を与えてくれた母。その母が死んでしまっても、コトハの中から消えてしまうわけではない。
「母がいなくなっても、世界は何一つ変わらない。世界は美しいままに、そこにあり続ける」
コトハの目に映る世界はとても綺麗で、コトハの周りからなくなってしまうことはない。世界は残酷でも何でもない。ただ、あるがままに、そこに存在している。
「その時理解したんだ」
中学生のコトハが。
今のコトハが。
朝日に向かって、掌を伸ばした。
指の間から、黄金の輝きが溢れる。眩しくて目を開けていられない。
しかしそれでも。
その先にある答えを、コトハは掴み取った。
「『現理』とは何か。私は、初めてそれを正しく理解した」
ざわざわ、と草の海がざわめく。どこまでも続く、広い広い草原。そこに置かれた、小さな白いベンチが一つ。
気が付くと、シンはコトハと一緒にこの場所に戻ってきていた。見上げると、抜けるような青空だ。緑と、青。静かで、穏やかで。吹き抜ける風も、心地よい。
これが、今のコトハ。『現理』を知ったコトハの中、心象世界なのか。
「今日のツアーはここまでだ。何か質問はあるかな?」
コトハはシンの手を離すと、軽く眼鏡の位置を直した。
「あー、中学の時のカップ数とかは訊かないでくれよ。セクハラだ」
「訊かないですよ」
確かにかなり強く印象に残ってはいる。そんなものを見せられるとも思っていなかったので、シンはかなり動揺してしまった。コトハはそういった『揺らぎ』を鋭く察知してくる。油断がならない。
「榊田君って、草食系だと思わせて実は結構むっつりだったりする?」
「俺も普通に男なんですってば。自分で連れ込んでおいてメチャクチャ言わないでください」
コトハはくつくつと笑った。いつも通りの、魔女先輩だ。
「ああ、でもそうですね」
シンは目の前のコトハのことをじぃ、と見つめた。心象世界の中とはいえ、普段のコトハそのままの外見だ。大体黒系のタックスカートに、ゆったりとしたセーター。後は三角帽子。きらり、と眼鏡のレンズが光る。今のコトハも、美人で素敵だが。
「中学生の宮屋敷先輩も可愛かったです」
セーラー服で、髪も少しおしゃれに結んでいて。眼鏡もきらきらした赤いフレームで。
そしてスタイルもばっちりだ。シンの通っていた中学にあんな女子がいたら、大人気間違いなしだっただろう。
「榊田君、君ねぇ・・・」
コトハはじっとりとシンのことを睨みつけた。
「それで私が喜ぶとでも思ったのかい? ロリコンは犯罪だ。青少年保護育成条例でしょっぴかれるぞ?」
コトハに『揺らぎ』が生じるかとも思ったが、そんなことはなかったようだ。シンは笑ってごまかした。
「まあ自慢じゃないがモテたよ。ラブレターとかも結構な数をもらった。もっとも、どいつもこいつもって感じだったけどね」
嫌なことでも思い出したのか、コトハはうげっ、と顔をしかめた。何かが見えてくるだろうか、とシンが注目したところで。
コトハは、シンの目の前に人差し指を突きつけた。
「今の榊田君と同じ。そういうスケベ心はノーサンキューだ」
シンの視界がぐにゃり、と歪んで。
シンはコトハの中から追い出された。そのままベッドの上で眠りに落ちる。『感応』の能力もほどよく使った後なので、朝までぐっすりだろう。
「まったく、しっかりしてくれよ、パパ」
自分の心、緑の草原に残ったコトハはそう独りごちると。
ふふっ、と柔らかく微笑んだ。




