すべてはここから(3)
お湯が心地よい。少し熱いくらいの澄んだ湯が、大きめの湯船一杯に満たされている。これで風呂場が総檜造りだったり、ライオンの口から湯が沸いていたりだったりしたら。シンはキャパシティオーバーでいい加減気を失っていたかもしれない。
少々広い感じはするが、浴室はいたって普通のものだった。窓の外から虫の声が聞こえてきたり、冷静に考えるとおかしい点は多々あったが、考えたら負けだ。
シンは両掌でお湯をすくうと、ばしゃっと顔にぶつけた。うん、思考停止。無駄無駄。じんわりと身体が温まってくる。悩んでも何一つ解決なんてしない。今は風呂を堪能しよう。
シンを出迎えてくれたのは、コトハの召使いをしているブリジット・ダルレーだった。コトハと同じくらいの年頃だろうか、二十歳くらいに見える、金髪碧眼、真っ白い陶器のような肌を持つ異国風の女性。金髪はきちんとまとめ上げられていて、形のいい耳が全体をさらしている。コトハに似て意志が強そうだが、くりっとしていてどことなく愛嬌を感じさせる青い瞳。彫りが深く、それでいて柔らかい印象のする美人だ。ぴったりとした白いワイシャツに黒いスキニーという格好で、腰に巻いたエプロンが召使いという役割をしっかりとアピールしていた。
「コトハ様がご迷惑をおかけして申し訳ございません」
丁寧でしっかりとした日本語で話しかけられて、シンはパニックに陥った。見た目が完全に西欧の人間であるため、その言葉を発したのがブリジットである、という認識がなかなか追いついてこなかった。
そうでなくても、ここまでが驚きの連続で。
そして、その連鎖は留まるところを知らなかった。
玄関の中に入ると、そこは普通の一軒家となんら変わらなかった。シンは確か高層マンションの三十五階にいるはずだ。しかし、目の前にあるのは広くて美しい、豪華な屋敷の玄関ホールだった。すぐそこには、二階に上がる階段まで見えている。
「その階段は屋上にあるペントハウス部分に通じている。夏場は屋上の広場でバーベキューしながら花火でも見よう」
コトハの方を向いて口をパクパクさせただけで、シンの質問は通じたらしい。さらりと応えたコトハの言葉に、シンの混乱は更に深まった。
マンションの最上階に庭付きの一戸建てがあって。金髪碧眼で日本語ペラペラの美人召使いがいて。階段を登るとそこはマンションの屋上につながっていて。夏場には花火でバーベキュー。
なるほど、わからん。
「榊田君も疲れただろう。明日は早いんだろうから、風呂にでも入ってゆっくり休んでくれたまえ」
そうだ、明日は朝から講義があるんだ。
「榊田様、どうぞこちらへ」
矢鱈とふかふかしたスリッパに履き替えて。シンは意識までふわふわしながら、広い廊下を進んでいった。
「湯加減はどうのこうの」と言ってブリジットなりコトハなりが浴室に入ってくるトラブルイベントは、残念ながら発生しなかった。全自動のパネルがあるのだから、温度調整くらいのことはシンが自分でどうにかできる。今なら何が起きても驚かない自信はあったが、ここだけはまさかの肩透かしだった。
服は下着まで全て、ランドリーバッグに入れておけば良い。そうすれば明日の朝にはクリーニング完了しておいてくれるそうだ。着替えは来客用のものがワンセットあるので、風呂からあがったらそれを着る。サイズに問題があるようなら、2サイズ分は融通が利くという。ここはホテルか何かなのだろうか。
脱衣所に戻ると、薄い水色のシンプルなパジャマと、バスローブが用意されていた。バスローブに興味はあったが、絶望的に似合わない気がしたのでやめておいた。
サイズは下着までピッタリだった。シンは、自分がトランクス派だということはコトハには話したつもりはなかったのだが。これは偶然なのか、それともどこかで情報が漏えいしているのか。魔女先輩相手に今更か、とシンはやはり深く考えるのはやめておいた。
「お疲れ様でございました」
リビングに入ると、ブリジットが深々と頭を下げてきた。どうにも慣れずに、シンはその場でぽかんと立ち尽くしてしまった。助けを求めるようにコトハの姿を探したが、ここにはいないようだった。
「ええっと、宮屋敷先輩は?」
「大変申し訳ありません、コトハ様は『眠い、寝る!』と申されまして、すでに自室の方でお休みになられております」
コトハらしいと言えばコトハらしい。部屋にある時計を見ると、もう日付が変わってだいぶ経っていた。シンも明日は早めにおいとましなければならない。コトハもいないなら、今夜は眠ってしまいたかった。
「じゃあ、俺ももう寝ようかと思うんですけど」
「はい、そのことに関してなのですが」
非常に申し訳ない、という様子で、ブリジットは話を切り出した。
「下の階のゲストルームを抑えることも可能だったのですが、コトハ様よりそんなことはせず、こちらで気兼ねなくお休みいただくように、と仰せつかっております」
ゲストルーム。また自分の知らない世界の言葉が飛び出してきて、シンは立ちくらみがしてきそうだった。判った、ここは異世界だ。知らない間に転生してしまったに違いない。魔法使いとかもチート能力だ。そういうことにしてしまいたかった。
「どこでも良いですよ、そこのソファでもなんでも」
リビングには、大きなテレビとそれを囲む立派なソファが置かれている。部室に置いてあるソファもお高いものに思えるが、こちらはその上をいく感じだ。ベッド代わりにしたら製作者に失礼かもしれない。
「いえいえ、コトハ様の大切な方に、そのようなことはさせられません」
ブリジットは慌てて首を横に振った。
「そうではなくてですね、その、コトハ様が本当に着の身着のままでお休みになってしまわれたので、準備が全くできていないのですよ」
「準備?」
ブルジョワジーには、まだシンの知らない作法的な何かがあるのだろうか。ブリジットはこっくりとうなずいた。
「はい。榊田様がそのような趣向がお好みということなら構わないのですが、その、夜伽の方の準備が」
「い、いや、しません! しませんってば!」
シンは一息に現実に戻ってきた。この金髪美人の召使いは、流暢な日本語で一体全体何を言い出すのやら。
「しかし、送りオオカミでございますよね? 何も期待されていないということはないと思いますので、相応のおもてなしは必要ではないかと」
「大丈夫です。お気遣いなく!」
「・・・左様でございますか」
しゅーん、とブリジットは縮こまってしまった。可哀相な気もしてくるが、だからと言ってその申し出を受け入れてしまえば、よりとんでもない事態を招き入れるのは目に見えている。
「コトハ様が、男性の方をこの家にお泊めになるのは初めてのことですので、もうすっかりそういうことかと」
「それは光栄ですけど、残念ながらそういうことではないです」
まだ何かを言いたそうにしながらも、ブリジットはシンを客用の寝室に案内してくれた。シンプルにベッドと時計、空調と簡単な衣装棚だけが置いてある部屋だ。ようやく落ち着けそうな部屋に通されて、シンはがっくりと全身の緊張を解いた。
「それではお休みなさいませ」
ドアが閉じられると、室内はしん、と静かな空気で満たされた。微かにコトハの匂いがする。そう思ったら、それは先ほど使ったシャンプーの香りだった。日々愛用しているものなのだろう。コトハがすぐ近くにいる気がして、シンはなんだか気恥ずかしかった。
ベッドに腰掛けると、シンの脇にシキが現れた。何かを期待しているかのような笑顔は、ブリジットのものと少し似ていた。
「そんな顔しても、今日はもう寝るだけだよ」
期待などしていなかった・・・と言えば嘘になる。召使いが一緒とはいえ、親元から離れて暮らしている女性の部屋に上がり込むのだ。それに、コトハとは知らない仲でもない。シキという娘が産まれる未来まで見えてしまっている。二人の間に何かがあったとしても、それは全て「今更」のことだ。
「まあ、だからこそ良く考えて決めたいんだけどね」
大学に入ってから、シンはずっと状況に流され続けている気がしていた。コトハと出会い、シキと出会い、魔法研究会に入った。その流れで、このままコトハと一線を越えたとして・・・
それで良いのかと、シンは常に疑問に思っていた。
確かにコトハは美人だ。恋人に、そして妻になると言われれば嬉しい。まだ知り合ってそれほど経ってはいないが、人物としても悪くはないと思い始めている。
それでも。いや、だからこそ。
好きになるなら、ちゃんと好きになりたいし。
好きになってもらいたかった。
「シキもその方が良いだろう?」
シキが消えていないということは、その可能性はまだ残っているということだ。焦る必要は全くない。
今夜だけで、シンは自分の知らないコトハのことをこれでもかと見せつけられた気分だった。お金持ちで、召使いがいて、びっくりするような豪華な家に住んでいる。こんなことは、きっとこれからも沢山あるのだろう。
この先、たとえどんなコトハを見せられたのだとしても。
コトハのことを好きだと言える自信が持てたのだとしたら。
その時は、シンは遠慮なくコトハの身体に手を伸ばして、触れるのだと思う。多分。恐らく。ことによると。
「榊田君、榊田君」
名前を呼ばれて、シンはゆっくりと覚醒した。暖かくて、なんだかふわふわとしている。確か、コトハの家の客用の寝室で眠っていたのではなかったか。
目を開けると、眩しい光が飛び込んできた。思わずそれを手で遮ろうとして、シンは自分が現実にいないことに気が付いた。
手の輪郭が、ぼやけている。太陽に透かしているせいではない。意識を集中させると、徐々に体の感覚が明確になっていく。ここは、心象世界の中だ。
「やあ、ようこそ、榊田君」
すぐ近くでコトハの声がして、シンはむくりと身体を起こした。辺りは、見渡す限りの緑の草原だった。青空の下で穏やかな風に揺られて、ざわ、ざわ、と静かに波打っている。そこに置かれた白いベンチの上に、シンは横になっていた。
「宮屋敷先輩」
コトハはベンチの前に立っていた。つば広の、大きな黒い三角帽子。心象世界の中で、コトハの存在を示す記号だ。シンが起きるのを見て、コトハはにっこりと笑った。
「ごめんね、もう眠っているところだっただろう」
「はい、まあ、大丈夫です」
ぼんやりとしている感じはするが、調子は悪くない。それに。
正直に言って、コトハの顔が見れたのは嬉しかった。
「ここはどこなんですか? 俺、何かに同調しちゃってます?」
シンの『感応』は、制御がまだ不完全だ。コトハの家の中にある何かの記憶に触れて、無意識のうちにその中身を見てしまっているのかもしれない。シンはそう思ったのだが。
「違うよ。今君が見ているのはね、私の中だ」
「宮屋敷先輩の、中?」
コトハは小さくうなずいた。
「普段榊田君が見ているのは、実は榊田君自身の内面なんだ。物に込められた記憶に喚起されて、君は自分の内面に入り込む。そして、そこにあるスクリーンに他者の記憶が映し出される。そういう仕組みだと思ってくれ」
残されている記憶というものは、映画のフィルムのようなものだ。シンの能力はその記憶を見つけて、面白そうだと思えば勝手に自分の中で上映を始めてしまう。他の誰かがそれを観るためには、シンの中に入らなければならない。
「前にも説明したかもしれないがね。今まで私は君と一緒に色々な心象風景を見てきたが、その度に君の中に入っていたのだよ」
「はあ」
心象世界の中で、シンはいつもコトハにサポートしてもらっていた。その場所は全て、シンの心の中だった、ということか。
「榊田君の中で、私も別に好き勝手をしてきたつもりはないのだけど。それでも、私ばかりが榊田君の中を覗いている、というのはフェアじゃない気がしたんだ」
フェア。コトハの言葉に、シンは首をかしげた。
コトハに自分の中を見られていたからといって、シンにとって困るようなことは何もないように思えた。
シンがコトハに『栓』を外してもらい、魔法使いとしての力を手に入れた時。コトハはシンの二つ名を読むために、シンの心に触れてきた。優しくくすぐられるような感覚と共に。
シンはとても安心したのを覚えている。
コトハなら、大丈夫。
魔法使いの力を得るのと同時に、シンはコトハに対して絶対の信頼を持つようになった。それは、シンの持つ魔法使いの力がそう理解させてきた。シンにとって宮屋敷コトハは、魔法使いとして誰よりも、何よりも信用のおける人物だ。事実、コトハがいてくれれば、シンは自分の力のことで思い悩むことは何もなかった。
「榊田君とこういう時間を取れる機会というのは、ありそうでなかなかないからね」
そう言うと、コトハは大きく両手を広げてみせた。ざあっ、と風が吹いて。
緑の草原が、生き物のように激しくうねった。
「今日はせっかくだから、私の心の中にご招待した。さあ、なんでも覗いていってくれたまえ」
「なんでもって・・・」
シンが言葉を詰まらせたのを見て、コトハはふふん、と意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「お風呂の記憶とかが良いかね? 榊田君も男の子だなぁ。でもそういうのが良いなら、わざわざ心象世界でなくても構わないだろうに」
「違いますよ。そんなものは見ません」
シンはすぐに否定した。コトハのシャンプーの匂いのことを思い出しただけだ。考えなかったわけではないが、確かにいちいち心象世界の中にまできて覗き見するような内容ではない
コトハの記憶。シンは目を閉じると、心を落ち着けて考えてみた。
コトハにだって、見られたくないものくらいはあるだろう。それを無理に暴いたとして、シンには大して得があるとも思えなかった。
コトハがシンに色々と気を遣ってくれているのは理解している。それに、可能性とはいえ自分の妻になるかもしれない女性だ。嫌がらせるようなことはしたくないし。それに。
何より、後で娘のシキに話せなくなるような醜態はさらしたくなかった。
シンはコトハに向かって、きっぱりと宣言した。
「俺は、宮屋敷先輩が見せたいと思ったものだけを見ますよ」
「・・・榊田君は真面目なのかヘタレなのかわからんなぁ」
少々面食らいながらも、コトハはどこか嬉しそうだった。
「じゃあ、ちょっとばかり付き合ってくれるかい? 君に、榊田君に見てもらいたいものがあるんだ」
コトハが伸ばしてきた手を。
シンは、しっかりと握った。細くて柔らかくて、それでいて、いつも力強い魔女先輩の掌。
きっといつか、誰よりも好きになる人。そう思えば、いやが上にも胸が高鳴った。




